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戦国昆虫戦記【泥中羽化】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第六章 甲賀胎動編 〜集う異能と包囲の網〜

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第五十ニ話 磯野、再び立つ

天正六年二月


万福丸は数えで十四歳を迎えた。

甲賀の冬は長く厳しいが、氷結した土の奥深くでは、微かな春の胎動が始まっていた。


本来ならば元服を済ませ、大名家の嫡男として華々しくお披露目される年齢である。だが、織田に追われ泥底を這う彼に、そのような豪奢な儀式を行う余裕はない。それでも、彼の内から放たれる若き将としての覇気と落ち着きは、すでに一国を束ねる王のそれであった。


「……叔母上。お約束の品、お持ちいたしました」

甲賀の隠れ里、奥座敷。万福丸はただ一人で、黒漆塗りの盆に載せた椀を静かに差し出した。


椀の中には、あの『虫と不浄の地獄』で万福丸が己の空腹と尊厳を削りながら人工培養した冬虫夏草――それを数日がかりでじっくりと煎じ出した薬湯が入っていた。濃厚な土の香りと、独特の甘苦い匂いが漂う。


「……随分と、奇妙な匂いがしますわね。見た目も泥水みたい」

叔母上は扇子で鼻先を覆いながら、怪訝な目を向けた。


「冬虫夏草という、霊山でしか採れぬ希少なキノコを煎じた薬湯にございます。叔父上の労咳(結核)にも、劇的な効き目があるはず……」


「ふうん。毒ではないでしょうね?」

叔母上は冷ややかな目で椀を見つめた後、傍らで青白い顔をして横たわっている夫・高吉の口元へ、有無を言わさず椀を押し当てた。


「さあ、あなた、お飲みなさい。万福丸がせっかく用意したのです。これで死んだら、あなたを呪いますからね」

「ひっ……! い、いただきまするぅっ!」


高吉は涙目で薬湯を飲み干した。だが、数刻もすると、それまで彼を苦しめていた激しい咳の発作が嘘のように静まり、青白かった顔に微かな血の気が戻り始めた。冬虫夏草の強力な免疫賦活作用が、即座に効果を発揮したのである。


「……あら」

叔母上は、スヤスヤと安らかな寝息を立て始めた夫を見て、ふわりと完璧な微笑みを浮かべた。

「どうやら本物の霊薬だったようね。よくやってくれたわ、万福丸。これで、まだまだ私のおもちゃとして長生きしてもらえそう」


(……叔父上、生きて地獄、死んでも地獄だな)

万福丸が内心で叔父への深い同情を寄せていると、叔母上がふと、悪戯な瞳で万福丸を見据えた。


「ところで万福丸。貴方、兵を率いる将が足りなくて困っているのでしょう?」


「は……? いえ、甲賀の衆は優秀ですし、高虎や喜三郎もおりますゆえ……」


「強がるんじゃないの。奇襲や工作ならともかく、大軍を真っ向から押し返せる『猛将』がいないじゃない。織田の監視下に幽閉されていた頃、見張りの武将たちから面白い噂を聞いたわ」


叔母上は、扇子をパチンと閉じた。

「織田の中で、どうにも浮いている頑固な古狸がいるそうよ。しかも、近頃信長様の理不尽な逆鱗に触れたらしいの。間も無く、出奔でもするんじゃないかしら。……磯野員昌いその かずまさって言ったかしら」


叔母上の部屋を辞した万福丸は、すぐさま闇に潜む冴衣を呼び出した。

「……冴衣。死に場所を探している磯野っていう迷子の古狸を、この甲賀へ連れてこい。強引にでも構わん」


数日後。近江と美濃の国境付近。雪解けのぬかるむ山道を、一人の老武将がとぼとぼと歩いていた。


磯野員昌。かつて「十一段崩し」と恐れられ、浅井最強と謳われた男の背中は、今や見る影もなく丸まり、絶望と死の影が色濃く落ちていた。


(儂は……何のために生きてきたのだ。長政様を裏切り、城兵を救うために信長に頭を下げた。だが、その信長にも理不尽に見限られた。武士としての面子も、生きる目的も、とうに死に絶えておる。……いっそ、このまま野垂れ死ぬか)


死に場所を探し、虚ろな目で山中を彷徨う老将の前に、ふらりと木の葉が舞い落ちるように、黒装束のくノ一が降り立った。鵜飼冴衣である。


「……織田の追手か。好きにせい。儂の首など、くれてやる」


磯野が自嘲気味に笑い、無造作に首を差し出した。だが、冴衣は面白そうに口角を上げた。

「ほら爺さん、そんなに簡単に首を差し出すなよ。あんたが探してる『死に場所』より、もっと面白い場所に案内してあげる。……うちの主が、お待ちだよ」


「何……?」

冴衣は有無を言わさず、抵抗する気力もない老将の身柄を確保し、甲賀へと強引に連行した。


甲賀の奥座敷。

泥まみれの磯野が引き据えられた。それを見るなり、万福丸の背後に控えていた藤堂高虎と遠藤喜三郎の顔色が、激しい嫌悪と怒りに染まった。


「磯野殿……!」

喜三郎が驚きと共に声を荒らげる。

「若様、某は奴を迎え入れることには反対にございます! 確かにあの御方は姉川の合戦において、織田の陣を十一段目まで単騎で打ち破った浅井随一の猛将。ですが、結局は佐和山城で織田に降り、長政様を……我らを裏切った者!」


