# 第20話 盤の、ひっくり返しかた
「動くな!!」
ユリウス様の一喝と、抜剣は同時だった。
天井の梁から、墨色が降ってきていた。音もなく、まっすぐ私の喉元へ。夜会の間ずっと姿を消していた、あの影。演説を、口を、封じに来たのだ。
それを騎士団第二席の剣が、床上一寸で搦め捕り、弾き返す。
影は宙で身を捻り、猫の静けさで着地した。得物は細身の短刀が二本。構えは、どこの流派でもない。だが速い。二の太刀が床を蹴る音より先に来て、ユリウス様の剣がそれを受け、火花が暗がりを裂いた。三合、四合。剣術大会二連覇の剣が、押し切れない。会場のどよめきが悲鳴に変わりかけ――
「客人への刃傷沙汰だ! これで大義はこちらにある――警備八名も動くな、次に動いた者から斬る!」
斬り結びながらの、朗々たる宣告だった。この人は剣を振りながら、戦場の「意味」を確定させたのだ。賊はどちらか。守るのは誰か。百二十人の目撃者の前で。
凍りつく墨の鎧たち。影は舌打ちの気配だけを残して距離を取った。広間の敵味方が、一瞬で書き換わる。
その隙に、叔父が懐へ手を入れた。
取り出されたのは武器ではなかった。小さな、呼子に似た笛。残った灯りか、駒たちへの、最後の号令――
澄んだ音が、鳴った。
笛からでは、ない。
お嬢様の指先、七つ道具の最後の一つが、叔父の手の中の笛の核石だけを、正確に砕いていた。
「――言ったでしょう」
銀の髪を暗がりに揺らし、レティシア・オールウィンは笑った。悪童の顔で、公爵令嬢の声で。
「その盤、ひっくり返すって」
勝敗は、決した。
警備八名はユリウス様と駆けつけた公爵家の私兵に取り押さえられ、墨色の影だけが、割れた窓から夜へ消えた。追わせたが、望みは薄いだろう。あれはまだ、盤の外にいる。
騒然とした広間で、真っ先に動いたのは、意外な人だった。
「――レティシア様」
白髪の老伯爵夫人が、人垣を割って進み出た。社交界の生き字引と呼ばれる、辛口で知られた人である。夫人はお嬢様の前に立ち、深々と、頭を下げた。
「先ほどは、わたくしも噂に流されました。恥じております。……貴女は今夜、この場の全員をお救いになった。氷の薔薇などと、皆、目が節穴でしたのね」
「顔をお上げになって、伯爵夫人。……それに、節穴で結構ですのよ」
お嬢様は、にこりと笑った。完璧な淑女の微笑――ではなく、素の、悪童の笑顔で。
「私、堅苦しいのは嫌いなの。今夜のことに懲りたら、皆様、噂より先にご自分の目を使うことね。あと、お帰りの際は身の回りの魔導具の核石を一度、信用できる工房で診せること。三層式に南方削りの組み合わせは、即、衛兵へ」
凍りついていた広間の空気が、ふ、と緩んだ。誰かが小さく笑い、笑いが波になった。素顔の公爵令嬢の説教くさい忠告は、恐怖でこわばった百二十人には、何よりの薬だったらしい。
――噂とは、げんきんなものである。
この夜を境に、社交界の「氷の薔薇」は死語となり、代わりの二つ名が流通し始めることになる。曰く、「呪い断ちの薔薇」。本人は「剪定ばさみみたいで嫌」と不服らしいが、私は割と、気に入っている。
広間の中央で、叔父は抵抗しなかった。縄を受けながら、私を見て、それから頭上の死んだ百燈を見上げた。
「……初代はね、フィオナ。その眼で公爵家に百の縁を結ばされ、使い潰され、最後は秘密ごと改易された。縁談係とは、体のいい道具の名だ。私は道具であることを、やめたかっただけだよ。結ばされる側から、結ばせる側に」
「……それで、人を、道具になさったのですか」
「ふ。――道具にされる痛みを知る者から先に、道具になっていく。世の中は、そういうふうに、できている」
「違います」
声が、出ていた。考えるより先に。
「クレイン修士は、道具になりませんでした。断ったんです。消される側を選んでも。五番街の時計屋のご主人も、道具を奪われて、それでも息子に継がせたかったと言うだけで、誰も呪わなかった。……痛みを知る者から道具になるのではありません。あなたが、痛みを言い訳にしただけです」
叔父は、少しだけ目を見開いた。
それから、笑った。柔和にではなく、疲れたように。
「――若いな。私も昔、家譜の前でそういう顔をしていたよ。塗り潰された初代の名を見つけた日にね。あの日の私は、初代の無念を晴らすつもりだった。それがいつから、初代の轍を辿ることに変わったのか……自分でも、思い出せないのだ。おかしいだろう。人の記憶を消して回った男が、自分の一番大事な分かれ道を、思い出せない」
連行の間際、叔父は一度だけ振り返った。
柔和な目元は、もうどこにもなくて。それでも、その色の端に、あの小さな情の火が、まだ残っているのを、私の眼は視てしまった。
「お前の眼は、本物だよ。フィオナ」
「…………」
「私にそう言われることが、これからのお前には、いちばんの呪いになるだろうがね」
扉が、閉まった。
残されたのは、割れた杯と、死んだ灯りと、婚約披露に来て事件の証人になった百二十人と――立ち尽くす、私。
その手を。
硬い、あたたかい手のひらが、握った。
「――終わったわよ、フィオナ。帰りましょ。温室に」
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(第20話 了)




