第六十四話 御馬揃えと、理屈の側室
天正九年二月
浅井満福は、数えで十七となった。
かつて泥を啜り、山中に身を潜めていた稚児は、今や主としての風格をその身に纏いつつあった。
早春の鋭い冷気が残る甲賀の館にて、満福は重臣たちを集め、領内の総点検を行っていた。
「報告せよ直ちに。わが領地の力を」
満福の問いに、灰庵が皮肉げな笑みを浮かべて一歩進み出た。
「軍事におきましては、常備兵四千。これらすべて、栄養管理と組織的訓練を完了しておりますぞ。他国の雑兵とは、一対一の肉弾戦においても、集団での陣形維持能力においても、次元が異なりますな。まさに、丹精込めて育て上げた、冷徹なる兵隊蟻どもですな」
続いて、道実が神経質そうに帳面を広げた。
「経済も盤石にございます。昨年の『泥の羽音』作戦により織田領の米価は高騰いたしましたが、わが甲賀は生物的防除の成功により、空前の豊作。さらに内部生産を開始した硝石は、火薬の自給を完全に達成しておりますな。商人の介入を最小限に抑えたことで、蔵の蓄財は山を成しておりますぞ」
(……悪くない。経済と軍事、この両輪が揃って初めて、この甲賀という組織は維持できる。満福、お前が作った仕組みは、少なくともこの時代における一つの到達点だ)
脳内で、時任の乾いた声が響いた。
(だがな、内側が固まれば固まるほど、外側からの同化圧力は強まる。信長は近いうちに甲賀を手に入れようとするだろう。よいか、本能寺の変までは何としても持ち堪えるぞ)
時任の言葉を裏付けるかのように、二月二十八日、京都にて前代未聞の軍事行進が挙行された。『京都御馬揃え』である。
満福は、京の片隅にある古びた商家の一室に身を潜めていた。
織田の鋭い監視の目を掠め、商人に扮しての決死の潜入である。格子の隙間から覗き見えるのは、正親町天皇の御前で五百騎を超える精鋭を率いる信長の姿であった。それは天下の主が誰であるかを万民の脳裏に焼き付ける、残酷なまでの儀式であった。
(……凄まじいな。時任、お前の時代にも、このようなものがあったのか?)
(……ああ。観兵式という。昭和の初め、代々木練兵場でも大規模に行われた。独裁者が己の権力を神格化するための古典的な手法だ。軍事力を、抗いがたい力と美の象徴として見せつけているんだ。民衆は、その強大な暴力の輝きに酔いしれるんだ)
馬上の信長は、南蛮風の赤いマントを翻し、圧倒的な覇気を放っていた。その光景を眺めながら、満福は己の懐にある毒の感触を確かめていた。この華やかな行列を支える兵糧の多くが、昨年のウンカ被害により、実は深刻な不足の兆しを抱えているという皮肉。魔王が強大に見えれば見えるほど、その足元の空洞は深まっている。
数日後。
隠密裏に甲賀の館へと帰還した満福を待っていたのは、信長の追手よりも逃れがたい「絶対的な理不尽」であった。
「満福、戻りましたわね。呆けている場合ではありませんことよ」
居座っていたのは、京極の叔母上である。その後ろには、妻となったお照、そしてその妹である三女・お静が控えていた。
叔母上は、この山奥の館にあっても女王の如き威厳を漂わせていた。
「十七にもなって、正室一人で満足しているとは、浅井の嫡男として情けない。お照も一人では寂しかろうと思いましてね」
叔母上の瞳が鋭く光った。
「お静を、お主の側室として差し上げます。これで京極と浅井の絆は、誰にも引き裂けぬ鋼のものとなりましょう」
満福は絶句した。隣に立つお照は「わぁ、お静も一緒なら、毎日がもっと楽しくなりますわね!」と無邪気に手を叩いている。対するお静は、姉とは対照的に冷徹な、しかしどこか知性的な眼差しで満福をじっと見つめていた。
彼女はかつて満福が披露した「七三分け」の髪型を合理的と評した、ある種、満福と同じ理屈の人であった。
(おい時任、どうにかしろ。これ以上、館の中に京極の支配を広げられては、わしの精神が持たん)
(……前に行った通りになったな。お静は、お照の暴走を抑制する役割を果たせる。組織には、突き進む力とそれを監視する冷静な目が必要だ。お前への圧力が分散される可能性もある。二人の女王に挟まれるのは地獄だが、上手く競わせれば隙が生まれるかもしれんぞ)
(……貴様、他人事だと思って……!)
「満福、分かっていますね? 異存など、ありはしませんことよ」
叔母上の声には、拒絶を許さぬ圧があった。今後の甲賀にとって、京極家を通じた外交ルートは生命線である。ここで叔母上の機嫌を損ね、情報の入り口を閉ざされる実害は計り知れない。
満福は、先ほどまで見ていた京の空、信長の栄光を祝うかのようにどこまでも高く青かったあの空を思い出した。
自分は一万の軍を退け、他国の経済を破壊した。だが、この小さな女王の掌の上からは、どうしても逃れられない。
「……お好きになさいませ。浅井の血を絶やさぬことも、生き残ったわしの責務にござれば、もはや異議を唱えるつもりはありませぬ」
満福の口から漏れたのは、投げやりな降伏と、冷徹な損得勘定に基づいた諦念であった。
その瞬間、お静が初めて口角を微かに上げた。
「……承知いたしました、殿。わたくしは姉上のように、無闇にお側に侍るような真似はいたしませぬ。ただ、殿がこの甲賀に敷かれた仕組みを、誰よりも近くで見守り、日々の営みを克明に書き留めてまいりましょう」
お照が歓喜してお静に抱きつき、叔母上が満足げに扇を鳴らす。
満福は、家臣たちが「流石は殿、双璧の美女を従えるとは!」と感嘆する声を遠くに聞きながら、己の人生にまた一つ、逃れられぬ複雑な鎖が絡みついたことを悟っていた。
二月の末。京都が信長の圧倒的な光に酔いしれる中、満福は二人の妻という新たな包囲網を抱え、静かに祝言の盃を干した。
魔王の威光が頂点に達したこの年。
満福は、盃の中に、信長がこれから踏み抜くであろう本能寺への亀裂を、静かに思い描いていた。
運命の変事まで、あと一年と数ヶ月。
満福は、さらに深く、毒を研ぎ澄ませていく。
いよいよ最終章です。
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