閑話其の三 月代(さかやき)の終焉と、新時代の頭容
天正六年初夏
甲賀の里を包む夜気は、昼間の熱を吸い込んで心地よく冷えていた。遠くで鳴く蛙の声と夏の草の香りが、里の静寂を深めている。
浅井再興を期す万福丸と、その手足となる家臣たちは、火を落とした囲炉裏を囲んでいた。今宵は軍議というほど堅苦しいものではなく、戦の合間の休息である。わずかに残った炭火の赤みが、万福丸の顔を静かに照らしていた。
この前まで、万福丸は、椿油でガチガチに固めた奇妙な「七三分け」にしていたが、今は違う。油を落とし、さらりと流したその髪は、月代を剃ることなく、現代の洗練されたスタイルに近い。自然に下ろされた前髪が、万福丸の端正な顔立ちを一層際立たせ、戦国という乱世には稀な、磨き抜かれた「美少年」としての輝きを放っていた。
万福丸は、火の消えかかった囲炉裏の灰を無造作に火箸で突きながら、静かに、考えに耽っていた。
家臣たちの熱烈な視線など、今の彼にはどうでもよかった。頭にあるのは、京極の叔母上が強引に進める「お照」との縁談を、如何にして破談にするか。その一点のみである。その髪型も、もはや興味をなくし、自然のままにしているだけの結果であった。
「……若様。改めて拝見いたしますが、その御髪、実に……実に羨ましい……もとい、見事にございますな」
重苦しい、しかしどこか湿り気を帯びた声が響いた。浅井家屈指の猛将、磯野員昌である。彼は一見、いつも通り厳格な武人の顔を保っていたが、その視線は万福丸の豊かな前髪に釘付けになっていた。
磯野は、若き家臣たちとは決定的な「構造上の問題」を抱えていた。
(……羨ましい。実に羨ましい。若様も、高虎も、喜三郎も、髪という名の兵力が実に潤沢ではないか。某など、抗う術もなく月代が広がり続け、今や戦わずして領土……いや、生え際を明け渡す一方。若様のように前髪をさらりと下ろそうにも、下ろすべき『兵』が、もはや前線には残っておらぬのだ……!)
磯野の心の中の叫びは、悲痛な嗚咽に近い。
「磯野殿、いかがなされました? 妙に顔が赤うございますが」
藤堂高虎が首を傾げると、磯野は激しく咳払いをして、無理やり威厳を取り繕った。
「……何でもない。ただ、高虎、喜三郎。お主らは若様の御髪に目を奪われているようだが、武士の本分を忘れるな。月代こそが兜の蒸れを防ぎ、戦場での覚悟を示す形。我ら古参が守り抜いてきた伝統を、そう容易く捨てるものではないぞ」
磯野は努めて厳格に諭したが、その心中は別の恐怖に支配されていた。
(若者たちが揃って月代をやめれば、残された某の広大な月代が、まるで焼け野原に残された一本松のように目立ってしまうではないか! 伝統という盾で、この孤立を防がねばならぬ!)
(うわあ、磯野の心の声が響いてくるぞ……「羨望」という名の猛攻だな。万福丸、見てみろよ。あの枯れ木のような表情の裏で、彼は自分の頭皮という名の落城寸前の城を必死に守ってるんだ。口では伝統だの何だの言ってるが、本心では若者たちの「ふさふさ」が妬ましくて仕方ないんだな)
(……時任、うるさい、黙っておれ。わしが考えているのは、お照が「こんな男、死んでも嫌だわ!」と叫んでくれる新たな策だけだ)
しかし、磯野の言葉を、若き二人は「深い裏読み」で解釈した。
「磯野殿、お言葉ですが……」
高虎が、万福丸の髪を神聖なものを見るような目で見つめ直した。
「磯野殿がおっしゃる伝統の重みも分かります。なれど、若様はあえてその伝統を塗り替え、新しい世の形を示しておられる。……拙者、その『新時代の頭容』にこそ、浅井の未来があると感じるのです」
「左様! 某も高虎と同意見にございます!」
遠藤喜三郎が再び勝手な感動で瞳を潤ませる。
「先日、里の娘が申しておりました。『以前の油髪も個性的でしたが、今の若様は、思わず指を通したくなるほど麗しい』と! 若様、これはもはや単なる装いではございませぬ。おなごの心を掴み、浅井の血筋を盤石にするための、高度な調略……「美貌による天下統一」とお見受けした!」
(天下統一だと? ……そんなこと、今はどうでも良いわ。それよりも緊急を要するのは、新たな策だ。)
「……やはり、確信いたしました」
高虎が満足げに頷く。
「磯野殿のご懸念はもっともですが、我ら若輩者が若様と同じ道を歩まずして、誰が新時代を切り拓けましょうか。拙者、明日から月代を伸ばし始め、若様と同じ『新様式』を追求する所存です!」
「……好きにせよ。お主たちが勝手に月代をやめて、お照に「浅井の家臣は揃いも揃って軟弱だ」と思われれば、それはそれで好都合だ」
万福丸の投げやりな返事を、家臣たちは「不問に付すという、力強い承認」と受け取った。
その傍らで、磯野員昌だけが、届かぬ「前髪」という名の理想郷を夢見て、遠く暗い森を見つめながら、静かに拳を握りしめていた。
(万福丸、お前の無関心が、磯野には「持てる者の余裕」に見えて、さらに傷を与えてるぞ。伝統を説いた手前、自分だけ月代を守らねばならぬ孤立感……。彼、今にも「前髪招来の祈祷」を始めそうな勢いだ。お前の罪は深いな……美少年ってのも罪なもんだねぇ)
(……うるさいと言っておろう! わしは一刻も早く新たな策を考えねばならぬのだ)
夜は更けていく。
翌朝、甲賀の里では、前髪を不自然に前に持ってこようと苦戦する兵たちと、それを血の涙を流さんばかりの形相で睨みつける磯野の姿が見られたという。
万福丸の「異形」は、本人の意図を他所に、浅井再興軍の新たな結束……という名の、毛髪を巡る悲喜劇の幕開けとなった。
(……策がない、全く思いつかん。時任、なんとかせよ)
(……無理だ、諦めよ。自身の容姿を恨むしかないな)
甲賀の里に、家臣たちの笑い声と万福丸のぼやきが、初夏の風に乗って溶けていった。
この物語も一歩ずつ高みへ登っております。
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