第六十五話 第二次天正伊賀の乱
天正九年九月
吹き抜ける長月の風は冷たく、夜ごとに降りる白露が野山の草木を静かに枯らしていく季節である。
甲賀の南東端、油日。伊賀との国境に張り付くように位置するこの地は、鈴鹿の山塊と複雑に入り組んだ谷戸に隠された天然の要害であった。鬱蒼たる森の奥深く、斜面を削り出して要塞化された館と、その周囲に広がる工房群――それこそが、浅井満福が泥を啜りながら築き上げた隠れ里の本拠である。
館の奥、仄暗い部屋で地図を凝視していた満福の前に、音もなく一筋の影が落ちた。三雲佐助である。
「主。安土、および周辺諸国が動きました。……想定しうる限り、最悪の布陣にございます」
佐助の報告は、私情を排したように冷徹であった。その手には、各地の忍びから集約された情報が記された密書が握られている。
「織田の全軍、その数五万余。伊賀を包囲する六つの街道――伊賀六口すべてから、同時に雪崩れ込んでおります。網を絞るが如き、徹底した殲滅の構えです」
満福は視線を地図から外さず、低く問いかけた。
「敵の陣容を申せ。どこに、誰が、どれほどの数で迫っている」
佐助は秋虫の沈黙による振動検知網により、迫り来る布陣を完璧に把握していた。手元の密書を開き、淡々と告げた。
「まず、わが隠れ里に直接向かってくるのは三方。北の玉滝口より織田信忠、丹羽長秀らが率いる一万五千の主力。東の柘植口より織田信包が三千。背後の伊勢口からは織田信雄が一万。計三万近い兵が、この隠れ里を押し潰そうとしております」
「……信忠が一万五千を率いて自ら来たか。残りは」
「伊賀の制圧へと向かう加茂口、信楽口、笠置口の三方から、堀、蒲生、筒井らの軍勢が計二万。さらに看過できぬ事態として……山岡景友、多羅尾光俊、伴長信ら、土地を知る者たちが織田に降り、案内人を務めております。伊賀の制圧が済めば、わが里の背後を突く布陣であることは明らかかと。」
「くそっ!山岡、多羅尾か……!」
満福は血の気が引くのを感じた。身内の裏切りほど、始末に負えぬ毒はない。
「佐助、至急だ。主要な将をすべて広間に集めよ。軍議を開く!」
数刻後。館の広間には、油日の冷気すら凍り付くような緊張が満ちていた。
正面上段に座す満福の眼前に、この隠れ里の頭脳と武力が並ぶ。
右には、歴戦の猛将・磯野員昌と古参の藤堂高虎、遠藤喜三郎。
左には、灰庵と道実の親子、そして甲賀の膨大な物資と兵站を管理する若き俊才・石田佐吉が、神経質そうに帳面を指でなぞりながら控えている。
さらにその対面には、甲賀の自治を担う重鎮たち――筆頭の望月吉棟、三雲成持、山中長俊、美濃部茂濃が並び、傍らには没落したとはいえ威厳を纏う六角承禎・義治の親子が座していた。
下座の影には、冴衣、三雲佐助、六助。
満福は一同を一瞥し、重々しく口を開いた。
「……集まってもらったのは他でもない。佐助、報告せよ」
下座の佐助が、織田五万の軍勢が「六口」より同時に雪崩れ込んでいる現状を告げた。そして、山岡景友、伴長信、多羅尾光俊らが織田の先導役として隠された間道を差し出している事実を突きつける。
広間が、水を打ったように静まり返った。
多羅尾の名が出た瞬間、三雲成持の太い眉が跳ね上がった。裏切りという行為に対して、誰よりも激しい拒絶反応を見せる男であった。
「……山岡のみならず、多羅尾までもが魔王の手先となったと。奴らはこの甲賀の誇りを、どこの泥に捨ててきたのだ」
成持の拳が、畳をきしませた。
筆頭の望月吉棟は、静かに目を閉じていた。
「信長は我らの自治を、この山の掟を根こそぎ奪うつもりだ。検地を拒み、支配を撥ね退けてきた我らにとって、これは避けて通れぬ審判の日よ。多羅尾が裏口を教えれば、伊賀の制圧は時間の問題と思われます。」
沈黙を破ったのは、灰庵であった。彼は皮肉げに口角を歪め、盤面を見下ろした。
「坊主、見事なまでの死地だな。当方は四千、対する敵は五万。だが、後詰め(援軍)のない籠城などただ死を待つだけの檻だ。
一縷の望みは、我が軍の兵の練度、凶作による織田の兵糧不足、そしてこの地形だな。平野であれば数の差で圧し潰されるが、この険しい山容ならば大軍の利を削ぐことができる。
……いずれにせよ、敵を分断しての各個撃破しか活路はない。さあ、どう駒を進める?」
