第五十話 淑女の涙と、絶対的理不尽
天正五年十一月
近江と甲賀の境。
遠くに織田の新たな本拠たる安土山の威容を望む、冷え込んだ街道沿い。
北近江からの長きにわたる幽閉生活を経て、ついに引き渡された一団、京極一家が、甲賀からの出迎えの部隊と合流していた。
「……ここまでで結構です。織田の皆様、長きにわたる手厚き『庇護』、心より感謝申し上げますわ。信長様にも、どうかよろしくお伝えくださいませ」
一団の先頭で、織田の監視役に向けて深く頭を下げたのは、京極の当主・高吉ではなく、その妻であった。
浅井長政の姉にして、万福丸の叔母。三十代後半という年齢を微塵も感じさせない、匂い立つような美貌と、非の打ち所のない気品。近江随一の貴婦人による完璧なまでの優雅な一礼に、織田の武将たちは思わず気圧され、そそくさと踵を返していった。
織田の兵が見えなくなったのを確認すると、陣羽織姿の万福丸が静かに進み出た。
「叔母上。よくぞご無事で……」
「……ああっ、万福丸ッ!」
先ほどまでの毅然とした態度が嘘のように、叔母上は顔をくしゃくしゃにして駆け寄り、万福丸を力強く抱きしめた。
「生きて……生きていたのね! 浅井の血が絶えていなかったこと、天に感謝いたします……! ひと目会った日から、貴方がどれほど苦労してきたか、この身が張り裂けんばかりに案じておりました……っ」
大粒の涙が、白磁のような頬を伝い落ちる。その痛ましいほどに美しい「完璧な慈愛」の姿に、同行していた藤堂高虎と喜三郎の二人は、完全に目を奪われ、ボロボロと男泣きし始めていた。
だが、抱きしめられている万福丸の背筋には、冷たい汗が伝っていた。
(……おい万福丸。気をつけろ。この人、なんか見えない圧というか……格が違う感じがするぞ……)
脳内で時任が、本能的な警戒心を露わにしている。万福丸も同感だった。この涙は本物かもしれないが、この底知れぬ美しさには猛毒が潜んでいる。
万福丸の視線の先には、京極の家族たちが所在なげに控えている。
「ゴホッ、ゴホッ……あぁ、ようやく、これで落ち着ける……」
青白い顔で激しく咳き込んでいるのが、名門京極家の当主にして、妻の気迫に完全に呑まれている稀代の恐妻家、夫の高吉である。病弱な彼は、立っているのもやっとの状態だった。
その後ろには、母の理不尽を間近で見て育ち、どこか悟ったような顔をしている長男の高次(小法師)と、次男の高知(主膳)。
さらに、母親譲りの美貌を持ちながらも天真爛漫に辺りを見回す次女のお照と、対照的に静かに佇む知的な三女のお静の姿がある。なお、長女の京極竜子は、若狭守護の武田元明へ嫁入りしている。
「父上、大丈夫ですか? 無理なさらないでくださいね」
お静が、静かな声で高吉の背中をさする。
「あーあ、お父様また咳してる! 早くあったかいお家にいきたいなー!」
お照は深刻な顔一つせず、甲賀の山々を指差してぴょんぴょんと跳ねている。
ふと、叔母上が万福丸から身を離し、懐から取り出した純白の懐紙で目元の涙をスッと拭き取った。動作は完璧に美しいままだが、その瞳から「悲哀」の感情が完全に消え失せていた。
「――さて。感動の再会はこれくらいでよろしくて? 私、お腹が空いたわ」
空気が、凍りついた。
「は……?」
万福丸が間の抜けた声を漏らす。
「北近江で出された泥臭い川魚や、織田の濃い味付けは肌に合いませんの。表向きは六角の残党が旗頭になっているようだけど……どうせ、貴方がこの甲賀を裏で牛耳っているのでしょう? だったら、最高のお風呂と、私の舌を満足させる極上の食事を用意しなさいな。……高吉! 咳ばかりしていないで、さっさと歩きなさい!」
「ひっ! は、はいぃっ!」
