第六十六話 断たれた魔王の血脈
天正九年九月
東の柘植口。織田信包の三千は、オオスズメバチの波状攻撃と泥の器によって恐慌をきたし、瞬く間に瓦解していた。
「手応えのない奴らよ! ここは粗方片付いた。北畠の一万は手こずっておるはずだ、加勢に向かうぞ!」
猛将・磯野員昌は返り血を拭いもせず、部隊を率いて即座に伊勢口へと兵を向けた。
一方、背後の伊勢口。
高虎と喜三郎が率いる二千は、北畠信雄の一万を相手に激戦を繰り広げていた。
『狂い汁』によるオオスズメバチの襲撃と毒刃で先陣こそ崩したものの、圧倒的な兵力差による波状攻撃が、次第に甲賀勢を圧迫し始めていた。
「次から次へと……! 腐っても一万か!」
喜三郎が迫る槍を弾き返す。高虎も無言で刃を振るうが、陣形は防戦一方に押し込まれつつあった。
そこへ、側面から怒声が轟いた。
「小童ども、道を開けい!」
到着した磯野の軍勢が、北畠軍の側面に雪崩れ込んだのである。
予期せぬ強襲に、優勢に転じていた北畠の陣形は完全に両断された。
「退け! 退けぃっ! どこから現れた、この軍勢は!」
突如として横腹を食い破られ、北畠信雄は完全に恐慌をきたした。総大将たる威厳を失い、我先にと逃げ散っていく。後続の兵も陣形を寸断され、蜘蛛の子を散らすように潰走していく。
その背を見送り、高虎が短く息を吐いた。
「……助かった、磯野殿」
「気にするな! さあ、休む暇はないぞ。このまま玉滝口へ向かい、信忠本軍の横腹をぶち破る!次は手強いぞ」
刃の血を拭う暇もなく、三将はただちに軍を再編し、信忠本陣への行軍を開始した。
伊賀北西・玉滝口。
織田信忠が率いる一万五千の本軍は、険しい山道に長大な隊列を伸ばしていた。甲賀の隠れ里を物理的にすり潰すための圧倒的な物量であるが、裏を返せば、それは莫大な兵糧を消費する鈍重な巨大獣でもあった。
その獣の胃袋とも言える後方の兵糧陣に、六助は夜の闇に紛れて潜り込んでいた。
(……表面に火を点けるな。底に仕掛けろ)
満福の冷たい声が脳裏に蘇る。六助は震える手を押さえつけながら、山のように積まれた米俵の最下層、最も荷重のかかる中心部へと潜り込んだ。
持参した焔硝(黒色火薬)の周囲に、油布と松脂を分厚く巻きつける。それを米俵の隙間へと深くねじ込み、長く取った火縄に火種を移した。
ジジジ、と微かな音を立てて火薬への導線が燃え進むのを見届け、六助は決して振り返ることなく闇の中へ駆け出した。
数刻後。
玉滝口の山間に、大地を揺るがすようなどす黒い爆発音が轟いた。
爆圧によって数百の米俵が宙に吹き飛び、中身の白米が雪のように散乱する。そこへ松脂と油の引火による猛烈な炎が襲いかかった。隙間なく詰まっていた米は、宙を舞うことで瞬時に空気をはらみ、爆発的な連鎖燃焼を起こしたのである。
夜空を焦がす巨大な火柱が、一万五千の兵糧を瞬く間に灰へと変えていく。
「兵糧が……焼かれました! 米はすべて灰燼に帰し、消火の術もございませぬ!」
伝令の悲痛な叫びが、本陣に響き渡った。
床几に腰掛けていた織田信忠は、赤々と染まる後方の夜空を呆然と見つめた。傍らの丹羽長秀の顔にも、隠しきれぬ動揺が走っている。
一万五千の兵が、この険しい山中で食料をすべて失った。今年襲った凶作の煽りで、ただでさえ予備の兵糧は乏しい。飢えは瞬く間に軍の士気を削ぎ落とし、統制を崩壊させる。
さらに信忠の焦燥を煽るように、前線から次々と凶報が舞い込む。
「申し上げます! 前方の隘路にて甲賀衆(望月勢)の奇襲! 姿は見えず、ただ狂暴な大蜂の群れと、悪臭を放つ泥の筒が陣に投げ込まれ、先陣の足が完全に止まっております!」
望月吉棟が率いる五百の兵は、決して正面からはぶつかってこない。徹底した遅滞戦術であった。進もうとすれば蜂と泥が陣形を内部から崩し、後退しようにも兵糧はすでに無い。
信忠の目に、血走ったような焦りが浮かび始めた。
「……退くことはできぬ。ここで足を止めれば、一万五千が飢え死にするだけだ」
魔王の嫡男としての冷静な判断力が、少しずつ削り取られていく。
「全軍、前へ出よ! 犠牲を構わず押し通れ! 力押しで甲賀の隠れ里を踏み潰し、奴らの蔵を奪うのだ!」
丹羽長秀が制止しようと口を開きかけたが、信忠の双眸に宿る狂気に似た切迫感に、言葉を呑み込んだ。
満福の描いた盤面の通り、信忠は兵糧という絶対の理を失ったことで、盲目的に前進するだけの「餓狼」へと変貌しつつあった。
