# 第28話 覚えられない男
月の頭の、風のない夜。
鐘楼の見える路地に、私たちは潜んでいた。私とお嬢様は鐘楼の向かいの空き家の二階、ロルフは鐘楼の裏手、エマの「約束できる子」たちは遠巻きの屋根の上に三組――役目は見張りと笛だけ、接近は厳禁。
男は、来た。
いや――「来た」という言い方は、正確ではない。気づいたら、鐘楼の前に、いた。
視えていたはずの通りに、足音も、影も、前触れもなく。灰色の外套の、中肉中背の男。顔は、見ているそばから印象が滑り落ちていく。目に映るのに、記憶に残らない。子どもらの証言の通りだった。
男は錠を一瞥もせずに開け、鐘楼へ消えた。
「……入ったわね。予定通り、中で気づかせる」
お嬢様の声は、静かだった。静かな分だけ、張り詰めていた。
五分。十分。
鐘楼の窓の灯りが、ふ、と揺れた。
そして――澄んだ四音が、夜気を渡ってきた。
口笛だった。あの署名の四音を、男は口笛で、ゆっくりと吹いていた。まるで、届くと知っている相手に、挨拶をするように。
「――お招きと、受け取るわ」
お嬢様が立ち上がった。止める間は、なかった。止める資格も、たぶん、私にはなかった。私も立ち上がっていたからだ。
鐘楼の中、螺旋階段の上。
男は、鐘の内側に灯りを掲げて、私たちの細工を検分している最中だった。振り向きもせずに、男は言った。
「――いい仕事だ」
静かな、職人の声だった。
「共鳴具の据えつけ、三点の角度、遅効の設計。紗を破らずに、緩ませる。……回復の速度まで、計算に入れている。ここまで丁寧な逆調律は、初めて見た。誰の手だ」
「あんたに名乗る銘は、持ち合わせてないわ」
お嬢様が、一歩前に出た。
「でも、感想なら言ってあげる。内壁の彫り、確かに王国で五指の腕ね。――その腕で、よくもまあ、千人の心を黙らせる文面なんか彫れたものだわ」
「黙らせる、か」
男は初めて、こちらへ向き直った。顔は、やはり像を結ばない。
「私は、整えているだけだ。波風は、人を壊す。妬み、怒り、悲しみ。あれらは心の雑音だよ。雑音を取り除いた音は、澄む。……この領の三年は、私の作品の中でも、よく澄んだ」
「――フィオナ」
合図より早く、私の指は、左袖の内で引き金を引いていた。
小箱堂を出る朝、念のためにと鞄に入れた、あの銀のランタン。一日一度、十秒きり。使いどころは今しかなかった。
照心灯の波が、鐘楼に満ちる。
一、二――男の輪郭を覆う墨が、めくれる。
三、四――視えた。そして私は、息を呑んだ。
色が、ないのだ。
剥がした墨の下に、あるべき人間の色が、ほとんどない。怒りも、打算も、信念すらも。一面の、灰白。降り積もった雪の野原みたいな、静まり返った白。叔父の墨の下には、百四十年ぶんの怒りが燃えていた。これは、違う。これは――
五、六――紗だ。何重にも、何十重にも、自分で自分にかけ続けた紗の、成れの果て。この男は、最初の作品として、自分自身を「整えた」のだ。
七、八――その雪原の最奥に、たった一つ、色が残っていた。
小さく、けれど鮮やかに脈打つ――音への、執着。四音の署名と同じ形をした、この男が自分に残すことを許した、最後の一色。
九。墨が、閉じた。
「……今のは」
男の声に、初めて、感情に似た揺らぎが乗った。
「ほう。……ほう。視たのか、私を。この私を」
揺らぎは、怒りではなかった。もっと悪いものだった。歓喜に、近かった。
「その眼。ああ、その眼だ。懐かしいな――フローレスの眼。百四十年ぶりに、視られたよ」
百四十年。
初代の、時代。
「あんた、何を――」
問いは、音に呑まれた。
男の指が外套の内で鳴らした音叉から、耳ではなく骨に響く波が放たれた。膝が落ちる。視界が明滅する。ロルフが階段を駆け上がる音と、それが途中で崩れる音がした。
その波を、割ったのは、澄んだ一音だった。
お嬢様の髪飾り――共鳴破砕が、男の音叉の波と正面から嚙み合い、相殺の火花のような唸りを散らした。音と音の、一瞬の斬り結び。
「……ほう」
男が、感嘆した。
「いい耳だ。私の音に、初見で音を合わせるか」
「あんたの音なんか、合わせたくて合わせたんじゃないわよ」
「気に入った」
男は懐から何かを抜き、こちらへ、放った。反射的にお嬢様が受け取る。銀の、小ぶりな音叉だった。使い込まれた、職人の道具の艶。
「餞別だ。この畑は、もう終わり。手仕舞いにする。……君たちの逆調律を、最後まで邪魔しないでおこう。よく澄んだ作品だったが、気づかれた作品に、価値はない」
「待ちなさい――」
「次の調律で会おう。フローレスの眼と、いい耳のお嬢さん」
四音の口笛が、鳴った。
瞬きの間に、男は、いなかった。窓も扉も、動いた形跡すらなく。残ったのは、骨に残る波の余韻と、お嬢様の手の中の音叉と、階段の途中でうずくまるロルフの呻きだけだった。
――ロルフの怪我は、幸い軽かった。
空き家に戻り、手当てを済ませ、それから私たちは長いこと、黙っていた。
先に口を開いたのは、お嬢様だった。手の中の音叉を、汚物のように、けれど捨てられずに睨みながら。
「……フィオナ。視たんでしょ、あいつの中身」
「はい。……色が、ありませんでした。自分にかけた紗の、何十年ぶんの雪の下に、音への執着が一つだけ。あれは――自分を最初に『整えた』男です。それと」
私は、骨の芯にまだ残る寒気ごと、言った。
「百四十年前に、私と同じ眼に『視られた』と言いました。初代の時代です。……あの男、いったい、いくつなんでしょうね」
窓の外、東の空が白み始める。
正午になれば、鐘はまた鳴る。唸りは今日も一分ずつ細り、この領の千人は、雪解けの速度で、少しずつ、自分に戻っていく。
畑は、取り返した。
けれど農夫は、口笛を吹いて、次の畑へ歩いて行った。
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(第28話 了




