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# 第32話 いつかの子へ



 封蝋は、百四十年、破られていなかった。


「……叔父様は、これを二十年、持っていたのに」


「開けなかったのね。宛名が、自分じゃなかったから」


 言われて、気づいた。


 眼の家の、いつかの子へ。――叔父に、眼はなかった。フローレスの眼は、代ごとに出るものではない。父にもなく、祖父にもなく、百四十年の家譜の中で、確かな記録は数えるほど。叔父は二十年、自分に宿らなかった力の来歴を調べ続け、宛名の違う手紙を、封も切らずに弾薬箱の底に仕舞っていたのだ。


 お前の眼は、本物だよ。


 あの呪いの言葉の底が、また一段、深くなった。


 私は蝋に指をかけ、百四十年ぶんの重さごと、封を切った。


 中身は、細かい字で埋まった数枚の便箋だった。私は声に出して、読んだ。隣で、お嬢様が聴いていた。


『眼の家の、いつかの子へ。


 この手紙を読む君は、私の眼を継いだ者だろう。宛名にそう書いた紙を、眼のない者は開けまい。フローレスの人間は、昔から、そういうところだけ律儀にできている。


 名乗ろう。エリアス・フローレス。眼の家の、初代だ。もっとも君が読む頃、この名は家譜から塗り潰されているはずだが。


 私の罪については、記録の側から知っただろうから、短く済ませる。私は王家の鋏だった。百の縁を摘んだ。どの縁も、摘まれる理由を持たなかった。摘む理由を持っていたのは、いつも系図の側だった。私は百本、それに目を瞑った。目を瞑れる程度の細い縁を選んで回されていたのだと、今は思う。


 百一本目は、瞑れなかった。


 視てしまったからだ。あの色を視て、なお鋏を持てる者がいるなら、それはもう、眼を持っていない。


 さて、君に遺したいのは、後悔ではない。手掛かりだ。三つ、書く。


 一つ。摘まれた縁の記録は、燃やされない。王家は、何も捨てない家だ。王宮の地下に「剪定録」と呼ばれる書庫がある。百年、あるいはもっと前からの、摘まれたすべての縁の記録が、そこに綴じられている。誰が、誰との縁を、なぜ摘まれたのか。すべてだ。王家の脛の傷の総目録と言い換えてもいい。在り処を知る者は数えるほどで、私は数えられる側だった。


 二つ。音の男に、気をつけなさい。彼は王家の影ですらない。影というものは主に従うが、彼は違う。彼は王家より古くからそこにいて、王家の方が彼の道具を借りている――獄の中で、私はそう確信するに至った。彼が何かを「整える」とき、王家の命令は口実にすぎない。彼自身の楽譜が、別にある。


 三つ。これが一番大事だ。心して読みなさい。


 私は、守り損ねていない。


 少なくとも、諦めてはいない。剪定の命が下りた夜、私は二人に報せた。摘まれる縁は、逃げる縁になれる。南の港に、荷を問わない船を一艘、手配した。船の名は「つばめ」。私が獄に落ちたのは、その三日後だ。船が出たかどうかを、私は知らない。アデル嬢の「病没」が真実か、船出の隠れ蓑かも、知らない。


 知らないまま、獄で死ぬのだろう。だが、いつかの子よ。知らないということは、まだ、どちらでもあるということだ。


 視た縁を、どうか一つでいい、守り切ってくれ。私の分まで、とは言わない。君には君の視る色があり、守るべき縁は、たぶんもう、君のすぐ隣にある。眼というものは、昔からそういうふうに、宿るべき場所に宿る。


 縁を尊ぶ子にしか、この眼は濃く出ない。君がこれを読めている時点で、私は君を、信じられる。


 エリアス・フローレス』


 読み終えたあと、書斎は長いこと、静かだった。


 便箋を置く。手が、少し震えていた。百四十年前の獄から投げられた声が、まっすぐ、こちらの胸に着水していた。


 守るべき縁は、たぶんもう、君のすぐ隣にある。


 隣を、見られなかった。見たら、いろいろなものの封が、切れてしまいそうだった。


「……つばめ、ね」


 先に口を開いたのは、お嬢様だった。声が、少し湿っていて、それを隠すみたいに、事務の速度で続けた。


「南の港。荷を問わない船。百四十年前の船籍記録……残ってるとしたら港湾組合の古文書か、教会の航海祈祷の控えね。それと『剪定録』。王宮の、地下」


「王宮の地下は、さすがに、殴り込めませんが」


「殴り込まないわよ。……でも、フィオナ。気づいてる? 私たち、いま王宮に、正面から入る用件を一つ、持ってるのよ」


 一拍おいて、思い当たった。


 女公爵継承の、特例申請。オールウィン家の申し立ては近く評定にかかり、当主候補たるお嬢様は、王宮に出向くことになる。


「継承の評定と、剪定録。……同じ建物の、表と地下」


「そういうこと。表で系図と戦って、地下で系図の罪を掘る。――一粒で二度おいしいでしょ」


 お嬢様は便箋を丁寧に畳み、油紙に包み直した。その手つきは、歌う小箱を扱うときと、同じだった。


「初代様の依頼も、追加受注よ。摘まれた縁の行方、二件目。……報酬は」


「報酬は?」


「『守り切ってくれ』――だそうだから。利子をつけて、果たすわ」


 どの縁を、とは、今夜も言わなかった。


 言わないまま、書斎の灯りの下で、百四十年前の手紙は、私たちの次の航路図になった。南の港の「つばめ」と、王宮の地下の「剪定録」。


 過去から来た二本の糸が、未来の二方向を、指していた。


---


(第32話 了)


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