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戦国昆虫戦記【泥中羽化】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第七章 甲賀羽化編 〜魔王への叛意と運命の変異〜

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第六十三話 泥の羽音と、見殺しの選択

天正八年六月


容赦のない水無月の烈日が甲賀の山々を焦がし、噎せ返るような青葉の匂いとけたたましい蝉時雨が、隠れ里を包み込んでいた。


館の奥間では、満福が額に脂汗を浮かべ、じりじりとしりぞいていた。

「満福様! ほら、熱いうちに召し上がってくださいな。里の者に獲らせた大ぶりのスッポン、三日三晩煮込みましたのよ!」

満面の笑みを浮かべたお照が、ぐつぐつと煮え滾る不気味な土鍋を差し出してくる。


その背後には、京極の叔母上が優雅に扇を使いながら、絶対的な圧力をもって控えていた。

「残さず食しなさい、満福。お主もすでに十六、名実ともに甲賀の主となったのです。浅井の血脈を盤石にするための子作りは、何よりも優先すべき政ですことよ。さあ、遠慮はいりませんわ」


満福の胃が、恐怖と絶望で激しく痙攣した。一万の敵兵を前にした時ですら揺るがなかった彼の心胆を、この二人の純粋な圧意は容易く打ち砕く。


「う……あ、いや、叔母上、お照……。急に、そう、持病の腹痛が……! 軍議の刻限も迫っておるゆえ、わしはこれで!」


「あ、お待ちになって満福様!」

満福は鍋から立ち上る獣の匂いに悲鳴を上げそうになりながら、観念した顔付きで、しかし脱兎のごとく座敷を逃げ出した。


館の裏手、深い森に隠された地下の秘密工房へ転がり込むと、そこには全く別の、そして満福にとってさらに生理的な嫌悪を催す地獄が待っていた。


「満福様! 準備はすっかり整いました!」

土にまみれた六助が、晴れやかな顔で満福を迎えた。


薄暗い工房の床には、両手で抱えるほどの「泥の器」が数百、隙間なく並べられている。気化熱を利用して内部を涼しく保つその器の奥からは、数百万の羽虫が壁にぶつかる「ブブブブ……」という悍ましい振動音が、地鳴りのように響いていた。


(……う、ぐ……六助……器を近づけるな)

満福は全身に強烈な鳥肌を立て、涙目で後退した。


器の中に詰められているのは、時任の知識で選別交配を繰り返し、強制的に長翅型へと純化させたウンカの精鋭たちである。しかもただの虫ではない。稲を枯らすウイルスを宿した「保毒個体」だ。


(……満福、逃げている場合ではない。いよいよ『泥の羽音』を放つ時だ)

脳内で、時任の無機質な声が響いた。

(この旧暦六月の猛暑と湿気こそが、奴らの増殖に最も適した環境だ。標的は、織田の軍事と経済を支える最大の基盤……木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川が潤す『濃尾平野』。尾張の清洲から美濃の岐阜周辺に至るまでの広大な穀倉地帯だ。)


満福は吐き気を堪え、控えていた道実と佐吉、そして佐助に向き直った。

「……作戦の概要はわかってるよな。佐助、手筈は」


「はっ。二百の甲賀忍びが、行商人や虚無僧に姿を変え、これより尾張と美濃の各地へ泥の器を運び込み、潜伏を開始いたします。各々、水路や風上の要所をすでに定めており、機を見て一斉に解き放つ手筈にございます」

佐助の報告に、満福は冷たく頷いた。


(……いいか満福、これが初期昭和で提唱された『総力戦』だ。前線の兵だけでなく、背後の生産力ごと破壊する)

時任が淡々と語り、満福の瞳に冷徹な光が宿る。


その夜、数百の泥の器を背負った忍びたちが、闇に紛れて次々と濃尾平野へと出立していった。

だが、その非情な作戦を見送った直後、満福のもとに一つの急報がもたらされた。


「殿。……伊賀より、密使が参っております」

高虎の声には、微かな緊張が混じっていた。


通された使者は、伊賀の有力地侍の一人であった。彼は満福の前に平伏するなり、血を吐くような声で懇願した。

「満福殿……どうか、我ら伊賀と強固な同盟を! 石山を降し、後顧の憂いを絶った織田の魔王が、いよいよ我ら伊賀を根絶やしにすべく、大軍を動かす兆しがございます! 昨年のように、再び甲賀の御力を……!」

悲痛な叫びが、広間に響き渡る。


家臣たちの間に動揺が走ることはなかった。隣国・伊賀の窮状は理解している。だが、彼らは主君・満福が何を見据えているかをすでに悟っていた。

満福の瞳には、一欠片の同情も宿っていなかった。


「……断る。伊賀への援軍は、一兵たりとも出さぬ」


その静かで氷のような一言に、使者は絶句した。

「な、何故でございますか! 織田を迎え撃つには、伊賀と甲賀が手を取り合うしか……!」


「今、織田の本軍と正面衝突すれば、甲賀もろとも消し飛ぶからだ」

満福は使者を冷たく見下ろした。


濃尾平野に放った「毒」が回り、織田の経済を破壊するまでには、秋までの数ヶ月を要する。その間に甲賀が表舞台に立ち、信長の標的になることだけは絶対に避けねばならなかった。


「……帰れ。甲賀は、伊賀の盾にはならぬ」


それは、隣国を完全に見殺しにするという、冷酷極まりない君主の決断であった。使者は絶望の涙を流し、呪詛の言葉を吐きながら去っていった。

高虎は、沈黙の中で主君の背中を見つめていた。その冷徹なまでの合理性に、己が命を預ける男の恐ろしいほどの器の深さを見ていた。


それから、二ヶ月。


天正八年八月

酷暑が過ぎ、秋の気配が風に混じり始めた頃。尾張・美濃の偵察から戻った佐助が、戦慄を隠しきれない顔で満福の前に平伏した。


「……主。尾張および美濃の穀倉地帯、凄惨たる有様にございます」


佐助の口から語られたのは、地獄の風景であった。

濃尾平野の至る所で、青々と茂るはずの稲が、円状に黄色く立ち枯れていた。坪枯れである。保毒ウンカがもたらしたウイルスは、夏の日差しの中で驚異的な速度で伝播し、織田の富の源泉である広大な田園を、腐った泥の沼へと変えていた。


「秋の収穫は絶望的。領民の間では餓死の恐怖から一揆の気配すら漂い、織田の兵站は完全に麻痺しております。……これにより、本年中の織田本軍による大規模な軍事行動は、事実上不可能となりました」


刃を交えることなく、敵の領民の胃袋を底から破壊し、数万を飢えさせるという業の深き勝利。これにより、当面の織田からの侵攻は食い止められた。


満福は、縁側から甲賀の秋空を見上げた。

「……これで、時は稼いだ」


だが、その代償として、見捨てられた伊賀は孤立無援のまま、やがて訪れるであろう織田の蹂躙に単独で立ち向かう運命を強いられていた。


十六歳の満福は、自らの手がすでに、信長と同じく無数の血と泥に染まりきっている事実を、静かに噛み締めていた。

そして、運命のとき、そう、本能寺の変まで、二年を切っていた。


いよいよ最終章です。

少しでも面白いと思って下さったら、ブクマと画面下の【☆☆☆☆☆】を塗り潰していただければ、これ以上の励みはございません。

どうか宜しくお願いします。

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