第六十九 本能寺前夜
天正十年(一五八二年)正月
甲賀の隠れ里。
満福は、十八歳となった。
新春の陽光が差し込む病舎で、遠藤喜三郎は静かに目を開けた。
腹部をえぐった信忠の凶刃と、無数の蛆が腐肉を喰らい尽くした凄惨な治療から数ヶ月。奇跡的に肉芽は塞がり、死の淵を彷徨っていた彼の体温は、確かな生者のそれを取り戻していた。
床の傍らには、満福が立っていた。
「……大分癒えたようだな、喜三郎」
喜三郎は、力が入らない体で必死に身を起こそうとし、そのまま布団の上に深く額を擦り付けた。
「殿、某は、父の無念を晴らし、そして……命を拾いました。全ては、全ては殿の御力によるもの」
その声は嗚咽に震えていた。
「この喜三郎、残りの命の全てを懸け、殿の思い描く世の礎となりましょう。泥に塗れ、血をすすり……地獄の底までお供いたします」
満福は何も言わず、ただ静かに頷き、喜三郎の肩に手を置いた。
天正十年(一五八二年)五月末
甲賀・油日の隠れ里、評定の間。
完全な復興を果たしたとは言い難い隠れ里の館。その薄暗い広間に、甲賀の主要な将たちが集結していた。
上座に座す満福の前で、忍びの佐助が各地の情勢を淡々と報告している。
「近江、美濃、尾張、伊賀の状況ですが……いずれも不穏な空気が渦巻いております。昨年の凶作による飢えに加え、昨秋の玉滝口における織田軍潰走の噂が火種となり、各地で国人や土民の不満がいつ暴発してもおかしくない状態にございます」
佐助は手元の文箱から新たな書状を取り出し、続けた。
「織田の主力軍団の動向も探らせました。北陸の柴田勝家は上杉と対峙し、信州の滝川一益は北条の牽制に釘付け。四国遠征の準備で織田信孝・丹羽長秀は大坂・堺に集結。中国方面の羽柴秀吉は毛利との泥沼の戦の最中。丹波の明智光秀は、その羽柴の援軍として西へ向かうべく、丹波、近江の兵を集め、出陣準備に追われております。そして、織田信長本人は……中国戦線の陣頭指揮を執るべく、少数の供回りのみで安土を立ち、京へ上洛いたしました」
諸将の間に、微かな緊張が走る。周囲を固める重臣たちが皆、領国や前線に張り付けられ、信長とその本拠地である安土周辺の軍事力が、かなり手薄になっているのだ。
安土城には、蒲生賢秀が、留守居役として城を守ってはいるが、兵数は千程である。
満福は床几の上で、冷たい眼差しのまま口を開いた。
「……出陣の用意をせよ」
静かな、だが確かな命令に、広間の空気が張り詰める。
「佐助」
「はっ」
満福の呼びかけに、佐助が進み出た。
「お前は、配下の忍びを数名、京へ向かわせよ。信長の動向を監視し、どんな些細な動きも漏らさず報告させろ。それと、引き続き、信長側全体の動きも掴んでおいてくれ」
佐助が深く平伏して退がるのを見届けながら、満福の脳内で時任が低く囁いた。
(……なるほど。本能寺の変に乗じて、空き家となる安土城を取るつもりだな、満福)
満福は表情を変えず、ただ黙って胃の腑の底で冷たい殺意を練り上げていた。
だが、その夜、甲賀の厳重な警戒網の内側で、思わぬ綻びが生じていた。
隠れ里の裏道。月明かりを避けるように、数名の影が身を潜めながら油日を抜けようとしている存在。かつての南近江の覇者、六角義賢と義治の親子、そしてごく少数の供回りである。
「急げ、音を立てるな」
義賢が苛立たしげに囁く。彼らは、目前に迫る本能寺の変など知る由もない。ただ、今日の評定の後、里全体が奇妙な熱を帯び、出陣の準備を進めていることだけは察知していた。
「父上。あの浅井の小僧め、織田の主力が空になった隙を突いて兵を挙げるつもりに相違ありませぬ」
義治が息を殺しながら追従する。
「ええい、甲賀の土民の泥水啜りなど、これ以上付き合いきれん。この動きを京の信長に注進すれば、我らの功績となろう。上手く立ち回れば、近江の旧領復帰も、飼い殺しの惨めな暮らしから抜け出すこともできるわ」
かつての名門の矜持と浅薄な野心に駆られた六角親子は、暗闇に紛れ、信長の待つ京へと向かって甲賀の山を下っていった。
いよいよ最終章です。
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