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戦国昆虫戦記【泥中羽化】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第七章 甲賀羽化編 〜魔王への叛意と運命の変異〜

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第七十話 裏・本能寺

歴史上、最も有名にして謎に包まれた謀反。

浅井家の怨敵であり、満福の最大の仇が灰燼に帰す「本能寺の変」の刻は、目前に迫っていた。


天正十年(一五八二年)六月一日、夜。

京、本能寺。

堂の奥深く、蝋燭の炎が微かに揺れる中で、織田信長は冷徹な眼差しを床へと落としていた。そこに平伏しているのは、泥にまみれ、息も絶え絶えに駆け込んできた六角義賢と義治の親子である。


「……浅井の遺児が甲賀を率い、手薄の安土を狙う出陣の用意をしておるだと」

信長の低く乾いた声が響く。


「は、はっ! 奴ら、上様が京へ向かわれた隙を突き、居城を奪う腹積もりに相違ありませぬ! 我ら親子、この危機をいち早く上様にお知らせすべく、甲賀の監視を命がけで抜け出して参りました!」

義賢が必死に言葉を連ね、義治もそれに同調して深く頭を擦り付けた。かつて南近江を支配した名門の姿はそこにはなく、あるのは保身と浅薄な野心に縋る哀れな姿だけであった。


信長は、鼻で嗤った。

「安土の留守居には、蒲生賢秀を置いてある。通常の城攻めならば、あの城が容易く落ちることはない」

だが、信長の脳裏に、玉滝口で一万五千の軍勢を壊滅させた「泥と虫と毒」の凄惨な光景が蘇った。

(……蒲生のような真っ当な武将の防衛網など、あの怪物の放つ毒の前には無意味だ。……井戸に毒を放たれ、兵たちの間に猜疑心という病が蔓延すれば、内側から瓦解する。もしくは、目に見えぬ毒と蟲に城門の内側を侵食されれば、蒲生ごときでは防ぎようもなかろう。または、……くっ、考え出したらキリが無いな)


信長の胸中に、信忠を失った際のあの異常なまでの殺意と、浅井という血脈に対する執着が業火のごとく燃え上がった。ここで本能寺に留まれば、己の築き上げた全てが、あの名もなき泥虫に喰い破られる。


「……蘭丸。直ちに少数にて出立の支度をせよ」

信長は立ち上がった。


「上様、夜も更けております。いずこへ?」

「安土へ戻る。俺の手で、あの泥虫を根絶やしにする」


六角親子は顔を見合わせた。

「上様、我らへの御褒美は……」


信長は冷酷に見下ろした。

「大儀であった。余は陣容を整えるゆえ、お前たちはこの本能寺に残り、使者を待て。決して動くな」

それが、近江の名門たる六角の血脈がここで途絶えるという、死神の宣告であるとは露知らず、親子は歓喜に震えて平伏した。


信長は天下人としての誇りも、供回りの数もかなぐり捨てた。ただ「満福への復讐」という暗い炎のみを抱き、夜の闇に紛れて本能寺の裏手から極秘裏に京を脱出したのである。


数時間後、六月二日、未明。

静寂に包まれた京の町を、地鳴りのような足音が揺るがした。


「敵は、本能寺にあり!」

明智光秀が率いる一万三千の軍勢が、水色桔梗の旗を翻して本能寺を完全包囲した。

怒号と共に火矢が放たれ、桔梗の兵たちが雪崩れ込む。だが、堂内に待ち受けていたのは、異様なほどの静けさであった。


「……明智の謀反じゃ! 逃げろ!」

寝込みを襲われた六角親子は、状況も理解できぬまま悲鳴を上げて逃げ惑った。しかし、本能寺に火を放ち、血眼になって信長を探す明智兵の槍が、彼らの体を無惨に串刺しにした。かつての近江の覇者は、誰にも知られず、ただの身代わりの肉塊としてその歴史を閉じた。


