第六十二話 甲賀の主と、諦めの三三九度
天正八年一月
満福は、数えで十六となった。父・長政が小谷城で自害してから七年。かつて泥を啜り、暗闇で死を待っていた稚児は、今や一万の軍勢を退けた甲賀の実質的な主人として、その座を固めつつあった。
正月早々の朝、館の奥の間で、二人の男が満福に向かい合って平伏していた。
六角承禎、そしてその嫡男・義治である。名門の誇りを象徴するはずの装束はどこか色褪せ、二人の肩は微かに震えていた。
「……満福殿。我ら親子、今日この時をもって、甲賀の旗頭の座を降りたく存ずる」
承禎の声は枯れ、視線は畳の一点に固定されていた。
満福はその様子を、感情の失せた目で見下ろした。
「……何ゆえです。お二人が六角の正統として座に居てくださらねば、織田への釈明も、伊賀や周囲への面目も立ちませぬ。わしはまだ、お二人の陰に隠れていたいのだが」
満福の言葉は丁寧であったが、その響きには氷のような冷徹さが混じっていた。
六角親子は、もはやこの少年を直視することすらできなかった。一万の軍勢を病魔と毒虫、そして鉄砲で一方的に土に還した男の隣に座らされる恐怖。このまま「旗頭」という看板を掲げ続けていれば、いつか自分たちが満福の毒辣な策の身代わりにされ、織田の怒りを一身に浴びて消される。その本能的な逃避が、彼らの背筋を凍らせていた。
(時任、この親子……逃げ足だけは一流だと思っていたが、ついに責任からも逃げ出した。せっかくの便利な隠れ蓑だったというのに)
脳内で、満福が忌々しげに吐き捨てた。彼らに敬意など微塵もない。ただの使い勝手の良い道具の紛失を惜しむ、打算のみがそこにはあった。
(……隠れ蓑の寿命だよ、満福。お前自身が織田という巨大な日輪と、剥き出しで向き合わねばならん時期が来たということだ)
時任の無機質な声に、満福は小さく息を吐いた。
「……よかろう。そこまで仰るなら、引き止めはせぬ。これまで盾となってくださったこと、形ばかりとはいえ感謝申し上げよう」
満福が短く告げると、親子は目に見えて安堵し、逃げるように下がっていった。
「……これで、名実ともに殿が甲賀の主ですな」
控えていた藤堂高虎が、冷徹な笑みを浮かべて言った。磯野、佐助、喜三郎。家臣たちが一斉に平伏し、沈黙をもって新しい主への忠誠を示した。
甲賀は、異質の独立国としての実力を蓄えつつあった。
「落ちぬ山」の噂を聞きつけた職人や商人が流入し、隠れ里は一つの城下町のような熱気を帯び始めている。
現在の戦力は更に増え、三千の精鋭。彼らは、時任が提言した初期昭和の知見に基づく「栄養管理」を徹底されていた。
(いいか、強い兵を造るには、米の量だけでは足りん。血となり肉となる蛋白源が必要だ。養蚕で出る蚕の蛹を粉末にして兵糧に混ぜろ。他国の兵とは骨格から違う『最強の兵』を叩き直すぞ)
時任の解説に従い、満福は吐き気を堪えながらこの処方を軍へ導入した。当初は嫌悪感を示していた兵たちも、それを摂取し始めてから、真冬の行軍でも息切れせず、傷の治りも異常に早い己の肉体に驚愕していた。
軍略の基盤となる火薬も、もはや商人に頼る必要はなかった。里の北端、窪地に設けた硝石丘からは、時任の温度管理と満福の執念によって生成された硝石が安定して抽出され、火薬の完全自立を達成している。
また、兵糧を支える田地では、「畔草を刈りすぎるな」という満福の厳命が守られていた。畔に草を残すことでクモやカエルを定着させる。時任がかつて授けた、虫を以て虫を制する防波堤は、害虫の発生を抑え、甲賀の地に豊かな収穫をもたらしていた。
「兵糧、火薬、そして兵。すべてが揃ったな」
満福は、雪解けの野で訓練に励む兵たちを見つめ、静かに呟いた。
だが、領国経営が順調に進む一方で、満福は別の「圧力」に晒されていた。
京極の叔母上である。彼女が数年来、執拗に迫り続けてきた次女・お照との縁談は、満福が十六となった今、ついに断り切れぬ限界に達していた。
「満福、いい加減になさい。お主の身勝手で、お照をいつまで待たせるつもりですか。浅井の血を絶やすなど、このわたくしが、これで先祖代々が許しませんことよ。分かっていますね?」
有無を言わせぬ叔母上の重圧。京極家との繋がりは今後の甲賀にとって貴重な外交ルートであり、満福はついに観念した。
(……時任、どう思う。わしは、家族ごっこなどしている暇はないのだ。策は無いか)
(あれだけ考えたのだ。これ以上、お照から嫌われる策なんて浮かばんだろう。丸刈りにしても、お前なら似合うだろうしな。そうだ、いっそのこと、お静も嫁に貰えばどうだ? あの陽と陰の性格だ。中和させれて、良い関係が築けるかもしれんぞ)
(……ふざけるな。他人事と思いやがって。もうよいわ!)
