# 第18話 十秒の灯り
乾杯の口上は、続いている。
「――本日、我がオールウィン公爵家のレティシア様と、グランフェルト辺境伯家のユリウス様の、輝かしい門出の第一歩を」
シャンデリアの色は、もう疑いようもなく変わりつつあった。琥珀の光の底に、紫がかった脈動が混ざる。百二十人は誰も気づかない。杯を手に、微笑んで、光の真下に立っている。
左袖の照心灯に、指をかけた。
十秒。一度きり。誰に向けるか。
警備八名――駒だ。視ても、指し手はわからない。
ロウ子爵――被害者だ。視れば救う手がかりは得られても、今この瞬間の盤面は動かない。
なら、視るべきは一人しかいない。
五歳の私に菓子をくれた人。私の眼を、生まれてきた才だと言った人。判定不能のまま、それだけは嘘であってほしいと、縋った人。
――プロなら、視ろ。
私は口上の頂点、叔父が杯を掲げ切った一瞬に合わせて、照心灯を切った。
音のない波が、広間にひとつ、拡がった。
一、二――叔父の輪郭を覆う墨が、風に吹かれた膜のように、めくれる。
三、四――視えた。
墨の下に、色は、あった。人間の色が。打算でも欲でもない、鉱石みたいに硬く冷たい、信念の色。その中心に、焼き印のごとく刻まれた紋章。剣に絡む、双頭の蔦。
外から刻まれたものではない。
自分で、刻んだものだ。
五、六――信念の色の脈絡を、私の眼が読み取っていく。色は、記憶の形をしていた。断片が、雪崩れ込んでくる。
若い日の叔父が、父の書斎で古い家譜を開いている。塗り潰された初代の名。指先が、墨の痕をなぞる。なぞりながら、調べている。百四十年前、初代が何をさせられ、何を暴かれ、どう捨てられたのかを。公爵家の命で百の縁を「結ばされ」、王家の秘事に触れすぎて、秘密ごと消された祖先を。
そして若い叔父は、家譜の前で、誓っている。声は聴こえない。色だけが、聴こえる。結ばされる側は、もう終わりだ。結ばせる側に――
七、八――その硬い色の端に、ほんの小さく。
私を見るときにだけ灯る、本物の、情の色。
九。
墨が、閉じた。
十秒が、終わった。
「……フィオナ?」
隣で、お嬢様が私の顔を覗き込んでいる。
私は自分の頬が濡れていないことを、確認してから口を開いた。プロは、査定に私情を挟まない。挟まないと、決めた。
「――黒、です。叔父が、指し手です。墨は自前の鑑定除け。うちの家の眼を、誰より知っている人ですから」
「動機は」
「百四十年ぶんの……いえ。あとで全部お話しします。今は」
「ん。今は、灯りね」
お嬢様はすでにドレスの隠しに手を入れていた。
「基点は視つけた。乾杯口上の間、脈動の立ち上がりを目で追ったの。百燈の同調は東翼三番の灯りから始まってる。あれが親、残り九十九が子。親を割れば――」
「同調ごと、崩れる」
「そういうこと。……ちょっと派手にいくわよ。耳、塞いでなさい」
お嬢様が取り出したのは、夜会の装身具に偽装した、銀の小さな髪飾りだった。それを東翼へ向け、留め金を、外す。
共鳴破砕――倉庫でハロルドの短杖を割った、あの技術の大型版。二週間の突貫で、南方削りの核石百個ぶんの周波数を刻んだ、対百燈用の特注品。
澄んだ音が、一つ鳴った。
東翼三番のシャンデリアの核が、砕けた。
連鎖は、光の速さだった。親を失った九十九の灯りが次々に同調を乱し、紫の脈動が霧散して、広間は一瞬、素の琥珀色に戻り――そして半分の灯りが悲鳴みたいな火花を散らして、消えた。
暗転。どよめき。誰かの杯の割れる音。
「賊だ!!」
叫んだのは、叔父だった。
「灯りが攻撃された! 皆様、落ち着いて! 警備、お客様をお守りしろ!」
――速い。
混乱の設計図を、この人は最初から懐に入れていたのだ。八名の墨色が一斉に動き、あるものは客を「保護」の名目で壁際へ追い立て、あるものは――まっすぐ、こちらへ来る。
「そこだ! 灯りに何かを投げた娘がいる! ――ああ、なんということだ」
叔父の声が、悲痛に染まった。名優の悲痛だった。
「レティシア様……あなただったのですか。百二度の破談も、メイエル卿やチェイニー卿の一件も……ご自分の婚約が、そんなにお嫌でしたか」
どよめきが、質を変えた。
百二十人の視線が、暗がりの中でお嬢様に集まる。困惑、疑念、そして――醜聞を嗅ぎつけた、社交界の好奇の色。氷の薔薇。百二連敗。奇行の噂。仕込まれた下地の上に、叔父の一言はあまりにも綺麗に嵌まった。
「そういえば魔導具狂いだと……」「お相手が二人も投獄されたのは、まさか」「破談続きも、ご本人が」
囁きが、囁きを呼ぶ。悪意ですらない。ただの好奇が、噂の重みだけで人を沈めていく。社交界という水の、いつもの流れ方だった。
盤面が、ひっくり返された。
広間全体を人質に取られたまま、賊の汚名だけがこちらに残る。警備の墨色が二人、三人、人垣を割って迫る。ユリウス様が剣の柄に手をかけ――かけたまま、抜かない。視線がこちらへ飛ぶ。約束通りだった。囮は大義が転がり込むまで動かない。抜けば「婚約者ごと乱心」の筋書きに呑まれると、あの人が一番わかっている。
つまり、次の一手は、こちらの番だった。
「……フィオナ」
暗がりで、お嬢様が小さく笑った。
追い詰められた人間の笑い方では、なかった。工房で、直せる故障を見つけたときの顔だった。
「あいつ、いま自分から人前に出てきたわよ。百二十人の、証人の前に」
「……はい」
「嘘を暴くのは、どっちの領分だったかしら」
ドレスの隠しから、お嬢様は最後の一つを私の手に握らせた。小さな増幅の魔導具――声を、広間の隅まで届かせる道具。
千組を結んだ結婚相談員は、席の空気を作るのが仕事だ。
そして時に、壊すのも。
私は増幅具を握りしめ、一歩、前へ出た。
百二十人の、暗い広間へ。生涯でいちばん大きな「席」へ。
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(第18話 了)




