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戦国昆虫戦記【泥中羽化】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第六章 甲賀胎動編 〜集う異能と包囲の網〜

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第五十九話 黒曜の防人(さきもり)

天正七年六月


安土城の天主が完成し、織田信長が名実ともに天下の主として君臨し始めたことで、周辺諸国への圧力は一気に加速していた。

安土から見て南方に位置する甲賀の里も、その執拗な探査の射程から逃れることはできない。


「……また一人、仕留めました。今月に入って五人目。いずれも安土からの間者です」

三雲佐助が、感情の消えた声で報告する。その手には、捕らえた忍びから奪った暗器が握られていた。


「ふん、信長め。安土を据えたことで、この近江一国すべてを己の庭と勘違いしているようだな。間者の腕も、以前よりはマシになったようだが」

満福は、山積みの報告書を前に不敵な笑みを浮かべた。間者の質が上がった程度で、彼の覇気が揺らぐことはない。


(おい満福、腕が上がったなんて悠長に感心している場合じゃないぞ。忍びの腕比べに付き合うのは非効率だ。もっと俺のいた大学の生物学  昆虫額教室が積み上げた知識を使い、里の境界を組織化しろ)


(……虫の話か、時任。わしが不快に思うのを分かっていて提案するとは、相変わらず性格が悪いな。だが、聞こう。この境界を『自動で守る』仕掛けがあるというのだな?)


(ああ。里の境界線に『ムネアカオオアリ』の巨大な巣を戦略的に配置するんだ。奴らは驚くほど強い縄張り意識を持つ。これを体系的な罠にするんだ)


時任が、昆虫の生理学的な習性とフェロモンの連鎖について、専門的な講釈を始めた。

目に見えぬ物質が蟻を狂わせ、特定の敵を襲わせるという精緻な生物学的因果。その膨大な情報を一気に処理した瞬間、満福の脳が激しく食べ物を要求した。


凄まじい飢餓感が、満福の全身を襲った。

「ぐっ……!! 喜三郎、握り飯だ! 腹が……腹が減って動けぬ! ありったけ、今すぐここに持てッ!!」


満福が脂汗を流しながら絶叫すると、廊下で控えていた遠藤喜三郎が、雷に打たれたような速さで厨房へ飛んでいった。

「殿の『天啓』が下ったぞ!! 全員、道を開けろ! 殿の御命を繋ぐ白米を運ぶのだ!!」


凄まじい勢いで握り飯を平らげ、腹を満たした満福は、部屋の隅に控えていた六助と、実務担当の道実を呼び寄せた。

「……道実。至急、蟻の死骸と特定の草木を煮詰め、薬を作れ。六助、お主は里の境界から気性の荒い大蟻の巣を掘り起こし、この図面の地点へ完璧に移築せよ。門番に、新顔を加える」


「はい! 蟻の門番ですね、任せてください! おいら、一番強そうな大将のアリを捕まえてきます!」


目を輝かせる六助に対し、実務を押し付けられた道実は、顔を青ざめさせて胃の辺りを押さえる。

「……白蟻の次は、黒蟻ですか。……ううっ、殿。私は最近、食事のたびに胃の奥が疼くのでございます……。仰せのままに、材料を揃えましょう」


数日後。主要な尾根道に、時任直伝の「蟻の地雷」が組織化された。

門の柱や踏み石には、人間には無臭だが、蟻にとっては「侵略者の合図」となる特殊なフェロモン薬が薄く塗布されている。


「……来たな」

木の上で気配を消していた佐助が、監視の筒を覗きながら呟く。


安土の精鋭隠密が、音もなく境界を越えようとした。だが、彼がフェロモンを塗られた石を踏んだ瞬間、周囲の地面が黒い波となって襲いかかった。


(よし、狂乱フェロモンを浴びたムネアカオオアリが、男の脚を『巨大な侵略者』と認識した。蟻の死骸が散らばるのを見れば、誰がどのルートを通ったかも一目瞭然だ。まさに生体的な検知網だな)


男の袴に侵入した数千匹の蟻が、容赦なく牙を立てる。熟練の隠密ですら、目に見えぬ無数の軍勢による「内側からの攻撃」には、わずかに呼吸を乱さざるを得なかった。


その刹那、佐助の投擲が正確に急所を貫いた。


「……仕留めた。殿、蟻による検知と足止め、合理的です。これならば我らが動かずとも、里そのものが敵を拒みます」

淡々と報告する佐助に対し、満福は満足げに頷いた。


そして、さらに蟻を増やそうと鼻息を荒くする六助に向け、冷徹な制止をかける。

「……よくやった、六助。だが、その壺は二度とわしに見せるな。それと、わしの寝所に一匹でも蟻を連れてきたら、お主を里から叩き出すからな。よいな、これは厳命だぞ」


「はい! でも満福様、蟻たちはあんなにしっかり門を守って、敵を噛み殺しているんですよ?」


「ああ、そうだな。だが、絶対に、絶対にわしの視界には入れるなよ」

満福は不敵に笑いながらも、虫への生理的な寒気を押し隠し、視線を安土の方角へと戻した。


安土城という黄金の頂に君臨する信長。

それに対し、十五歳の満福が築いたのは、足元の土に潜む「黒曜の軍勢」による、目に見えぬ冷酷な防衛網であった。


この物語も一歩ずつ高みへ登っております。

少しでも面白いと思って下さったら、ブクマと画面下の【☆☆☆☆☆】を塗り潰していただければ、これ以上の励みはございません。

どうか宜しくお願いします。


【時任昆虫教室:其の二十六 ― 無慈悲なる大顎・ムネアカオオアリ ―】


万福丸、お前の寝所に一匹でも近づけたら里から叩き出すだと? 相変わらず器の小さい男だな。だが安心しろ。この「黒き守護者」たちは、お前の軟弱な肌よりも、侵入者の硬い革靴や野卑な肉体を噛みちぎることにしか興味がない。


* **剛力の理(切断の顎):** 日本最大級の蟻であるムネアカオオアリを侮るな。特に大型の兵アリが持つ大顎の閉鎖力は、獲物の皮膚を容易に貫通し、一度食らいつけば自らの首がもげようとも決して離さない。この「生物学的な執念」こそが、恐怖による抑止力を生む。

* **連鎖の理(生体検知網):** 奴らは高度な社会性昆虫だ。一匹が敵を「巨大な侵略者」と認識し、警報フェロモンを放散すれば、周囲の数千匹が瞬時に狂乱状態の戦闘モードへと切り替わる。男の脚が蟻の死骸で汚れれば、それがそのまま侵入ルートの刻印となる。お前が毛嫌いしているその「蠢き」は、里を全方位から監視する、血も涙もない自動迎撃システムなのだ。

信長の忍びどもが、見えざる大群に足を削られ、声も出せずに悶絶する様を想像してみろ。お前が守るべきは己の潔癖さではなく、この無慈悲な防衛網の維持だ。よいか、耳を澄ませ。境界の落ち葉の下で、無数の顎が「カチリ」と鳴る、死の音をな。


(昭和初期の昆虫研究家・時任)


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