兵糧を失い、飢えと焦燥に駆られた織田の主力一万五千は、玉滝口の隘路で異様な縦長の陣形を余儀なくされていた。前方からは望月勢の執拗な遅滞戦術を受け、足掻くほどに体力をすり減らしていく。
その長く伸び切った陣の側面に、死神が降り立った。
「放て」
崖上に潜んでいた三雲佐助が、冷たい声を落とす。
頭上の樹冠から、おびただしい数の素焼きの筒が織田の陣へと投げ込まれた。筒が砕け、周囲に悪臭を放つ泥と『狂い汁』――オオスズメバチの攻撃フェロモンを模した溶液が飛散する。
「な、なんだこの臭いは……! 痛ぁっ! 蜂だ、巨大な蜂の群れだ!」
飢えで感覚が過敏になっていた織田兵たちは、突如として襲い来たオオスズメバチの波状攻撃に恐慌をきたした。陣形が内側から弾け、兵たちが無秩序に逃げ惑う。
その混乱の坩堝へと、甲賀の精鋭三千が斜面を下って雪崩れ込んだ。
先陣を切るのは、「十一段崩し」の猛将・磯野員昌である。
「かかれ! 魔王の倅の喉笛を噛み千切れ!」
磯野、高虎、喜三郎が率いる部隊の刃には、すべて満福が調合した致死の毒が塗布されていた。
オオスズメバチとトビズムカデの神経毒に、ハシリドコロを混ぜ合わせた戦国最強の無音兵器。
甲賀兵の刃が織田兵の腕や脚を浅く切り裂く。致命傷ではない。だが、傷を負った兵たちは一様に目をひん剥き、声にならない痙攣を起こして次々とその場に崩れ落ちていった。
中枢神経を即座に遮断されたことによる、呼吸停止であった。
未知の毒により、自軍の兵が傷ひとつで次々と奇死を遂げていく光景は、織田信忠の理性を完全に焼き切った。
「退くな! 踏み止まれ! 妖術に惑わされるな!」
信忠は血走った目で戦場を睨み、暴れ狂う猛将・磯野員昌の姿を捉えた。
「あれが敵の将か……! 丹羽、前を塞げ! わしが直々にあの首を獲る!」
「若君、なりませぬ! ここは一度兵を退き、陣を立て直さねば!」
丹羽長秀の悲痛な制止を振り切り、信忠は馬を蹴って自ら乱戦の渦中へと突撃した。餓狼と化した信忠の槍が、鬼神の如き磯野に迫る。
飢えと絶望が引き出した信忠の膂力は凄まじく、磯野の太刀を弾き飛ばした。
「ぐっ……!」
体勢を崩した磯野の胸元へ、信忠の槍が深く突き込まれようとしたその瞬間。
横手から泥まみれの将が割って入り、素手で信忠の槍の柄を掴み止めた。
遠藤喜三郎であった。
「……魔王の倅。その命、ここで貰い受ける」
喜三郎の脳裏には、姉川の合戦で信長の首を狙い、無念の中に散った父・直経の姿が焼き付いていた。浅井の忠臣であった父の怨嗟が、喜三郎の腕に人ならざる力を宿す。
「貴様ごときが……!」
信忠は食い込んだ槍を引き抜こうと力んだが、獲物は喜三郎の骨に噛み合わされ、微動だにしない。即座に槍を捨てた信忠は、腰の脇差を抜き放ち、至近距離から突き立てた。
喜三郎の横腹に、白刃が深々と突き刺さる。肉を裂き、内臓を掠める致命的な一撃。
だが、喜三郎は血を吐きながらも笑った。自らの肉を犠牲にして、信忠の懐へ完全に入り込んだのである。
「親父の無念、晴らさせてもらうぞ!」
毒の塗られた喜三郎の刃が、信忠の頸動脈を正確に一閃した。
どす黒い血飛沫が玉滝口の宙を舞い、織田の次代を担うはずであった若き総大将の首が、泥濘へと転がり落ちた。
「……信忠公、討ち取ったり!!」
腹から血を流しながら、喜三郎が獣のような勝鬨を上げる。
その声は、一万五千の織田軍にとって、世界が崩壊する音に等しかった。
総大将の死。未知の毒による死者の山。そして佐助の放った蜂と泥の追撃。
あらゆる理を失った織田本軍は、完全に恐慌状態に陥り、武器を捨てて我先にと山を逃げ下りていった。本軍の潰走である。
「……やったか、喜三郎」
高虎が駆け寄るが、喜三郎はその場にどさりと膝をつき、大量の血を吐いて倒れ伏した。横腹の傷は深く、瞬く間に周囲の泥を赤く染めていく。
「喜三郎! 死ぬな! 殿が待っておられるぞ!」
磯野が信忠の首と遺体を確保しながら叫ぶ。
大軍の側面を食い破るという奇跡を成し遂げた代償は、あまりにも重かった。高虎は喜三郎を背負い上げ、血濡れの戦場から本拠地である隠れ里へと急ぎ踵を返した。
いよいよ最終章です。
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