第五十八話 安土天主と、崩壊の楔
天正七年五月
甲賀の奥座敷。十五歳の初夏を迎えた満福は、床に広げられた巨大な図面を冷ややかに見下ろしていた。
「ほら満福、あんたが欲しがってた安土の図面だよ。大工の元締めに酒を飲ませて写し取ってきたのよ」
鵜飼冴衣が不敵に微笑む。彼女は実際に安土の地を踏み、その目で「怪物」を見てきたばかりだった。
「直に拝んできたけど、琵琶湖のほとりに、とんでもない化け物が建っていたよ。外壁には金箔が貼られ、青い瓦が陽の光を反射してギラギラ光っている。下から見上げると首が痛くなるくらいの高さだ。信長はもう岐阜から移り住んでいてね、天主の周りは運び込まれる物資や、出入りする商人と人足でひどくごった返していたよ」
冴衣の報告と図面から浮かび上がる異形の姿に、満福は僅かに目を細めた。あれは織田信長という男の権力と、神をも恐れぬ傲慢さを体現する象徴であった。
(おい満福、これが安土城か! 史実の記録通りだぞ。天守閣じゃない、信長自身が神として君臨するための『天主』だ! ああ、クソッ、完成したばかりの安土城。俺に実体があれば、歴史に名を残すあの傑作を、この目で拝んでやるのに!)
(……黙れ。城の講釈など聞きたくもないわ、この歴史狂いが)
脳内で騒ぎ立てる時任に対し、満福は虚空を睨んで小声で毒づいた。
「殿。丸山城の時のように、導火線を引いて一気に火薬で吹き飛ばしますか?」
藤堂高虎が静かに問う。満福は一同へ向き直り、首を横に振った。
「無理だ。天主の建造が終わったとはいえ、周囲の石垣や堀の普請は続いており、厳重な警備が敷かれている。それに、あのような巨城を外から壊しても、信長は意地でまた同じものを建て直すだろう。……内側から、気づかれずに崩す手立てが必要だ」
(時任、あの巨大な木造の塔を、跡形もなく崩落させる方法はあるか?)
満福の冷徹な問いに、時任は極めて理知的なトーンに切り替わった。
(……ある。どんなに豪華に金箔を貼ろうと、木造建築である以上、絶対的な天敵が存在する。イエシロアリだ。奴らは湿った木材を好み、数百万匹規模の巨大なコロニーを作る。太い柱の中身をスッカスカの虚状に食い荒らし、外側からは一切気づかせないまま、ある日突然、建物を自重で崩壊させる『静かなる破壊者』だ)
(どうやってその虫を、あの巨城の急所に集める?)
(シロアリの働きアリを大量にすり潰した体液と、奴らが好む木材腐朽菌を煮詰めて『道しるべフェロモン』の代用にする。さらに、シダ類などの特定の植物から抽出した『擬脱皮ホルモン物質』を混ぜ込むんだ。この成分を摂取した集団は、階級の調和が狂い、異常な生存本能から狂ったように食害を加速させる)
その高度な生体化学の過程を脳内で処理した瞬間、満福の胃袋が限界を超えて痙攣し、強烈な飢餓感が全身を襲った。
「ぐっ……! き、喜三郎!! 飯だ! 握り飯をありったけ、今すぐここに持てッ!!」
満福が腹を抱えて悶えながら絶叫すると、控えていた遠藤喜三郎が身を乗り出した。
「おお……! 殿はまた己の命を削り、我らを導くための知恵を降ろされたのだな……! その御覚悟、この喜三郎、しかと目に焼き付けましたぞ!」
喜三郎は感涙しながら、転がるように厨房へ走った。
脂汗を拭いながら、満福は部屋の隅に控えていた少年と、実務担当の男を呼んだ。
「……六助。道実。至急、特製の泥を作る。白蟻の死骸と、腐った木の汁と、シダ植物を集めよ。それを限界まで煮詰め、生きた白蟻の群れと共に壺に封じろ。それを使い、安土城を崩壊に導く」
「ひっ……!? そ、そのような気味の悪いものを煮詰めるのですか?」
松永久通改め道実が、顔を青ざめさせて胃の辺りを押さえる。だが、横にいた六助は目を輝かせて平伏した。
「満福様がそこまでおっしゃるなら、きっと凄い秘策なんですね! おいら、丸々太った白蟻をいっぱい集めて、極上の泥を作ります!」
「ああ、抜かりなくやれ。だが、絶対に、絶対にわしの視界には入れるなよ」
満福は虫の話題に寒気を覚え、顔を背けた。
そのやり取りを見ていた灰庵が、愉快そうに口角を歪める。
「カカカ! 坊主、またえげつない策を思いついたものよ。織田の巨城を、小さな虫けらに食い破らせるとはな。実に、実に美しい悪辣さよ!」
(おい満福、このジジイをこれほど喜ばせるとは、お前も相当なワルだな。だが図面を見る限り、この策は絶対に効く。シロアリに大黒柱を食わせ、信長の権威を内側から空洞にしてやれ)
「そうだろ、灰庵。お主の長年の築城術の知識、今回の『仕込み場所』の選定に余さず使わせてもらうぞ。図面から見て、最も湿気が溜まる急所を洗い出せ」
満福が不敵に笑うと、久秀が、静かに頷いた。
