第五十四話 元服、万福丸から満福へ
天正六年六月
甲賀の森を吹き抜ける風には、夏の盛りの熱気が混じっていた。
この日、浅井家の隠れ里である甲賀の奥座敷にて、密やかに、しかし厳格な儀式が執り行われた。浅井長政の嫡男、万福丸の元服である。
「……浅井万福丸。これより、名を『満福』と改められよ。福に満ち、浅井の再興を成し遂げるに相応しき名である」
烏帽子親を務めた京極高吉が、震える手で万福丸の頭に烏帽子を載せた。
最初に高吉から聞いた時、万福丸は内心で喜んだ。
(福が満ちる、か。……時任、良い名だと思わんか?)
(これ、音読みしてみろ。『まんぷく』だぞ。絶対、後ろにいる叔母上が決めたんじゃないか?)
(…………やられたーーッ!! これでは、元服しても今まで通り『まんぷく』と呼ばれるではないか! わしを一人前の武将として扱う気など毛頭なく、これからも、手元の可愛いおもちゃとして呼び慣れた名で支配し続けるつもりなのだ! 叔母上め、我が人生の晴れ舞台にまで、かくも巧妙で悪辣な罠を仕掛けてくるとは……!)
万福丸が内心で絶望に打ちひしがれる中、高吉は背後に控える妻・叔母上の機嫌を損ねぬよう、終始冷や汗を拭いながらの加冠となった。
当の叔母上は、完璧な淑女の微笑みを浮かべながらも、その奥にある「獲物を逃がさない」という絶対的支配欲を隠そうともしていなかった。ただ単に、呼び慣れた名で今後も呼び続け、この面白くて可愛い甥を永遠に自分のおもちゃにしたいという我欲があるのみだ。
「…………ありがたき幸せ、叔父上。この浅井満福、今日より一軍の将として、不屈の心を持って道を切り拓く所存」
満福が静かに、かつ毅然とした声で応じる。
油もつけず、月代も剃らぬ「自然な美髪」の上に、ただ無造作に烏帽子が被せられている。武家の作法から外れた飾らぬ姿であったが、それがかえって母譲りの美しさを引き立て、戦場を生き抜いてきた者特有の鋭利な覇気を際立たせていた。
儀式を見守っていた家臣団が一斉に平伏する。
「……おお、若様。いや、満福様! いや……殿ッ!!」
遠藤喜三郎が、床に額を擦り付けて号泣した。
「殿……! ついに、ついにこの日が参りましたか! この喜三郎、死ぬまで殿の馬前にて、忠義の槍を振るって参りますぞ!」
「……御意。我ら家臣一同、これよりは殿の往く修羅道にて喜んで泥をすすり、天下に浅井の意地を知らしめん」
藤堂高虎が、冷徹ながらも瞳に熱い野心を宿して首を垂れる。
「某も、この老いぼれの命、殿の覇道のために使い切る覚悟にございます」
降将としての泥をすすり、新たな主君を見出した磯野員昌が低く唸る。
「……俺の命など、殿の計算を現実にするための単なる刃だ」と三雲佐助が感情の無い声で静かに呟き、その横で鵜飼冴衣が「ま、あたしら裏の人間も、せいぜい上手く使いこなしなよ、お殿さん」と小悪魔的に微笑む。
そして、松永久秀改め「灰庵」は満足げに頷き、久通改め「道実」が、「微力ながら裏の兵站はお任せ下さい」と深く頭を下げた。
(やれやれ、名前と体裁だけは一丁前になったな。だが油断するなよ。叔母上は今はお前を「都合のいい身内」としか見ていないが、史実通り洗礼でも受ければ「一夫一妻制」なんて窮屈な教義を持ち出し始める。先に出した禁教令、死ぬ気で守り抜くんだな)
(……わかっている。それがわしの戦いだ。お照と一生二人なんてのは、勘弁だからな)
儀式が終わり、叔母上たちが引き揚げた夜。
甲賀の奥座敷――地図と火薬の匂いが充満する広間に、一人の老人がふらりと現れた。灰庵こと松永久秀である。その手には、西国から届いたばかりの書状が握られていた。
「……坊主、西から不吉な報せだ」
灰庵が、その書状を無造作に放り投げた。
「播磨の上月城が落ちた。尼子再興に執念を燃やした山中鹿之介が……毛利の手によって処刑された。天正六年七月十七日、その生涯を終えたとのことよ」
座に重い沈黙が流れた。喜三郎が拳を震わせ、磯野が痛ましそうに目を伏せる。
「……尼子の義将、鹿之介殿が……。あの『願わくば、我に七難八苦を与えたまえ』と三日月に誓った御方が、ついに力尽きられたか」
磯野の声は、かつての自分と鹿之介を重ね合わせるような深い悲哀に満ちていた。
(……時任。聞こえるか)
(ああ。山中鹿之介……。日本史における「忠義」の権化だ。だがな、満福。彼の戦い方は、苦しみを自ら求めたことが、結果として破滅へ追い詰めた。……お前なら、どう思う?)
