# 第29話 雪解けの領
雪解けは、小さな音から始まった。
最初の兆しは、逆調律から九日目。市場の物売りの声が、半音だけ、高くなった。十一日目、パン屋の店先に「焼きたて」の札が三年ぶりに下がった。誰に命じられたわけでもない。焼きたてを焼きたてと誇る心が、紗の下から、顔を出しただけだ。
十三日目。広場で転んだ子どもを、通りがかりの女が、抱き起こした。
抱き起こして、女は、その場に立ち尽くした。自分のしたことに、自分で驚いた顔で。それから、腕の中の泣き顔をまじまじと見て――女も、泣いた。三年ぶんの「抱き起こさなかった」が、一度に返ってきたのだろう。周囲の大人たちが、灰色の薄れかけた顔で、二人を遠巻きに見ていた。見ていられる、ようになっていた。
「……いい速度よ」
様子を見に出たお嬢様が、広場の隅で呟いた。
「泣ける速度で、戻ってる」
人が壊れずに悲しめる速さ。逆調律の設計思想が、通りの風景で答え合わせされていく。
――ノルデン子爵夫妻の雪解けは、領民より、二日遅かった。
二段濃かった紗のぶんだけ、遅かった。だからその朝の出来事を、私たちは覚悟して待つことができた。
十五日目の朝。子爵夫人が、庭に出た。
三年前に自分の手で薔薇を抜かせた、土だけの庭に。夫人は長いこと、そこに立っていた。それから膝を折り、素手で土に触れ、振り向いた。
庭の入り口に、エマが立っていた。
「……エマ」
夫人の声は、掠れていた。
「お母様」
「エマ、私……私、薔薇を。あなたの生まれた年に植えた薔薇を、この手で……三年、私、あなたに、なんてことを――」
言葉は、そこで崩れた。
エマは駆け出した。三年ぶんの距離を、五歩で詰めて、土だらけの母親の腕の中に、まっすぐ飛び込んだ。
「おかえりなさい、お母様!」
なんてことを、の続きは、永遠に語られなかった。十二歳の「おかえりなさい」が、三年ぶんの謝罪を、まとめて引き受けてしまったからである。
私は視た。夫人の色から、最後の灰色が、朝の霜みたいに消えていくのを。
隣で、うちの店主が、そっぽを向いて目元を拭っていた。指摘はしなかった。私の視界も、大概、滲んでいたからである。
子爵の回復は、静かだった。
執務室に私たちを呼び、深く頭を下げ、それから三年ぶんの帳簿をすべて開いて、実在しない慈善団体への寄進の記録を、自ら王都への告発状に仕立てた。紗の下で三年、爪を立て続けた人の、最初の波風だった。
「……娘は」
署名を終えて、子爵は一度だけ、震える声で訊いた。
「娘は、この三年、ちゃんと、食べていましたか」
「はい」
私は、あの夜の廊下を思い出しながら、答えた。
「よく食べて、よく学び、よく戦っておいでした。……この領で一番早く、あなた方を取り返しに動いたのは、閣下。あなたの娘御です」
子爵は、両手で顔を覆った。しばらく、そのままだった。
――出立の朝は、二十日目だった。
鐘の唸りは、前日の検分で消滅を確認。核石は摘出し、王都へ証拠として送る。鐘そのものは、お嬢様が一晩かけて調律し直した。呪いの文面を失った鐘は、憎らしいことに、元の鋳りの良さのままに、よく澄んで鳴った。
「いい鐘なのよ、本当に。……作った腕と、使った心が、別々なだけ」
領は、目に見えて色を取り戻しつつあった。広場には楽団の台を建て直す槌音が響き、どこかの窓辺に、鉢がひとつ置かれた。収穫祭を今年こそやるのだと、子どもらが触れ回っていた。三年の傷は消えない。けれど傷ごと、この領は自分の脚で立ち始めていた。
見送りには、領境まで、エマが来た。
「あの、レティシア様。フィオナ様。私……決めました」
少女は背筋を伸ばし、五日かけて王都へ逃げてきた日と同じ、まっすぐな目で言った。
「学院を出たら、小箱堂に弟子入りします。押しかけます。ぜんまいの七分目、忘れませんから」
「――ん。いい心がけね」
店主は、実に満足げに頷いた。
「言っとくけど、うちは給金は安いし、店主は口うるさいし、調査主任は嘘が視えるから誤魔化しが利かないわよ」
「望むところです!」
馬車が動き出しても、少女は道の真ん中で、いつまでも手を振っていた。
――帰路の馬車の中。
三日目あたりで、張り詰めていたものが切れたらしい。お嬢様は昼過ぎから舟を漕ぎ始め、やがて、ことりと、私の肩に頭を預けてきた。
銀の髪から、微かに油と、鐘の金気の匂いがした。二十日間、働き通しだった人の匂いだった。
起こさなかった。肩の位置だけ、少し、預けやすいように直した。
窓の外を北の景色が流れていく。膝の上には、あの男の置いていった銀の音叉。解析はこれからだが、お嬢様は既に「音の署名を逆に辿る」算段を立て始めている。次の調律で会おう――あの口笛への、返歌の準備を。
そして王都に戻れば、もう一つ、扉が待っていた。
出立前に届いていた、公爵家経由の報せ。
――ギデオン・フローレスへの面会、許可。
百四十年前を知る男と会った今、百四十年前を調べた男に、訊くべきことは、山ほどあった。
肩の重みが、少し、深くなる。
規則正しい寝息を数えながら、私は北の空にひとつ、胸の中で礼をした。この編の依頼料は、まだ受け取っていない。けれど報酬なら、もう十分すぎるほど、貰った気がしていた。
母親の腕に飛び込む、五歩ぶん。
あれより上等な決算を、私は前世を含めて、知らない。
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(第29話 了)




