閑話其の四 冴衣と佐吉と「紗(うすもの)」
天正九年(一五八一年)五月
「……あ、あの! 冴衣殿! お待ちくだされ!」
甲賀の里、物資の集積所へと続く細道に、情けないほど上気した声が響いた。石田佐吉である。
彼は一抱えもある書状の束を抱えながら、前を行く冴衣を必死に追いかけていた。
「なんだ、佐吉。私はこれから硝石の差配に行かねばならぬ。忙しいのだ」
「分かっております! ですから、その硝石の運搬経路、人足の割り振り、道中の握り飯の米の量まで、この私が完璧な算段を立てておきました!」
佐吉は胸を張り、一分の隙もない数字が並ぶ書状を差し出す。羽柴秀吉を驚嘆させた「三献の茶」の才は、今や冴衣への過剰なまでの事務的献身へと注がれていた。
「……頼んでいない」
「冴衣殿が手を煩わせる必要はないのです。貴女はただ、その鋭い瞳で未来を見据えていれば良い。泥臭い計算は、この佐吉がすべて……!」
「しつこい。お前のその理屈の詰まった癪に障る顔を見ていると、無性にクナイを投げたくなる。失せろ」
冴衣が冷たく突き放すと、佐吉は打ちひしがれるどころか、「ああ、今日も凛々しい……」と頬を染めてその場に釘付けになった。その重症な恋煩いぶりには、主君である万福丸すら「ただの発情期の若造ではないか」と呆れ果てているほどだった。
その日の夕刻。
一仕事終えた冴衣は、里の端にある静かな滝で、首元の「紗」を解き、汚れを落としていた。
そこへ、偶然通りかかった満福が声をかける。
「冴衣、こんなところで何をして……」
驚いた冴衣の手元から、薄い布が滑り落ち、満福の足元へ流れた。
それを拾い上げた満福の目が、布の端に施された刺繍で止まった。
「丸に二つ引」、足利家の家紋だ。
(……おい満福、そいつは足利の紋だ。だが、ただの紋じゃねえ。京の御用職人が将軍家の直系にだけ施す、特別な隠し縫いが見える。そいつは……)
脳内の時任が声を潜めるのと同時に、冴衣が低く、震える声で言った。
「……見られたか」
その瞳は、いつもの鋭さを失い、絶望に近い諦念が宿っていた。
「返せ、満福。それは、父の形見だ。……私の父は、第十三代将軍・足利義輝。母はその側室であった」
満福は息を呑んだ。
永禄八年、剣豪将軍が討たれた「永禄の変」。当時、冴衣は数えで六歳。懐妊の時期も、幼少の記憶が残る年齢も、すべてが符合する。
「義輝様が亡くなられた後、母と私はこの甲賀へ逃げ延びた。甲賀衆は足利家に恩義があるゆえ、鵜飼家が私を預かってくれたが……今の将軍(義昭)にとって、前将軍の直系は、己の正当性を脅かす『あってはならぬ火種』でしかない」
(これは驚いたな。おい満福、こいつはマズすぎるぞ。冴衣にとって灰庵親子は親の仇だ。だが、当時の記録では、当時松永久秀だった灰庵は、変の当日、現場に立ち会ってないっていう説もある。……もしかすると、こいつが冴衣を逃がした張本人って可能性もあるぞ。いずれにせよ、この件は、爆弾を抱えてるようなもんだ、慎重に扱えよ)
満福は、時任の言葉を聞き、改めて事の重大さを認識したのだった。
冴衣は自嘲気味に笑い、満福の手から「紗」を奪い取るように受け取った。
「だから私は本姓を名乗れぬ。忍びとして影に潜み、高貴な血を呪いながら死ぬのが定めなのだ。……憐れだと思うか? 」
「……思わぬな」
満福は真っ直ぐに彼女を見つめ、不敵に笑った。
「わしも、浅井の子として死ぬはずだった。お主も、義輝公の娘として消えるはずだった。だが今、我らはここに生きている。血筋が呪いなら、その呪いを塗り潰すせば良い。お主は『ただの冴衣』として、好きに生きれば良かろう」
冴衣は目を見開き、主君の顔を凝視した。
「……傲慢だな、お前は」
「褒め言葉として受け取っておこう」
満福は笑い、その「紗」を丁寧に彼女の首に巻き直してやった。
「冴衣殿! 滝冷えは体に毒です! 予備の『紗』と、温かい白湯を持って参りましたー!」
遠くから、またしても佐吉の空気の読めない声が響く。
「……満福。やはり一発だけ、あいつにクナイを投げても良いか?」
「許可する。ただし、急所に当てるなよ。あいつがいなくなると、里の勘定方が瓦解するからな」
冴衣の叫びと、佐吉の悲鳴と、満福の呆れ声が、夕闇の甲賀に賑やかに響き渡った。
いよいよ最終章です。
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