第六十八話 歪む世
天正九年(一五八一年)十月
近江国、安土城
秋風が吹き抜ける大広間は、重苦しい静寂に支配されていた。
上座に座す織田信長の前に平伏しているのは、丹羽長秀である。その声は、微かに震えを帯びていた。
「……申し上げます。伊賀・甲賀へ侵攻した我が軍勢五万は、各地にて甚大な被害を受け、敗走。中でも玉滝口において、総大将であらせられた信忠様は……浅井の旧臣・遠藤喜三郎なる者の凶刃に倒れ、討ち死になされました」
信長は動かなかった。表情一つ変えず、ただ床の木目を見つめている。
「信忠様の御首と御遺体は、敵方に寝返った磯野員昌と浅野長政殿との交渉の末、無事引き取られております。しかし……」
長秀が言葉を淀ませると、信長は静かに顔を上げた。その双眸には、人間らしい感情は一切なく、ただ底知れぬ暗い炎だけが揺らめいていた。
「もはや、疑いようもないな。……浅井の、遺児か」
信長の口から漏れたのは、ひどく乾いた声だった。
かつて小谷城が落ちた際、あの脱出した幼子を羽柴秀吉の奴めが取り逃がした事実。それが今、甲賀の泥に潜み、虫と毒を操る怪物となって、自身の後継者である信忠の命を奪ったのだ。
「あの時、猿めが確実に捕縛しておれば……浅井の血脈は根絶やしにすべきであったのだ……!」
信長が傍らの脇差を掴み、床板に深々と突き立てた。刃が折れる甲高い音が響く。
信長の胸中に渦巻いていたのは、単なる敗戦の怒りではない。己が築き上げてきた武力の結晶が、甲賀の山奥に潜む名もなき「毒」によって敗れ去ったという、得体の知れない恐怖と、浅井という血脈に対する異常なまでの憎悪の確信であった。
***
同時期
甲賀・油日の隠れ里
焼け焦げた木々の匂いが漂う館の奥で、満福は床几に腰を下ろしていた。
「道実、佐吉」
満福が呼ぶと、泥にまみれた二人が進み出た。
「里の復興を急げ。冬が来る前に、焼け落ちた工房と家々の再建が最優先だ。最低限の体制を立て直せ」
「はっ。人員の割り当てはすでに済ませております」
道実が力強く頷き、佐吉も帳面を手に駆け出していく。
「……佐助、磯野、高虎」
次に満福が呼んだのは、武と裏の仕事を担う三名であった。
「織田を手引きした裏切り者……山岡景友、多羅尾光俊、伴長信の三名を、生かしてはおくわけにはいかない。痕跡を残さず、確実に始末しろ」
「御意」
三名は短く応え、殺気を纏って姿を消した。
その一連の冷徹な差配を、部屋の隅で静かに控えていた灰庵が見つめていた。
(……五万の大軍を退け、織田の嫡男を殺した。それだけの事を成し遂げながら、この少年は驕ることも、笑うことすらしない)
灰庵の脳裏に、かつて自身が仕えた天下人・三好長慶の姿がよぎった。いや、もはや目の前の少年は、長慶すら超える底知れぬ深淵を抱えている。冷徹なまでの盤面の支配力と、躊躇なき決断。
灰庵は静かに膝を突き、これまで決して見せなかった深く恭しい平伏をした。
「……恐れ入りました。殿」
坊主、とからかうような呼び方は消え去り、そこには主君に対する絶対の忠誠を誓う男の姿があった。
それから十日と経たず、裏切りの代償は凄惨な形で支払われた。
伊賀の地理を知り尽くしていた多羅尾光俊は、引き揚げた先の自領の館に厳重な警護を敷いていたにもかかわらず、一族もろとも声も上げずに喉を掻き切られた。
伴長信も、自領の館にて安堵の酒をあおった直後、突如として吐血を繰り返し、内臓を腐らせて悶死。
山岡景友に至っては、自領へ戻り警戒を解いた矢先に寝所から忽然と姿を消し、後日、山中で首の無い獣の食い散らかした残骸として発見された。
甲賀を売った者への見せしめとして、彼らの存在は徹底的に抹消されたのである。
満福の脳内で、時任がふと呟いた。
(……伊賀の案内役だった多羅尾がここで死んだか。なら、本能寺が起きた後の、徳川家康の『伊賀越え』は一体どうなるんだ……?)
史実の歯車がまた一つ、外れ落ちた音を、時任だけが聞いていた。
***
甲賀の放った一撃は、織田という巨大な歯車を確実に狂わせていった。年が明け、天正十年の織田を取り巻く情勢の変転である。
三月、甲州征伐。
本来であれば、織田信忠という最大の推進力を持って電光石火の進撃を見せるはずであったこの戦いは、信忠不在により指揮系統が混迷。軍の進軍速度は著しく鈍化した。新府城に籠る武田勝頼はこの隙を突いて体制を立て直し、織田軍は甚大な出血を強いられることとなる。結果として武田氏は弱体化したものの、甲斐の完全制圧には至らず、勝頼は生き延びるという歴史の大きな分岐が生じた。
四月、信濃の支配再編。
泥沼化する東国戦線の打開策として、信長は滝川一益を関東方面への牽制として配置するが、武田の残党と北条の不穏な動きに挟まれ、その統治は極めて不安定なものとなった。
五月十五日、徳川家康が安土城を来訪。
接待役を命じられたのは明智光秀である。この宴の席で、信長は家康に対し、浅井長政らの「黄金の髑髏」をことさらに強調して披露した。それは単なる戦勝の誇示ではなく、浅井の血脈に対する信長の異常なまでの執着と狂気の発露であった。この常軌を逸した信長の姿は、接待役の光秀の心に決定的な絶望と恐怖を植え付けることとなる。
その頃、西国では羽柴秀吉が備中高松城を水攻めで包囲していたが、毛利方の激しい抵抗に遭い、戦線は膠着状態に陥っていた。
歴史上、最も有名にして謎に包まれた謀反。
浅井家の怨敵であり、満福の最大の仇が灰燼に帰す
本能寺の変まで、刻は一月を切っている。
いよいよ最終章です。
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