満福は、囲炉裏の火を見つめながら静かに口を開いた。
「……鹿之介殿の忠義は、美しい。武士としての鑑であろう。だが、わしはあの方のようにはならぬ」
満福は顔を上げ、並み居る家臣たちを真っ直ぐに見据えた。
「わしが三日月に願うのは、七難八苦ではない。七福八存だ。泥水をすすり、誇りを捨て、卑怯者と罵られようとも……最後に必ず笑って生き残る。それが、わしに命を預けたお前たちへの、唯一の責任だ」
その言葉に、高虎がわずかに目を見開き、喜三郎が大粒の涙をポロポロとこぼした。道実は「なんという現実主義……」と息を呑み、佐助は「極めて合理的だ」と頷いた。自己犠牲的な死ではなく、狡猾にでも「生き抜く」ことを宣言する主君。その泥臭い現実主義こそが、絶望に満ちた彼らを束ねる真の光であった。
「……ククク。良い答えだ、坊主。流石は儂が見込んだ怪物よ」
灰庵が愉快そうに口角を歪め、本題を切り出す。
「ならば、その『七福八存』の実践といこうか。信長が今、最も恐れているのは毛利でも尼子でもない。己の足元……摂津の荒木村重よ」
「……荒木村重殿? 織田軍の重鎮ではないか」
高虎が怪訝な顔をする。
「左様。だが、あやつは疑心暗鬼の塊よ。信長の理不尽な粛清に怯え、上月城の救援を命じられながらも、毛利や本願寺と裏で通じているとの噂が絶えぬ。……坊主、ここらで少し、毒を混ぜてみぬか?」
満福は、灰庵の言葉の裏にある「謀略」の意図を察した。
「……信長と村重の間に、決定的な楔を打ち込むのか?」
「いかにも。冴衣を使って、村重の陣へ『信長様が貴殿の誅殺を決定された』という偽の連署状を潜り込ませる。もちろん、それは信長の筆跡を完璧に真似たものだ。疑心に満ちたあやつなら、これだけで爆発しよう」
「父上! そのような悪辣な謀略を……! しかも信長公の偽書など、露見すれば甲賀は灰塵に帰しますぞ!」
道実が激しく胃を押さえて抗議するが、灰庵はどこ吹く風だ。
「潜入と偽書の工作は、あたしに任せな」
冴衣が楽しげに笑う。
(……人間の疑心暗鬼を最悪の形で刺激する策だな。灰庵、恐ろしい爺さんだ。……だが満福、これは好機だ。村重が十月に謀反を起こせば、織田の矛先は西へ向く。その間に、俺たちは甲賀をより進化させることができる)
満福は、囲炉裏の火を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。
「……やろう。信長には、せいぜい内輪揉めを楽しんでもらう。わしたちはその隙に、この甲賀に根を張り、来るべき羽化の時を待つ」
「……道実、実務の手配を。冴衣、潜入の準備をせよ」
主君の命を受け、家臣たちが闇へと消えていく。
天正六年七月。山中鹿之介という古い忠義の星が沈み、浅井満福という新しい生存の星が、西の謀略と共に不気味に輝き始めた。
(……それにしても、殿か。……時任、響きは悪くないな)
(ああ。だが、その名に群がる連中の命まで背負ったってことだ。せいぜい地べたを這いずり回れよ。俺も、仕方ない、付き合ってやるさ)
「……皆の者、忙しくなるぞ! まずは西に火を放つ!」
浅井満福、十四歳の夏。
主君としての最初の一歩は、修羅道への確かな足音と共に踏み出された。
この物語も一歩ずつ高みへ登っております。
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