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戦国昆虫戦記【泥中羽化】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第七章 甲賀羽化編 〜魔王への叛意と運命の変異〜

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閑話其の五 親の仇と、逃がした恩人

天正九年(一五八一年)五月


甲賀の里、満福の居館。板張りの床に囲炉裏が切られた薄暗い一室には、重苦しい静寂が立ち込めていた。湿った木材が爆ぜる音だけが、時折、耳障りに響く。


上座に腰を下ろす満福の前に、三名の家臣が座している。

灰庵、その嫡男である道実。そして、忍びの冴衣である。

不意の呼び出しを受けた三者の間に、会話はない。灰庵は老いた目を細めて微動だにせず、道実は生真面目な顔を畳に向けている。冴衣に至っては、退屈そうに自身の荒れた指先を見つめていた。


「今日、貴様らを一堂に集めたのは他でもない。わが陣営において、無用の腹の探り合いや、いずれ致命的な綻びとなるような隠し事を精算しておくためだ。……冴衣、例のものを出せ」


突然話を振られた冴衣は、弾かれたように顔を上げ、あからさまに不快感を露わにした。

「おい、満福。あんた、何を考えている? そんなものを見せてどうなる。あたしの中では、とうに清算済みの話だ。今さら掘り返して何になる」


「お主個人の感情を聞いているのではない。わが陣営の火種を、今のうちに潰しておく必要があると言っているのだ。出せ」

満福の、感情を排した冷徹な視線が冴衣を射抜く。


冴衣は鼻を鳴らし、忌々しそうに懐を探った。取り出したのは、一枚の薄汚れた薄絹、「うすもの」だ。それを、無造作に畳の上へ放り投げた。


「ほらよ。満足か」

紗の端には、京の御用職人が将軍家の直系にのみ施すという、特別な隠し縫いが刻まれている。

「丸に二つ引」。足利家の家紋である。


「道実、灰庵。その紋をよく見よ」

満福の言葉に、松永父子が視線を落とす。

「ここにいる冴衣は、第十三代将軍・足利義輝公の娘である。その母は、義輝公の側室であった」


その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が一変した。

最も激しい動揺を見せたのは、道実であった。彼の顔から一瞬にして血の気が引き、土気色へと変わっていく。


永禄八年。

二条御所を包囲し、剣豪将軍と謳われた足利義輝を死に追いやった「永禄の変」。

その襲撃部隊の陣頭指揮を執り、実際に御所へ討ち入ったのは、他ならぬ道実自身であった。

燃え盛る建物の熱気、血の匂い、そして、足利の血を根絶やしにするために向けられた自らの刃。

当時の記憶が、道実の脳裏に生々しく蘇る。

自分が討ち果たした男の娘が、今、己のすぐ隣で同じ主君に仕えている。


「ば、馬鹿な……」

道実の唇がわななき、声が掠れた。

隣の灰庵もまた、片目をわずかに見開き、珍しく沈黙していた。灰庵自身は変の当日に大和国にいたとはいえ、松永家が足利家を滅ぼした首謀者の一族である事実に変わりはない。


「……も、申し訳ございません……!」

道実はうわ言のように呟くと、激しく畳に両手をついた。その身体が、小刻みに震え始める。


「あの永禄の変……御所を包囲し、公方様を討ち奉ったのは、この私だ……! 御身が、義輝公の姫君であられたとは……! 親の仇であるこの私と同席し、あまつさえ同じ釜の飯を食うなど、どれほどの屈辱であったか……!」