高虎もまた、冷徹な目で同調する。

「喜三郎の申す通り。降将として織田に媚びを売ることもできず、挙げ句の果てに居場所を失って逃げ出すような不器用な者を拾えば、甲賀の規律にヒビが入ります。もはや過去の遺物、刃こぼれした折れ剣に過ぎませぬ」


(おい万福丸。高虎たちの言い分も戦国の常識としちゃ正しいが、磯野の降伏は単なる『裏切り』じゃないぞ)


脳内で、時任の冷静な声が響いた。

(佐和山城は八ヶ月もの間、完全に孤立無援だった。兵糧も尽き、浅井本城からの援軍の望みもない中で、磯野は『城兵の命を助命する』という条件と引き換えに、泣く泣く城を明け渡したんだ。自分の命や面子より、部下の命を優先した結果の降伏だ。信長の勘気に触れたというのも、理不尽な言いがかりに過ぎん)


(……なるほど。わしの『生存第一』の信条と同じというわけか)


万福丸は、憤る家臣二人を静かに見据えた。

「高虎、喜三郎。お前たちの浅井への忠義は嬉しい。だが、磯野の降伏は己の保身ではない。絶望的な状況下で、城兵の命を繋ぐための苦渋の決断だ」


「しかし……!」


「死して名を残すのは容易い。だが、泥をすすってでも生き延び、命を繋ぐことこそが、今の浅井には何より尊いのだ。降伏の汚名を着てでも命を救ったあの古狸の『情』と、姉川を震え上がらせた『武』。……今のわしには、喉から手が出るほど欲しい」


その言葉に、高虎と喜三郎は押し黙った。喜三郎は己の面子よりも兵の命を重んじた磯野の真意に胸を打たれ、高虎はその「折れ剣」の中に眠る大軍の突破力という利用価値を即座に見出していた。


一方、磯野は、己を庇うその若い声に弾かれたように顔を上げた。

その顔立ちは、かつて自身が命を懸けて仕えた主君・浅井長政の面影と、お市の方の美しさを見事に受け継いでいた。小谷城落城の折、逃亡し行方知れずとなっていた浅井家の希望が、そこに立っていた。


「ま、まさか……万福丸、若様……!? いや、ご無事であられたと……!」


磯野は膝から崩れ落ち、地に額を擦り付けた。

「若様……! ああ、なんという事だ。この磯野、かつて長政様を見捨て、佐和山を明け渡した裏切り者にございます。もはや若様のお顔を拝する資格など……!」

武骨な老将が、大粒の涙をぼろぼろとこぼして慟哭する。自責の念に押し潰された、痛ましいほどの後悔だった。


万福丸はゆっくりと歩み寄り、磯野の震える肩に手を置いた。

「面を上げよ、磯野。……佐和山でのこと、わしは一切責めぬ。あの絶望の中で、お主が泥を被り、膝を屈してくれたおかげで、多くの浅井の兵が命を繋いだのだ。それは決して裏切りではない」


「若、様……」


「わしも同じだ。虫の這いずる泥底をすすり、浅井の再興を誓って今日まで生き延びてきた。……磯野。お主が救ったその命と最強の武勇、今度はわしのために使ってくれぬか」


磯野は、雷に打たれたように震えた。

(儂の罪を……恥辱にまみれた降伏を、肯定してくださるというのか。あの絶望の中で選んだ道は、間違っていなかったと。この若君は……!)


「……おおおっ! 若様ッ!」

磯野は、地の底から響くような咆哮とともに、再び深く平伏した。

「この老いぼれの命、とうの昔に捨てるつもりでおりました。なれど今、若様の御為に、最も輝かしき死に場所を見つけたり! この磯野、骨の髄まで、若様の覇道のために粉骨砕身いたしまする!」


(おい時任。とんでもない猛虎を手に入れたぞ)


(ああ。これで前線で正面突破できる戦力が加わった。高虎と喜三郎の指揮系統とも、上手く連携できるといいがな)


雪解けの風が吹き抜ける中、不器用な贖罪の老将は、己の命を燃やすべき絶対の主君をついに見出した。浅井軍最強の矛が、万福丸の元へと帰還したのである。


この物語も一歩ずつ高みへ登っております。

少しでも面白いと思って下さったら、ブクマと画面下の【☆☆☆☆☆】を塗り潰していただければ、これ以上の励みはございません。

どうか宜しくお願いします。


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