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# 第16話 支度部屋の、鏡二枚


 夜会当日は、朝から屋敷全体が沸騰していた。


 廊下を花と燭台が行き交い、厨房からは百二十人前の香りが立ちのぼり、楽団の調弦の音が大広間から漏れてくる。使用人たちの顔は一様に晴れやかだった。百三回目の正直。皆、今夜を祝いの夜だと信じている。この賑わいのどこかに九つの墨色が紛れ、頭上の百燈が牙を研いでいることを、知っているのは屋敷でたった三人だけだった。


 祝祭の顔をした戦場ほど、始末の悪いものはない。


 ――そして夕刻。夜会当日の支度部屋で、私は生まれて初めて、仕事を忘れた。


「……ねえ、そんなに変?」


「いえ」


「じゃあ何か言いなさいよ。三分黙られると、さすがに堪えるんだけど」


 深い青のドレスだった。湖水の瞳と同じ色。銀の髪は結い上げず、片側に流して、細い光の鎖を一本だけ編み込んである。装飾はそれきり。宝石の重ね着で武装する社交界の流儀からすれば、丸腰にも等しい。


 丸腰のまま、この方は誰より強い姿をしていた。


「……お綺麗です」


 三分ぶんの語彙が、それしか出てこなかった。千人の花嫁候補を見立ててきたプロの、成れの果てである。


「ん。よろしい」


 お嬢様は鏡の前でくるりと回り、それから、値踏みするような目でこちらを見た。


 嫌な予感がした。この目は知っている。分解したい魔導具を見つけたときの目だ。


「――で。あなたのそれは、何?」


「何、とは。お仕着せですが」


「今夜のあなたは、私の『隣』でしょ。給仕の位置じゃないの。控えの壁際でもないの。隣。……その格好で私の隣に立ったら、悪目立ちするのはあなたの方よ」


「悪目立ちも何も、使用人が着飾る方が――」


「サラ! 例のを持ってきて!」


 話を聞かない公爵令嬢の号令一下、侍女が抱えてきたのは、衣装箱だった。開けられる。中身は、落ち着いた菫色のドレス。仕立ては控えめで、けれど生地と縫いは、一目でわかる上物だった。


「……レティシア様。これは」


「あなたの寸法で仕立てさせたわ。先月ね」


 先月。夜会の話が出るより、前である。


「な、なぜ先月に」


「いつか要ると思ったのよ。ほら、早く。時間ないわよ」


 問答無用で衝立の向こうへ押し込まれ、侍女の手際に為すがままにされ、出てきたときには、鏡の中に見知らぬ女が立っていた。


 菫色は、悔しいことに、誂えたように馴染んでいた。当然だ。誂えたのだから。髪は侍女の手で結い直され、耳元には小さな銀の飾り――よく見ればそれは、翼を広げた小鳥の意匠だった。


 欠けていない方の、翼の。


「……これ」


「ん? ああ、それ? 飴細工じゃ溶けるから、銀で焼き直したの。片手間よ、片手間」


 お嬢様は鏡の中の私を眺めて、うんうんと満足げに頷いて――それから、ふっつりと、黙った。


 一分が、過ぎた。


 二分が、過ぎた。


「……レティシア様?」


「…………」


「あの、三分黙られると、堪えるのですが」


「っ、う、うるさいわね! いいのよ私は! 仕立てが良かったなって思ってただけ!」


 千人の嘘を視てきた眼に、いま、たいへん質のいい嘘が観測された。


 指摘はしなかった。私の頬の温度も、大概、人のことを言えなかったからである。


「――さて。仕上げよ」


 誤魔化すように咳払いして、お嬢様はドレスの隠しに、道具を仕込み始めた。一つ、二つ……七つ。捕縛球、共鳴破砕の髪飾り、増幅具、音叉。夜会の装身具に偽装した、二週間ぶんの戦支度。


「照心灯はあなた持ちで間違いない?」


「はい。左の袖の内に」


「ユリウス卿は正面で囮。私たちは影。合図は、練習通り」


「後ろ手の指。一本が待て、二本が前倒し、握って中止」


「上等」


 鏡の前に、二人並んだ。


 深い青と、菫色。公爵令嬢と、縁談係の娘。今夜、盤をひっくり返しに行く、二人。


 鏡の中の自分は、まだ少し、他人の顔をしていた。けれどその隣の顔は、十三年間見てきた通りの、悪童の顔で笑っていて――それだけで、菫色の女の背筋は、勝手に伸びた。


「じゃ、行きましょうか、相棒。私の婚約披露に」


 自分で言って、自分で笑う。冗談の顔で。


 その冗談に私がどんな顔をしたのかは、今夜は、わかってしまった。鏡が、二人ぶん映していたからだ。


 存外、悪くない顔をしていた。


 戦いに行く人間の顔としては、上出来の部類だった。


 ――扉に手をかけたところで、けれど、一瞬だけ足が重くなった。


 今夜、うまく運べば、私は身内を告発する。父の弟を。菓子の記憶ごと。フローレス家は縁談係の看板ごと沈むかもしれず、沈めるのは、この私で。


 その重さが、扉の前で、急に膝に来た。


「フィオナ」


 気づかれていた。当然のように。


 お嬢様は私の左袖――照心灯の位置に、そっと手を重ねた。確かめるように、一度。


「今夜、どう転んでもいいように、一個だけ先に言っておくわ。あなたの家がどうなっても、縁談係がどうなっても――あなたが私の隣にいることだけは、今夜の結果に含まれてないから。あれは、もう決まってることだから」


「……横暴です」


「公爵令嬢だもの」


 いつもの応酬を、いつもの調子で。


 それだけで、膝は、ちゃんと動いた。


 扉が開く。廊下の先、大広間の光と喧騒が、待っていた。


---


(第16話 了)


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