「あえて直接手を下さず、数年後に崩壊という地獄への道筋を整えるとはな。風向、湿度、現地の土壌。すべて計算済みだ。」
「……では、俺たちが最も効果的な急所に、特殊工作を仕掛ける」
三雲佐助もまた、感情を排した声で告げるのだった。
(本来なら安土城は、本能寺の変のどさくさで消失する運命にある。だが、この世界で何が起こるかは分からんからな。念のための保険だ。信長が生き延びようが、誰が城を奪おうが、柱がスカスカならいつかは自壊する)
数日後。六助と道実の奔走により、強烈な異臭を放つ茶色い泥状の壺が完成した。
「……あぁ、また胃が……。殿、申し訳ございません。材料の手配から安土への運搬経路まで、すべて私が整えましたが……二度とこのような毒は……」
道実がふらふらと崩れ落ちる横で、安土へ潜入する手はずを整えた冴衣が、呆れたように壺を見下ろしていた。
「やれやれ。で、この臭い泥を、あたしと佐助で安土の土台に塗りたくってくればいいんだろ」
「そうだ。天主が完成したとはいえ、日々の生活物資の搬入で人の出入りは激しい。下働きや商人に紛れ込み、最も深く、湿気の多い大黒柱の根元に塗り込め。一度白蟻の群れが定着すれば、あとは何もしなくていい。奴らが勝手に信長の誇りを内側から喰い尽くす」
天正七年五月下旬
琵琶湖の畔にそびえる安土城は、昼夜を問わず喧騒に包まれていた。新たな権力の中心地には、絶え間なく荷車が行き交っている。
その物資搬入のどさくさに紛れ、人足に扮した冴衣と佐助は、天主の直下、石垣の内部にすっぽりと収まる地下一階の暗がりへと潜り込んでいた。陽の光が届かず、ひんやりとした湿気が立ち込める空間である。
「さてと、道実のおっさんが胃を痛めながら手配し、六助が丹念に育てた城喰い泥だ。一番じめじめした旨そうな柱に塗ってやるよ」
冴衣が不敵な笑みを浮かべ、強烈な異臭を放つ泥を、天主の全重量を支える最も太い土台の柱にべっとりと塗り込んでいく。
「……塗布完了。湿気も温度も申し分ない。これで数年後には、この巨城の骨組みはすべて空洞となる」
佐助が淡々と確認し、二人は闇の中へと溶けるように消えていった。
織田信長は、最上階の黄金の部屋で自らの権力の結晶を見下ろし、満足げに頷いているだろう。誰もがその不滅の象徴にひれ伏し、畏怖の念を抱いていた。
だが、誰も知らない。その華麗なる巨城の地下深く、冷たく湿った基礎の柱には、甲賀の忍びによって「静かなる崩壊の楔」が打ち込まれたことを。無数の白蟻たちが、フェロモンに導かれ、狂気のような飢えとともに大黒柱の奥深くまで侵食を始めていることを。
「せいぜい高見で見下ろしているがいい、信長。貴様の誇りは、数年後にはただの腐った木屑だ」
遥か遠く安土の方角を睨みつけ、満福は握り飯を頬張りながら不敵に笑った。
強大な魔王に対し、十五歳の若き主君が仕掛けたのは、見えざる大群による、長期的で致命的な罠であった。
この物語も一歩ずつ高みへ登っております。
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【時任昆虫教室:其の二十五 ― 静かなる暗殺者・イエシロアリ ―】
万福丸、金箔に彩られたその「天主」とやらが、永遠不変の城だと信じているなら、お前の頭はあの信長と同じくおめでたい。どんなに強固な石垣を積み、巨木を組もうとも、内側からすべてを空洞に変える「静かなる暗殺者」の前では、ただの巨大な薪に過ぎないのだ。
* **侵食の理(不可視の崩壊):** イエシロアリは、光を嫌い、木材の内部だけを執拗に食い進む。外側の一枚皮を残して中身をスッカスカのスポンジ状に食い荒らすため、異変に気づいた時には、すでに建物の自重を支える強度は失われている。豪華な装飾という「虚飾」の裏で、実体である「構造」を消し去る……これこそが、正面突破を排した最も効率的な破壊工作だ。
* **攪乱の理(狂乱の食害):** 奴らはフェロモンという化学の糸で繋がった運命共同体だ。特定の成分で階級のバランスを狂わせれば、群れは異常な飢餓状態に陥り、通常の数倍の速度で柱を食い尽くす。敵が天下を語るその足元で、無数の顎がその権威を削り取っている様は、滑稽ですらある。
魔王が己の神性を誇示するために築いた巨塔が、小さな虫けらによって木屑へと成り下がる……。その「静かなる崩落」のカウントダウンを、特等席で楽しもうじゃないか。お前が真に警戒すべきは、敵の鉄砲の音ではなく、床下で蠢く無数の「食害」の音だ。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)