(……その老人の言う通りだ、万福。近代戦術において、寡兵が多勢を打つ絶対条件は『各個撃破』と『遅滞戦闘』だ。兵力を遊ばせず集中させ、敵の陣形の綻びを一つずつ食い破れ。史実では、この乱は織田の圧勝に終わっている。無理筋と言っていい戦いだ。その上、本来なら信忠の参戦は無かったはず。……本気だぞ、信長は)
厳しい戦いは元より承知だ。時任の軍事論に内心で同意しつつ、満福は冷たく言い放った。
「各個撃破しかないな。伊賀は捨てる。我らが優先すべきは、この隠れ里へ向かってくる三部隊の対処だ」
満福は地図上の駒を動かした。
「高虎、喜三郎。お前たちはそれぞれ千の兵を率い、背後の伊勢口から迫る北畠信雄の軍勢にあたれ。磯野は同じく千を率いて、東の柘植口からの織田信包を叩け。……各部隊の兵には『命の泥』を持たせ、兵の損耗率を極限まで抑えよ」
「承知仕った」
歴戦の将たちが低く応じる。
「加えて、すべての刃に例の毒を塗布しておけ」
(……オオスズメバチの毒腺とトビズムカデから抽出した神経毒を、ハシリドコロの成分で調整した麻痺薬。中枢神経を即座に遮断する、戦国時代最強の「無音兵器」)
「深手は不要、傷一つ与えればそれでよい。それでも、直接の対峙は最後の最後だ。今回も、虫の力を借りるぞ。佐助、オオスズメバチの巣の配置はどうなっている」
下座の佐助が、平伏したまま淡々と答えた。
「主。先の布陣調査の折、この隠れ里へ向かう三つの口については、すでに設置を済ませております。……伊賀方面は奴らの裏切りが早く、間に合いませなんだが」
(……先見の明がある優秀な斥候だ。この男には後で褒美をくれてやれ)
脳内の時任が、佐助の独断専行ともいえる手際の良さを高く評価した。満福もまた、口元に微かな笑みを浮かべる。
「相変わらず、流石だな。佐助、忍びを使い、北畠勢と信包勢に『狂い汁』を浴びせよ。蜂の襲撃に重ねて『泥の筒』を放ち、奴らの戦意を根こそぎ奪ってやれ。……高虎、喜三郎、磯野。お前たちは敵が弱り切ったところを狙い、とどめを刺せ。いいか、首なぞ要らんぞ。毒の刃で一太刀浴びせれば、それで戦線は崩壊する」
「御意」
三将の返事に頷き、満福は対面に座す甲賀の重鎮たちへ向き直った。
「望月殿ら各家の当主は、五百の兵を率いて北の玉滝口――織田信忠と丹羽長秀の主力部隊にあたれ。間違っても、正面からぶつかるな。小規模な奇襲と『狂い汁』、『泥の筒』を用いて、ひたすらに奴らの進軍速度を遅延させよ」
望月吉棟が、静かに深々と首肯する。
その重々しい頷きを見届け、満福は六助を鋭く見据えた。
「六助。お前は敵の混乱に紛れ、信忠本軍の兵糧を狙え。
ただ表面に火を点けるな。隙間なく詰まった米俵は燃えにくい。硝石を投じて精製させた火薬
の周りに油布と松脂を分厚く巻き、兵糧の山の底に仕掛けろ。爆発で米を宙に散らし、油ごと引火させるんだ。……火縄は長く取り、火を放ったら決して振り返るな」
「は、はい! 満福様、きっちり燃やしてやります!」
各々への指示が終わったところで、高虎が訝しげに眉をひそめた。
「殿。その策では、この隠れ里の守りがあまりにも手薄。多羅尾の案内で、伊賀側から押し寄せる軍勢をどうされるおつもりか」
満福は視線を動かさず、傍らの冴衣を見た。
「冴衣と鵜飼一族が守ってくれるさ。……弾薬は豊富にあるからな」
「まかせな」
冴衣が火縄銃の台座を叩き、獰猛な笑みを浮かべる。
「この谷間を抜けてくる奴らに、鉄壁の弾幕を張ってやるよ」
盤石の配置に、磯野が顔を綻ばせた。
「なれば殿、我ら、敵を追い散らした後はただちにここへ取って返し、お合流いたしますぞ」
「いや」
満福の冷たい一言が、磯野の勢いを止めた。
「お前たちはわしに合流せず、そのまま北上して信忠本軍の側面を突け。佐助も同時に、狂い汁と泥の筒で側面から援護しろ。兵糧が襲われれば、大軍といえども焦りは相当なものとなるはずだ。綻びは必ず出る」
満福は地図の玉滝口、信忠軍の駒を指先で強く叩いた。
「いいか、無理な攻撃はするな。時の経過は……我々に味方するからな」
数万の兵糧が内側から食い破られ、餓狼と化した敵が自壊する時を待つ。
十七歳の若武者が描いたその冷酷な絵図面に、歴戦の将たちは背筋を凍らせながらも、深く首を垂れた。
運命の時、本能寺の変まで、あと九ヶ月と迫っていた。
いよいよ最終章です。
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