第六十話 第一次天正伊賀の乱
天正七年八月十五日
中秋の名月が甲賀の山々を白々と照らし、秋の虫たちが騒がしく鳴き競う夜であった。
だが、甲賀の油日にある館の広間には、月見の風情など微塵もなかった。上座に座る満福の傍らには、数珠を弄びながら不敵な笑みを浮かべる灰庵が、当然のように居座っている。その向かいでは、三雲佐助が地図を広げ、最新の情勢を淡々と報告していた。
「……伊勢にて北畠信雄が軍勢を集結させております。その数、一万。九月中には国境を越え、この甲賀・伊賀へ雪崩れ込んでくるのは確実かと。狙いは、丸山城襲撃の際得た土地、我らが不当に占拠していると北畠が主張する領地の『奪還』にございます」
佐助の言葉に、場が騒めく。摂津からの流民を吸収し、甲賀の兵数は膨らんだとはいえ、まともに戦えるのは一千から二千。一万の北畠軍は、あまりに巨大な鉄の塊であった。
「……殿。まともにぶつかれば、半日で我らは蹂躙されましょう」
高虎が、感情を排した声で告げる。
「伊賀の地侍を盾にしつつ、我らは早急に退路を確保すべきです。京極のお方様とお照様、ならびに旗頭である六角の御屋形様方の身柄の移送手配は、お任せ下さい」
「逃げるなど、武士の末代までの恥辱! 京極のお方様とお美しいお照様をお守りするためなら、この喜三郎、命など惜しくはありませんッ!」
喜三郎が激昂するが、高虎は一瞥もくれない。
「案ずるな。逃げる必要はない。一ヶ月あれば策を講じることができる」
満福が静かに制すると、灰庵が喉の奥で低く笑った。
「クク……坊主、一万の首を、その『知恵』だけでへし折るつもりか。これぞ至高の茶番よな。ワシも末席で拝見させてもらうぞ」
満福の脳内で、時任が冷徹に計算を弾く。
(いいか満福。九月の山中は、夜は氷点下近くまで冷え込むが、日中は日差しが残る。この急激な寒暖差は、行軍で疲弊した兵の体力を著しく奪い、免疫を破壊する。さらに、一万もの大軍が移動すれば、飲む水の確保は死活問題だ)
(……水源の罠か。この寒さで効果があるのか?)
(ああ。むしろ水源が限られる時期こそ、狙いは絞りやすい。特定の井戸や川の上流に、あえて汚物や獣の死骸を仕込み、水を腐らせる。それを飲んだ兵が発熱や下痢、嘔吐に苦しめば、夜の冷え込みが追い打ちをかける。脱水症状と低体温で、戦う前に軍は瓦解するぞ)
満福は時任の作戦を己の策として配下たちへ下した。
「佐助。灰庵と連携し、敵の進軍路にある水源すべてに、獣の死骸を沈めよ。さらに汚物の処理場を意図的に敵の風上に配置し、発生した蠅を敵陣へ送り込むのだ。病魔を兵として使え」
「……承知。すぐに場所の選定を行います」
佐助が影のように頷く。
(さらに畳み掛けるぞ、満福。初陣や佐久間戦で使った『オオスズメバチ』と『狂い汁』の出番だ。秋は奴らが冬越しを前に最も攻撃的になる時期。巣の警戒範囲も広がり、わずかな刺激で集団襲撃を仕掛けてくる)
「佐助、以前用いた蜂の『狂い汁』を量産せよ。陶器の焙烙に詰め、大量の狂い汁の器を造るのだ。一万の軍勢、その足元から内臓、そして頭上まで、森のすべてで喰らい尽くす。歩けば罠にかかり、食べれば病になり、空を見上げれば毒虫に刺されるのだ。
……道実、佐吉。お主ら二人は蜂の巣の確保と抽出の材料調達を急げ。一ヶ月で山中の毒を集めるのだ。不備は許さんぞ」
命じられた二人が、緊張の面持ちで深く平伏した。
広間を支配したのは、もはや軍議の熱気ではなく、理知的で無慈悲な「絶滅」の予感であった。だが、満福の策はそれだけでは終わらない。
「そして、仕上げだ。磯野、高虎、喜三郎。お主らは冴衣が率いる鉄砲部隊を援護せよ。蜂と病で瓦解した北畠軍の『出口』に布陣し、逃げ惑う信雄の部隊を確実に仕留めるのだ」
「待っておりました! この喜三郎、父譲りの槍で敵を粉砕してみせましょう!」
「楽しみですな」高虎が不敵に笑う。「動けぬ敵を撃つ。これ以上の勝機はありません」
「……腕が鳴るよ。北畠の傲慢、その眉間にぶち抜いてやるか」
冴衣が冷たく微笑み、老将・磯野も重々しく頷いた。
「……見事な地獄絵図にございます」
高虎が感嘆の溜息を漏らす。
「自軍を損なわず、敵を内部から腐らせ、自然の猛威で自壊させた後、動けぬ敵を鉄砲で刈り取る。一切の無駄を排した盤面……。殿、心より感服いたしました」
「……急ぎ手配せよ。九月の終わり、信雄の首をこの森に沈めてやる」
満福の静かな声が、秋の冷気を帯び始めた風に乗って、広間に響き渡った。
この物語も一歩ずつ高みへ登っております。
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