# 第33話 つばめの行方
南の港町ルーメルまでは、王都から馬車で二日だった。
潮風と、魚と、タールの匂い。石畳の坂を海鳥が歩き、桟橋には南方航路の帆柱が林立する。百四十年前も、この港はきっと、同じ匂いをしていたのだろう。荷を問わない船が、一艘くらい紛れていても、誰も気に留めない匂いを。
「手分けしましょ。私は港湾組合、フィオナは教会」
調べ物の常で、紙は、簡単には口を割らなかった。
港湾組合の古文書庫に、百四十年前の船籍簿は、あった。あったが、虫食いと潮焼けで、読める頁は三分の一。「つばめ」の名は、出航簿の焼け残りに、かろうじて一行。
『貨物船つばめ 南方自由港行き 荷、果実酒三十樽、乾物、雑貨』
乗客の記載は、ない。当然だ。記載できない客を乗せるための、船なのだから。
口を割ったのは、教会だった。
「――航海祈祷の控えは、代々、燃やさない決まりでしてな」
港の教会の老司祭が、地下の書庫から、革表紙の綴りを抱えてきた。船乗りの町の教会は、船ごとの加護の祈祷を請け負い、その記録を残す。船が沈めば、それが最後の名簿になるからだ。
百四十年前の綴りの、その頁を、私は二度、読んだ。
『貨物船つばめ、南方行き。船と船員十二名の加護を願う。――別段、女人二名の道行きに、殊更の加護を願う。祈祷料、金貨にて前納。願主、名乗らず』
「……女人、二名」
声が、掠れた。
二名。一人ではない。
お嬢様と、綴りを挟んで、目を見合わせた。アデル・オールウィンの逃避行なら、一人のはずだ。二人ということは、つまり、もう一人――摘まれた縁の、もう片方も。
「でも、王女は半年後に、隣国へ輿入れしたはずじゃ」
「……記録の上では、ね」
お嬢様が、低く言った。
「叔父様の写本、覚えてる? 輿入れした王女は、三年で病没。嫁ぎ先に肖像画の一枚も残っていない。輿入れの行列は仕立てられたけど、花嫁の顔を近くで見た者の記録が、不自然なほど、ない。……百四十年前の王家が、体面のために替え玉を仕立てなかったと、誰が言い切れる?」
摘んだはずの縁が、二人揃って、南へ。
王家は、それを知っていたのか。知って、体面だけ整えたのか。それとも、いまだに知らないのか。――剪定録に、答えの一端はあるかもしれない。だが今この綴りが言っているのは、もっと単純で、もっと大きなことだった。
二人は、船に、乗った。
「して、その、つばめですが」
老司祭が、綴りの先の頁を、繰ってくれた。
「無事に、戻っております。ほれ、ここに。半年後の帰港の感謝祈祷。船員も欠けなし。……それと、これは司祭仲間の語り草ですがな」
老人は目を細めて、綴りのずっと後ろの方――日付にして十五年ほど後の頁を、開いた。
『南方より、寄進。金貨五十枚。文、添えてあり。曰く――「つばめの二人より。あの夜の祈祷への、遅い礼。加護は、確かに効きました」』
書庫が、静かになった。
十五年後。
二人は、生きていた。生きて、笑って、遅い礼を寄越すくらいには、達者に暮らしていた。
隣で、息を呑む音がした。見ると、お嬢様が綴りの一行を、指でそっとなぞっていた。触れれば消えてしまうものを扱う手つきで。百四十年前の、家譜が「病没」と片づけた大叔母の、生きた証を。
「……効きました、って」
声が、震えて、笑っていた。
「加護は、確かに効きました、って。……ふ、ふふ。言うじゃない、アデル様。うちの家系ね、間違いなく」
目尻の光るものは、潮風のせいということにしておいた。私の分も、同じ言い訳を使わせてもらった。
――夕刻、私たちは桟橋の突端に、並んで座っていた。
依頼の中間報告としては、上々すぎた。初代が手配した船は出て、二人は渡り、十五年後も達者だった。守り損ねていない、どころではない。守り切れていたのだ、初代の縁は。あとは南方に、二人のその後と、あるいは血筋なり店なり、何かの続きが残っているか――それは次の調べになる。
夕陽が、南の海に沈んでいく。百四十年前、二人が渡っていった方角に。
「ねえ、フィオナ」
海を見たまま、お嬢様が言った。
「百四十年前の二人はさ。……勝ったのよね、ちゃんと。摘まれないで、逃げ切って、笑って寄進までして。すごいことよ。でも」
でも、と、彼女は膝を抱えた。
「逃げなきゃ、いけなかった。名前を捨てて、家を捨てて、海の向こうまで行かないと、二人でいられなかった。……それが百四十年前の、精一杯の勝ち方だった」
夕陽が、銀の髪を橙に染めていた。
「私はね。逃げないで勝ちたいの。この国の、この名前のまま、堂々と。……女公爵の話、受けようと思ってた理由、半分はお父様への義理だったけど。今日、残りの半分が埋まったわ。系図が縁を摘む国なら、系図の側に、摘ませない人間が座ればいい」
摘ませない人間が、座ればいい。
継承の政治戦が、この瞬間、家の事情から、この人自身の戦いに変わった。百四十年前の二人の、勝ち方の続きを作る戦いに。
「……お供します。どこまでも」
「ん。当然」
即答して、それからお嬢様は、少しだけこちらへ、肩を寄せた。
桟橋の下で、波が鳴っていた。百四十年前と、たぶん同じ音で。
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(第33話 了)




