第五十一話 穴蔵の冬虫夏草
天正五年十一月中旬
近江の山々は枯色に染まり、甲賀の里には身を切るような冷気が立ち込めていた。吐く息は白く、指先は凍てつく。だが、その山中の一角、厳重に秘された岩穴の奥底には、地上の寒波とは無縁の「異界」が広がっていた。
「……うっ。若様、これ以上は……鼻が、鼻がひん曲がりまする!」
遠藤喜三郎が、着物の袖で鼻を覆いながら悲鳴を上げた。その隣で、藤堂高虎もまた、眉間に深い皺を刻んで絶句している。
二人の目の前には、広大な穴が掘られていた。そこには里中から集められた糞尿、生ゴミ、朽ち木が山をなし、おびただしい数の蛆と、金属光沢を放つセンチコガネが、うごめきながらそれらを食い荒らしている。腐敗と発酵が混じり合った、濃厚で湿った熱気が肌にまとわりついた。
(おい万福丸、何を怯んでる。十一月の甲賀でキノコを育てようなんてのは、本来なら狂気の沙汰だ。地上じゃ雪に埋もれて菌は眠りについちまう。だが、この発酵熱があれば話は別だ)
脳内で時任が、得意げに解説を始める。
(蛆とセンチコガネに糞尿と腐葉土を撹拌させることで、微生物の分解熱を爆発させる『好気性発酵』だ。この熱を壁越しに隣の栽培室へ送る。火を焚かずに、一年で最も冷え込む今、無理やり『春』を捏造するんだよ)
(黙れ、この外道学者が……! 貴様は鼻がないからいいだろうが、わしの鼻は今、千切れそうなのだぞ! 春を捏造だと? 吐き気を捏造しておるの間違いではないか!)
万福丸は、込み上げるものを不屈の楽観……もとい、死に物狂いの忍耐で抑え込みながら、家臣たちに向き直った。その瞳は、時任への怒りと生理的嫌悪で潤んでいたが、高虎たちの目には「深淵なる理を見つめる貴種の憂い」と映った。
「高虎、喜三郎……手を休めるな。さらに奥の壁を薄く削り、熱を導くのだ。冬虫夏草は、虫が死を悟るほどの寒さと、生を謳歌するほどの温かさが、奇妙に混じり合う場所でしか育たぬ。この地下の穴蔵、および不浄が吐き出す熱……これこそが、雪の下で霊薬を紡ぐための『偽りの苗床』となる」
「若様、仰ることに意味があるのはわかっております……」高虎が、鼻を突き抜ける悪臭に耐えながら、冷静に壁の厚みを測る。「地上の凍てつく風を遮り、この発酵の熱で室温を保つ。確かに、これならば冬でも霊薬の成長は止まりませぬ。しかし、この臭いの前では拙者も流石に限界が……」
「左様にございます!」喜三郎が涙目で訴える。「叔母上様……京極のお方様からのご依頼とはいえ、なぜこのような『虫の地獄』を……!」
万福丸は、震える手で鼻を抑え、二人を鋭く射抜いた。
「……お前たち、忘れたか。そもそも、わしが叔母上の理不尽な願いを突っぱねようとした時、『愛する夫の命を救いたいという、叔母上様の海より深い慈愛! 男として応えねば浅井の血が廃りますぞ!』とわしを説き伏せ、無理矢理に首を縦に振らせたのはどこの誰だ! この虫の地獄を作り出したのは、他でもないお前たち自身の言葉であろうが!」
「「……っ!」」
主君の正論(という名の完全なる責任転嫁)に、二人は言葉を失った。「私が苛める以外の理由で死ぬのは許さない」という叔母上の理不尽な本音など露知らず、二人の脳内では完全に「病に伏せる夫を献身的に支える、悲劇の美しき貴婦人」として変換されている。己の不用意な忠義立てがこの地獄を招いたと悟り、二人は青ざめた。
「……申し訳ありませぬ。全ては某たちの浅はかさゆえ。叔母上様の御心を思えば、この程度の臭気、気合いでねじ伏せてご覧に入れまする」
喜三郎が謎の罪悪感と感動に包まれながら、再び壁を削り始めた。
(ハハハ! お前が見事に責任をなすりつけたおかげで、こいつらイチコロだな。さあ万福丸、次は隣の栽培室だ。地下の熱で無理やり孵化させた蛾の幼虫に、菌の粉を丁寧に振りかけるぞ。保存しておいた卵から、この冬に幼虫を得られたのは奇跡に近い。一匹たりとも無駄にするなよ)
万福丸は、隣の区画へ足を踏み入れた。そこでは、甲賀の少年・六助が、発酵熱で温められた土の上に蠢く無数の蛾の幼虫たちを世話していた。
「……六助。その、蛾の幼虫どもに、例の粉を……。冬に生まれ落ちた哀れな命だ、一匹たりとも、生かして、還すな……」
万福丸は、生理的嫌悪のあまり半ば白目を剥きながら、絞り出すように命じた。
「はい、若様! 寒い外じゃみんな死んじまうけど、ここならポカポカです。おいら、この子たちが立派な『草』になるまで、片時も離れず見守ります!」
六助は、悪臭や虫への嫌悪などどこ吹く風で、愛おしそうに幼虫を撫でている。その純粋さが、今は何よりも恐ろしかった。
(いいぞ六助、素質がある。万福丸、見てみろ。発酵熱で室温は二十度、湿度は八十パーセントを超えている。完璧な人工気候室だ。冬虫夏草の菌糸は、生きている幼虫の体内に侵入し、その養分を吸い尽くして冬を越す。そして春の訪れとともに、幼虫の頭を突き破ってキノコを生やす。その『疑似的な春』を維持するため、さらに精密な温度管理の仕組みをお前に授けるぞ)
時任から追加の高度な知識が万福丸に伝えられた。
(ぐっ……!? またか……!)
今の知識が引き金となり、万福丸の体内の糖が急激に燃焼していく。目の前がぐらりと揺れ、耐え難い『空腹』が再び彼を襲った。腹の奥からギュルルと盛大な音が鳴り響く。
(霊薬が育つ前に、わしの胃が空っぽになって死にそうだ……! なぜわしが、こんな不浄と虫の地獄で、餓死の危機に瀕さねばならんのだ……!)
万福丸の視界がぐにゃりと歪む。
「若様!?」
倒れ込みそうになった万福丸を、高虎が素早く支えた。
「……高虎。……喜三郎。……わしに、何か……食べるものを。それと、鼻栓を……持って参れ……」
万福丸が消え入るような声で命じる。
「若様ぁ! やはり、身を削ってまで禁忌の術を……! 叔母上様のため、ひいては浅井のため、これほどまでの苦行を! この喜三郎、一生ついて参りますぞ!」
主君の過酷なまでの自己犠牲(と勘違いして)に泣き崩れる喜三郎と、冷徹に「この不浄をいかに隠匿し、利に替えるか」を算盤で弾き始める高虎。
地下の開発室には、生命の腐敗が生み出す力強い熱気と、主君の切実な空腹の吐息が、冬の甲賀の静寂を切り裂くように充満していた。
万福丸と共に、この物語も一歩ずつ高みへ登っております。
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