# 第17話 夜会は、灯りから狂う
大広間は、光の洪水だった。
公爵家が誇る百燈のシャンデリア。磨かれた床。楽団の弦。両家の親族に王都の名士、招待客はおよそ百二十。その間を、給仕と警備が音もなく回遊する。
入場した瞬間、広間のざわめきが、一段高くなった。
「まあ……あれが氷の薔薇?」「百三連敗の?」「聞いた話と違うわね」「隣の娘は?」「グランフェルト卿は果報者だ」
好奇と値踏みの視線の只中を、お嬢様は完璧な微笑で泳いでいく。深い青のドレスは狙い通り、丸腰の潔さで人目を攫っていた。私はその斜め後ろ、半歩の位置。菫色は「令嬢の学友」程度の距離感に見えるよう計算された仕立てで、実際、誰も私を使用人とは見なかった。お嬢様の見立ての勝利である。
「レティシア様。本日は一段と」
「ユリウス様こそ、ご立派ですわ」
正面で待っていたユリウス様が、婚約者の顔で一礼する。礼服の騎士団第二席は、絵に描いたような花婿候補だった。二人が並ぶと、広間のあちこちから溜め息が漏れる。主役は、見えている――皆がそう思い込む画が、これで完成した。
すれ違いざま、ユリウス様の視線が一瞬だけ私を掠め、小さく頷いた。陣形、展開完了。
異変は、入場から三十分で数え終わった。
私は挨拶の合間を縫って、広間を視ていった。招待客の色は概ね賑やかだ。好奇、虚栄、打算、退屈。夜会の標準色である。その中に――
一つ。警備八名。順に視た。八名、全員、墨色。
二つ。叔父ギデオンは会場中央で如才なく客を捌いている。今夜も、墨色。
その叔父が、挨拶の波の合間に、こちらへ来た。
「レティシア様。本日はまことに、おめでとうございます。差配に至らぬ点がございましたら、何なりと」
「ありがとう、ギデオン。見事な設えだわ。……ええ、本当に、隅々までよく行き届いていること」
お嬢様の完璧な微笑に、皮肉の刃が一枚仕込まれていたが、叔父は柔和に受け流した。それから、私に目を移した。
「――フィオナ。見違えたよ」
「……恐れ入ります、叔父様」
「綺麗だ。兄さんに見せてやりたかったな。今夜はお前にとっても、晴れの舞台だ。……フローレスの縁談係が、百三回目にして大願成就。家の誉れだよ」
柔和な目元が、私を見ていた。墨の奥から。
褒め言葉の一つ一つが、意味を確定させないまま、皮膚の上を這った。晴れの舞台。大願成就。この人は今夜、何が「成就」する心づもりで、その言葉を選んだのか。
「では、良い夜を」
一礼して、叔父は次の客の波へ戻っていった。その動きを目で追ううち、私は嫌なことに気づいた。叔父は広間を回遊しながら、要所要所で立ち止まる。その立ち位置を頭の中の見取り図に落とすと――八名の警備の配置と、綺麗な九点の網になった。百二十人を、余さず覆う網に。
三つ。そして。
「ようこそおいでくださいました、ロウ子爵」
叔父の声に、私の背筋が伸びた。
招待名簿の末尾の男。消えた縁談の一人目、エルネスト・ロウ子爵が、会場に入ってきたところだった。
三十がらみの、線の細い紳士だった。所作は上品で、笑顔は柔らかい。何も知らなければ、感じのいい客の一人で終わったろう。
視た。
墨色、だった。
ただし――警備たちの墨とは、何かが違った。あちらの墨が「纏った鎧」なら、子爵のそれは「流し込まれた鋳型」。表面のそこかしこに、元の色の残滓が、気泡みたいに浮いては潰れている。もがいている、ように視えた。
僧院の、あの穏やかな穴を思い出した。あれは記憶を抜かれた痕。こちらは、抜いた場所に別のものを流し込まれた姿。断った者と、従った者の、三年後だった。
「レティシア様」
私は扇の陰で囁いた。
「ロウ子爵、墨です。ただ、警備の連中とは質が違う。あれは……覆われているのではなく、中身を、上書きされています」
「――隷属具の、完成形」
お嬢様の声が、硬くなった。
「腕輪みたいな外付けじゃない。心そのものに、直接命令を刻まれてる。……クレイン修士の逆ね。断れば抜かれて、従えば、ああなる」
そのロウ子爵が、ゆっくりと広間を横切り、私たちの方へ来た。
「レティシア様。此度はおめでとうございます」
「……ありがとう存じます、子爵」
「良き夜に、なりますよう」
柔らかい微笑。型通りの祝辞。だが去り際、子爵の目が、ほんの一瞬、私を見た。作り物の微笑の奥、気泡のように浮いた元の色が――何かを、訴えた気がした。潰れる寸前の声で。
助けて、と。
言葉を、返せなかった。子爵は人波に紛れ、私は扇の下で拳を握った。今夜、必ず。
言葉が、途切れたのはその直後だった。
お嬢様の視線が、子爵の背中から逸れて、天井へ向いていた。
「……フィオナ。シャンデリア」
「? 灯りが、何か」
「公爵家の百燈はね、私が十歳のとき全部分解したから知ってるの。芯は北方式の二層、核石は王都削り。なのに――あれ、全部換装されてる。三層式に、南方削り」
血の気が、引いた。
倉庫の隷属具と、同じ組み方。それが百燈。頭上に、会場の隅々まで、光の形で吊られている。
「灯り一つなら小物の呪具。でも百を同調させて広間全体を回路にすれば……ここにいる百二十人、まとめて『刻める』」
この大広間そのものが、巨大な隷属の魔導具だった。
九点の網は、逃げ道を塞ぐ配置。ロウ子爵は――完成品の、見本。婚約披露は、口実ですらない。百二十人の名士と両家の血縁を一夜で駒に変える、収穫の儀式だ。
「点火の合図は――」
言いかけたお嬢様の言葉尻に、重なるように。
楽団の弦が、止んだ。
広間の中央で、叔父ギデオンが銀の杯を掲げていた。百二十の視線が集まり、給仕たちが客の手に杯を行き渡らせていく。乾杯。夜会でもっとも自然な、全員が動きを止める一瞬。
「――皆様。本日はお日柄もよく」
柔和な目元が、笑う。
シャンデリアの光が、ほんのわずかに、色を変え始めた。
左袖の内で、照心灯の銀が、汗ばんだ手首に冷たかった。
十秒。一度きり。
その一度を、いま切るべきか否か――判断までに許された時間は、乾杯の口上ひとつぶんしか、残っていなかった。
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(第17話 了)