一月末。雪が舞う甲賀の館で、ついに満福とお照の婚儀が執り行われた。
白無垢に身を包んだお照は、満面の笑みを浮かべ、この世の春を謳歌するように輝いていた。対する満福は、完全に魂の抜けたような、すべてを悟りきって観念した顔付きで隣に座っている。
「満福様、見てください。この打掛、叔母様が選んでくださったのですよ。お揃いの色が、とっても素敵ではありませんか?」
無邪気に、そして圧倒的な「陽」の気質で迫るお照に対し、満福は小さく頷くのが精一杯であった。
その様子を、上座に座る京極の叔母上は、この上なく満足げな表情で眺めている。思い通りに事を進めた女王の貫禄が、その微笑みには宿っていた。
「殿、おめでとうございます! 浅井の血脈、これにて安泰ですな!」
喜三郎が滝のような涙を流して叫び、磯野員昌も深く頷き、館内は祝福の熱気に包まれている。
だが、三三九度の盃を交わす最中、満福の頭を占めていたのは、家系図の継続といった情緒的な喜びでは微塵もなかった。
(……どうすれば、この館の離れに叔母上の部屋を作らずに済むか。お照をどう説得すれば、わしの政務の部屋から十歩以上離れさせられるか……。この二人と四六時中顔を合わせるなど、戦場よりも過酷な監獄ではないか!)
満福の思考は、いかにしてお照と叔母上の二人から、物理的・精神的な距離を置くかという「防衛線」の構築だけで一杯になっていた。
それから、三ヶ月。
天正八年四月
天下の情勢が大きく動いた。
十年にわたって織田信長を苦しめ続けた、石山本願寺の退去である。顕如が大坂を去り、難攻不落を誇った石山の城砦が織田の手に渡ったという報せは、瞬く間に全国へ広がった。
(……これで、信長の背後を脅かす巨大な牙が一つ消えたな。織田の全戦力が、いよいよ四方の敵へと向けられるぞ)
時任の声が、一段と低く響いた。
(ああ。……摂津、播磨、そして近江。包囲網が完全に崩れ去った。もはや、織田に正面から抗える勢力はどこにもおらぬ。今年、織田からの侵攻を受けるのはまずい。泥の羽音作戦やるしか無いな)
満福の目が、冷徹な将のそれへと変わった。
「六助、これより『泥の羽音』の準備に入れ。道実、佐吉、至急資材の調達を命じる。抜かりなく進めよ」
祝言の余韻など一瞬で吹き飛んでいた。信長の軍勢がこの甲賀の山々を覆い尽くす前に、目に見えぬ「兵」を放たねばならない。
十六歳の春、満福は己の首に繋がれた叔母上とお照という二重の鎖を意識しながら、魔王の喉元に「毒」を突き立てるための、静かなる開戦を宣言した。
いよいよ最終章です。
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