道実は血走った目で叫ぶと、激しい胃の痛みに耐えるように腹を押さえながら、腰の短刀に手をかけた。かつての罪が、実務家としての現在の彼を激しく責め立てていた。


「冴衣殿! この道実、大逆の罪、己の命をもって購う所存! 今すぐこの場で腹をかっ捌き、公方様と貴女への詫びと致す……!」

鞘から刃がすり抜ける鋭い音が、静寂の部屋に響き渡った。


「やめな。見苦しい」

しかし、その悲壮な覚悟を切り裂いたのは、氷のように冷たく、ひどく平坦な冴衣の声だった。


道実がハッと顔を上げる。

彼に向けられていたのは、復讐に燃える暗い瞳でも、憎悪に歪んだ顔でもなかった。ただ、道端の小石でも眺めるような、徹底して無関心で、どこまでも凪いだ眼差しだった。


「あたしがいつ、親の仇を討ちたいと言った? 勝手に罪悪感に酔い、勝手に腹を切ろうとするな。はた迷惑だよ」


「な……しかし……! 私は貴女の父上を……御所を火の海にしたのだぞ!」


「それが戦というものだろう」

冴衣は鼻で笑い、忌々しそうに自身の汚れた手甲を軽く叩いた。


「道実。あんたはあたしを、運命に翻弄された悲劇の姫君だとでも思っているのか? 思い上がりも甚だしいよ。仮にあのまま御所で足利の姫として生き長らえていたとして、あたしの気性でまともな人生が送れたと思うか?」

冴衣の言葉には、一片の強がりもなかった。


「窮屈な作法に縛られ、どこぞの馬の骨とも知れぬ大名への政略の道具として売られ、せいぜい誰かの権力闘争の巻き添えを食って無惨に死ぬのが落ちだ。あたしは、そんな籠の鳥のような人生など御免被るよ」

彼女は道実の目から刃へと視線を移し、ふんと鼻を鳴らした。


「今のほうが、何倍も息がしやすい。泥にまみれ、自分の足で立ち、自分の腕で敵の喉笛を掻き切る。この甲賀での生きるか死ぬかの生活のほうが、あたしにはよほど性に合っている。親父には悪いが、三好や松永への恨みなど、とうの昔に便所の底に捨ててきた」

冴衣は言い放つと、ふたたび無関心な目を向けた。


「だから、あんたが腹を切る必要などない。あたしのために勝手に死ぬな。満福の戦力がいらぬ所で減るだろうが。……それでも死にたいなら、硝石と火薬の手配に走り回り、里の帳簿の山に埋もれて疲労の末死ね」


道実は呆然と冴衣を見つめたまま、完全に言葉を失っていた。手にした短刀が、力なく畳の上に転がり落ちる。


そんな道実を放置し、冴衣は視線を隣の老人に移した。

「それより、灰庵」


名を呼ばれた灰庵が、「カカカ!」と独特の乾いた笑い声を上げた。

「いやはや、この娘の肝の据わり方、尋常ではないな。実に、実に面白い!」


「笑い事じゃない。あの変の当日、大和にいたあんたが、裏であたしと母を秘密裏に逃がし、この甲賀の末端の村にまで匿う手引きをしたんだろう。当時、松永の実権を握っていたあんたにしかできない芸当だ」


「……さて。老いぼれの記憶はひどく曖昧でな。そのようなことがあったか、どうか」


飄々とはぐらかす灰庵に対し、冴衣はふっと口角を上げた。

「とぼけなくていい。あたしは、あんたに感謝している。あの時、私を外の世界へ逃がしてくれたこと、恩にきている。おかげで、退屈せずに生きられているからな」


満福は、その一連のやり取りを静かに見届けていた。

冴衣の心中に嘘はない。道実の忠義と激しい後悔も本物だ。そして灰庵の底知れぬ計算も。


「……話は終わったな」

満福は短く、冷徹な声で場を締めた。

「道実、短刀をしまえ。お主の命はわしのものだ。冴衣への詫びは、今後の実務の働きで示せ。冴衣も、今後は一切の遠慮なく、道実をこき使ってやればよい」


「わかってるさ。せいぜい、物資の調達に駆けずり回ってもらうさ」

冴衣は短く頷き、悪びれもなく言い放つ。


道実はまだ震えが止まらない様子だったが、胃の辺りを強く押さえながら、深く、何度も畳に額をこすりつけた。

「は、ははっ……! あぁ、また胃が……しかし、この命、粉骨砕身、殿と……冴衣殿のために……手配のすべて、完璧にこなしてご覧に入れます……!」


その姿を見て、灰庵は「カカカ! 我が息子は一生、この娘に頭が上がらんな!」と手を叩いて笑った。


「それでよい。わが陣営において、過去の出自や遺恨など無意味。互いの背を預けられるか否か、使えるか否か、それだけだ。下がれ」


満福の命令に、三名が深く一礼する。

わだかまりという名の膿は、今、完全に絞り出された。


冴衣の出自については、今後重要な役割を果たすので、二話閑話としました。

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