第六十一話 水源の死神と、虫と鉛の弾丸
天正七年九月
北畠信雄は焦燥の渦中にいた。
兄・信忠が織田家の後継者として着実に軍功を重ねる一方で、伊勢を任された己への父・信長の評価は芳しくない。前年の丸山城築城の失敗が、その焦りに拍車をかけていた。
「伊賀や甲賀の小癪な連中を平らげれば、父上も儂を認めざるを得まい」
信雄は父の許しを得ぬまま、伊勢の兵一万を動員し、独断で伊賀へと踏み込んだ。旧暦九月の山中は、夜ともなれば肌を刺すような冷気が立ち込め、街道の草木には白く露が降りる。だが、一万の兵が上げる土塵と傲慢な行軍が、山の静寂を無惨に踏みにじっていった。
だが、その十日後。伊賀から伊勢へと逃げ延びる山道には、腐臭を漂わせる敗残兵が延々と連なっていた。
一万を数えた軍勢は、見る影もなく崩れ去っている。そこにあるのは、腐臭を漂わせる敗残兵が延々と連なる、醜悪な葬列であった。
街道の脇には、血の混じった嘔吐物や粘液状の下痢便がぶち撒けられ、それを数えきれぬほどの蠅が、黒い絨毯のように覆い尽くしている。
水源を汚され、病原菌を媒介する蠅に兵糧を汚された兵たちは、重い脱水症状と発熱に震え、歩くことすらままならない。自らの排泄物にまみれたまま、冷え切った泥の中に沈み、物言わぬ肉塊へと変わっていく者が後を絶たなかった。
(……見ろ、満福。これが『軍隊』という巨大な生命体が瓦解する様だ。一万もの人間が密集し、不衛生な水を飲み、夜の寒気に晒されれば、内臓から腐っていくのは当然のこと。生物学の知見をもってすれば、刃を振るわずとも、これほど効率的に野戦衛生を破壊できる)
脳内で、時任が無機質な声で告げた。その口調には、戦場への憐憫も興奮もなく、ただ必然の結果を淡々と見届けようとする、氷のような静謐さがあった。
(時任、あまり語るな。……匂うのだ、ここまで。鉄の匂いと、泥の匂いと、そして、死の匂いが。……う、ぐ……)
満福は断崖の上から、眼下を行く敵軍の残党を冷めた目で見下ろしていたが、こみ上げる吐気と鼻を突く死臭に顔を歪めた。吹き付ける風は冬の気配を孕んで冷たく、谷底に淀む死の毒気を満福の元へと容赦なく運び上げてくる。
瓦解した北畠軍に、さらなる絶望が降り注ぐ。
道実と佐吉が山中から集めたオオスズメバチの狂い汁を仕込んだ器が、退路の要所に投げ込まれた。冬越しを前に殺気立っていた蜂の群れが、黄金色の弾丸となって兵たちの頭上に降り注ぐ。
空からは毒針、足元からは病。兵たちは武器を捨て、泣き叫びながら逃げ惑った。
「……仕上げだ。冴衣、やれ」
満福が絞り出した下知に、傍らに控えていた冴衣が短く応じた。
「……腕が鳴るよ。北畠の傲慢、その眉間にぶち抜いてやるか」
冴衣が率いる鉄砲隊が一斉に火蓋を切った。乾いた銃声が連なり、山間に木霊する。逃げ惑う将校が一人、崩れるように落馬した。冴衣の指揮による正確な一斉射撃が、戦意を喪失した北畠軍の「出口」を無慈悲に刈り取っていく。
磯野、高虎、喜三郎らは、鉄砲隊の射線を守るように周囲を固め、漏れ出した敵を確実に仕留めていった。
一万の軍勢に対し、甲賀の兵は二千足らず。だが、そこには合戦と呼べるほどの抵抗はなく、一方的な処理の光景だけが広がっていた。
信雄が命からがら伊勢の田丸城へ逃げ帰り、敗戦の恐怖も癒えぬ十日後。安土の父・信長から届けられたのは、激烈な叱責を記した一通の書状であった。
そこには、「今度、左様の儀これあるにおいては、親類に非ず」という、親子の縁を切ることを辞さない厳しい言葉が並んでいた。
信雄は、書状を握りしめたまま、広間で青ざめて震えることしかできない。
安土の信長は、欄干から眼下に広がる琵琶湖を見下ろし、蜂を使い、水を腐らせ、病を撒くという「甲賀の毒辣な仕掛け」に思いを馳せていた。その目は、無能な息子への失望を通り越し、得体の知れぬ勢力への、深い興味と警戒に燃えていた。
一方、甲賀の館では、灰庵が月を眺めながら酒を煽っていた。
「カカカ! 坊主よ、北畠の小倅は今頃、伊勢で震え上がっておろう。万の軍を正面から刃を交えることなく、病魔と虫、さらに鉄砲で一方的に土に還すとは。これぞ、真に美しい地獄よな」
灰庵の笑い声に、満福は答えなかった。ただ、自らの手のひらを見つめる。
合戦の体すらなさぬまま、敵を腐らせ、一方的に刈り取って勝った。それが今の自分が生き残るための唯一の道である。
その冷徹な結末を見届けた満福の胸中には、充足感など微塵もなかった。
いよいよ最終章です。
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