# 第35話 書庫の主と、丸くなった人
王宮書庫は、紙の大聖堂だった。
三層吹き抜けの書架、天窓から落ちる斜めの光、黴と革と蜜蝋の匂い。その全部を四十年管理してきた主が、老司書のペルグリン氏である。
「継承先例の調べなら、まず二百年前の『エルスワース女辺境伯の裁定』からですな。それと百六十年前の『二重相続の答申』。……ふむ、お嬢さん、書架の扱いが丁寧だ。よろしい、閉架も出して差し上げよう」
書庫の主の信頼は、本の扱いで決まるらしかった。前世で他人様の釣書を三十年扱った手つきが、こんなところで効いた。
日参三日で、表の収穫は上々だった。エルスワースの裁定は、女子継承を認めた上で「当主の器は性別に非ず、領民の信に在り」と明文で謳っている。ノルデン領の上申書と繋げれば、評定二日目の柱になる。私は写しを取り、注を付け、夜ごとお嬢様の答弁書に組み込んでいった。
裏の収穫は、ゆっくりだった。
書庫の台帳を「先例調べ」のついでに眺めるうち、妙な定期発注を見つけた。除湿の炭、月に二十貫。書庫の規模には多すぎる量が、四十年、欠かさず続いている。納入先の記載は「書庫・北西区画」。だが北西区画の書架は、どう数えても、地上の三層で終わっている。
地下は、生きている。呼吸するように、炭を食べながら。
ペルグリン氏の色も、視た。澄んだ、紙を愛する人の色。その底に一枚だけ、四十年物の、固く閉じた色があった。嘘の色ではない。秘密を守る者の色だ。この人は知っている。知っていて、四十年、口を閉じている。
こじ開ける相手ではない、と私は判断した。この手の色は、鍵で開く。信頼という名の、時間のかかる鍵で。
――老侯爵の調べは、書庫の外で進めた。
ハワード侯爵、七十四歳。王家の縁戚、評定官の最年長。社交界での評は「温厚な長老」「角の取れた御仁」。
だが名鑑を三十年遡ると、別人がいた。
「……『苛烈』『論戦の獅子』『先王陛下にすら諫言』」
公爵家の書斎で、私は古い名鑑の評を読み上げた。お嬢様が、作業台から顔を上げる。
「今の好々爺と、同じ人?」
「同一人物です。四十年前のハワード侯爵は、貴族院一の改革派でした。それが――三十年前を境に、ぱたりと。当時の言い方を借りれば『丸くなった』。以後三十年、目立った発言は一つもありません」
「三十年前に、何があったの」
「先王陛下の崩御と、当代陛下への代替わりです。継承の順位を巡って、宮廷が二つに割れかけた。ハワード侯爵は――順位に、異を唱えた側の筆頭でした」
沈黙が、落ちた。
異を唱えた獅子が、代替わりの直後から、三十年、静かになった。
北の領の言葉で言えば――波風を、立てなくなった。
「……宮廷は、前からやってたのね」
お嬢様の声は、氷点下だった。
「政敵を殺すんじゃなく、黙らせるんでもなく、『丸く』する。経歴も名誉もそのままに、牙だけ抜いて、椅子に座らせ続ける。誰も不審に思わない。人は歳を取れば丸くなるものだと、みんな思ってるから」
「三十年前の紗が、あの深さの説明になります。……そして、施術者は」
「音の男。百四十年前からいて、王家より古くて、王家の方が道具を借りてる――初代様の見立て通りなら、ね」
お嬢様は、作業台の上の銀の音叉を、火ばさみで摘まみ上げた。北の鐘楼の「餞別」である。この十日、彼女はこれを分解寸前まで検分し続けていた。
「こっちも収穫よ。この音叉、ただの道具じゃなかった。柄の中に、共鳴の癖が刻んである。あの男の術式と同じ手癖――つまりこれ、『同じ手の作品』を探す検波器に転用できる。まだ調整中だけど、完成すれば、紗や刻印に近づけると鳴るわ」
「……敵の署名で、敵の作品を探す」
「餞別の礼には、それが一番だと思って」
悪童の顔が、にやりと笑った。
――評定二日目を三日後に控えた、書庫日参の五日目。
閉架の写しを返しに行った私に、ペルグリン氏がふと、手を止めて言った。
「お嬢さん。四十年この書庫の主をしておりますとな、調べ方で、人がわかる」
「……と、申しますと」
「あなたの調べ方は、綺麗だ。目的の棚に一直線に行かず、周りの棚から外を埋めて、核心を最後に残す。手癖を悟らせない、玄人の調べ方だ。……実はな。あなたと同じ調べ方をする方を、昔、もうお一人だけ、存じておる」
老司書は、眼鏡の奥から、静かに私を見た。
「二十年前から、つい先年まで。フローレスの、ギデオン様。……あなた、お顔が、少し似ておられる」
書庫の斜めの光の中で、私は、すぐには返事ができなかった。
叔父も、ここに通った。二十年。同じ棚の前に立ち、同じ台帳をめくり、たぶん、同じ炭の発注に気づいて。
私はいま、叔父の轍の上を、歩いている。
「――姪に、あたります」
迷って、それだけを、正直に言った。
ペルグリン氏は「ほう」とも「やはり」とも言わず、ただゆっくりと頷いて、返した写しを棚に戻した。それから、独り言のような声で、付け足した。
「ギデオン様はな、最後の頃、決まってお訊きになった。『北西の階段の鍵は、誰が持っているのか』と。……わしは四十年、同じ答えしか持っておらん」
「……その答えを、伺っても?」
「『鍵は、王家の影が持っている』」
老司書は書架の谷の向こう、北西の暗がりへ、目だけを向けた。
「そして影は、な、お嬢さん。――こちらが探すまでもなく、探す者の前に、現れるのだよ。昔から、そういう決まりでな」
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(第35話 了)