「……もぬけの殻、だと?」

炎に照らされた境内で、報告を受けた明智光秀は絶望に顔を歪めた。信長がいない。「天下人」を討つという大義名分が消滅した瞬間、光秀はただの逆賊へと転落したのである。


***


同刻。甲賀・油日の隠れ里。

夜明け前の薄暗い館の廊下を、冴衣が足早に歩み、満福のいる部屋の襖を開けた。

「……満福。六角義賢、義治の両名と、その供回りの姿がないよ。里を抜け出したようだ」


満福の眉が微かに動いた。

「……逃げたか。あの程度の者たち、放っておけと言いたいが……」


その時、庭先の竹垣を飛び越え、息を乱した佐助が部屋に転がり込んできた。

「殿! 京に潜伏させていた配下の忍びからの急報です!」

佐助の顔は、かつてないほどの驚愕に蒼ざめていた。

「明智光秀が謀反! 一万三千の軍勢で、本能寺を急襲いたしました!」


その言葉に、満福の脳内で時任が息を呑む気配がした。歴史の必然、本能寺の変が起きたのだ。

「……ならば、信長は死んだか。業火の中で、腹を切ったか」


満福が低い声で問う。だが、佐助は首を激しく横に振った。


「いえ! 明智の軍勢が突入した時、本能寺は『もぬけの殻』であったとのこと! 信長は、明智の襲撃より前に、少数の供回りのみで本能寺を脱出したとのこと。それと、六角親子らしきものが本能寺に入ったとの報告もございます」


「な……んだと?」

満福の目が大きく見開かれた。

その瞬間、満福の頭の中で、散らばっていた点と点が一本の線となって繋がった。


六角親子の脱走。彼らが向かった先は、京にいる信長の元。

「奴ら、俺が手薄の安土を狙うと、信長に注進したのか……!」

そして、その報告を受けた信長は、蒲生賢秀の防衛力では甲賀の毒を防げないと判断した。己の城を守るため、あるいは満福を自らの手で殺すために、信長は夜陰に乗じて本能寺を脱出したのだ。


満福の背筋に、冷たい汗が伝った。

自分が生き延び、甲賀の軍勢を率いて織田に牙を剥いた。その「存在」そのものが、六角を動かし、信長に安土の危機を知らせてしまった。

本来であれば本能寺の炎の中で命を落とすはずだった織田信長は、浅井満福が生きているが故に、皮肉にも死地を脱したのである。


「俺の生が……あの魔王の命を長らえさせたというのか……!」

満福は床几から立ち上がり、思わず自らの頭を抱えた。胃の腑の底から、吐き気のような悪寒が込み上げてくる。


(時任! どういうことだ! 歴史が変わったぞ!)

満福は脳内の虚空に向かって叫んだ。


(奴はどこへ向かっている。安土だよな?追撃の兵を出すべきか、それともこのまま……。時任、お前の知識はどうなっている! 答えろ!)


だが、返事はなかった。

時任は知っていた。もはや自分が記憶している「日本史」という名の定石は、たった今、完全に断ち切られ、虚空へと放り出されたのだということを。


(時任!……おい、時任!)


満福の焦燥に満ちた叫びだけが、夜明け前の甲賀の山々に虚しく吸い込まれていった。時任の重い沈黙だけが、未知の歴史の幕開けを告げていた。


【昆虫戦国戦記 第一部:泥中羽化編 完】


ここまでお読み下さった読者の方々、本当にありがとうございました。

どうか、本作の⭐️評価を下さるとありがたいです。


「第一部」は、これにて完結となります。


史実においてわずか九歳で歴史の舞台を降りた浅井長政の嫡男が、もし生きていたら、戦国時代にどの様な変化が生じた可能性を考察し、描いた次第です。


本作では、その大きな変化のひとつとして、本能寺の変を信長が回避したこととしました。


あと、バディの相手を、武器愛好家とか化学者にするとチートすぎる、農業専門家だと二番煎じ感あるかな。

こんな思考を経て、昆虫学者ならどうだろうと思いついたのが、時任の設定でした。


「第二部」は、いよいよ浅井家の本格復興を描きたいと考えております。


もし、続きを読んでみたいと思って下さいましたら、再びお付き合いください。


その際は、是非とも「第二部」のブックマークと期待を込めての⭐️評価を頂けますと、執筆に意欲が湧きます。


第二部リンク

https://ncode.syosetu.com/n1009md/

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