高吉が跳ねるように背筋を伸ばす。お照が「わーい、ご飯だ!」とはしゃぎ、高次が「また始まった」とため息をついた。
万福丸が準備していた『浅井家再興に向けた理詰めの懐柔』は、見事に粉砕された。
――数刻後。甲賀の隠れ里、奥座敷。
「……信じられませんわ。私にこんな野蛮な食事を出して、平気な顔をしているなんて」
湯浴みを済ませ、小袖に着替えた叔母上が、膳を前に扇子で口元を覆っていた。
膳の上にあるのは、分厚く切り分けられ、表面が黒焦げになるまで炙られた猪と鹿の獣肉。そして、見た目は茶色く無骨な『団子』である。
「ひぃぃっ! 万福丸殿、これはさすがに……!」
同席している高吉が、獣肉の生々しさと脂の匂いに青ざめている。
「お肉、真っ黒だよ!? これ食べられるの?」
お照が目を丸くして身を乗り出すと、隣でお静が「お行儀が悪いですよ、お照」と優しく窘めている。
「叔母上、申し訳ありませぬ。ですが、今の甲賀は戦と生産の過渡期。これが里の者たちが食している最高峰の滋養食にございます」
万福丸は神妙に頭を下げたが、その腹の内では冷たく嗤っていた。
(くくっ、先ほどの国境での理不尽なお返しだ。いくら気位の高い叔母上でも、この野蛮な獣肉と得体の知れない団子を見れば顔をしかめるだろう。正体を知って騒がれるのも面倒だが、甲賀の過酷さを思い知らし、大人しくして頂こう)
獣肉には、蚕の蛹などを発酵させて抽出した強烈な旨味成分の塊『昆虫醤』がたっぷりと塗られており、団子も『陸のエビ(コオロギ)』を粉末にして練り込んだものである。虫を食わされていると知れば、このわがままな女王はどう取り乱すか。
だが、叔母上はためつすがめつその肉と団子を見つめた後、おもむろに獣肉を一口かじった。
沈黙が落ちる。
「……あら?」
叔母上の目が、丸く見開かれた。
「見た目は泥のようですけれど……このお肉、信じられないほど濃厚な旨味と甘みがありますわね。それにこの団子も、妙に香ばしくて……。北近江の泥臭い川魚よりよほど口に合います。気に入りましたわ」
叔母上は、平然と二口目を口に運んだ。
「本当だ! お肉すっごく美味しい! お母様、私もっと食べたい!」
「……確かに、野趣あふれる見た目とは裏腹に、奥深い味わいですわね」
お照が歓声を上げ、お静も静かに驚きの声を漏らす。
(しまった……! 獣肉の臭みを消すために、よりによって昆虫醤で極上の旨味を引き出してしまったのは失敗だったか……!)
万福丸は予想外の好反応に激しく後悔した。これでは甲賀の過酷さを教えるどころか、単なる美食の提供ではないか。
(……これが叔母上の恐ろしいところだ。常識や見た目など関係ない。ご自身が『美味しい』と直感すれば、それが全ての絶対基準なのだ)
万福丸が己の敗北に唇を噛んでいると、ふと叔母上が真顔になった。その視線の先には、横になって苦しそうに息を吐く夫、高吉の姿がある。
「ところで、万福丸。この人、ずっとこんな調子で、近頃は血を吐くこともあるの。……貴方、治しなさい」
「は……? いや、叔母上。わしは医術の心得など――」
「甲賀を支配しているのなら、なんだってできるでしょう? 私はね、この不甲斐ない夫を苛めるのが日課なの。私以外の理由で、勝手に死なれるのは絶対に許さないわ」
理不尽の極みであった。万福丸が「それは無理だ」と口を開きかけた瞬間、横から巨体が滑り込んできた。
「若君! 叔母上様の仰る通りにございます!」
「これほど気高く、夫を愛しておられる淑女の願い、男として応えねば浅井の血が廃りますぞ!」
藤堂高虎と、喜三郎である。彼らは叔母上の「美貌と涙」に完全に魅了され、忠誠の矛先を誤作動させていた。
「お前ら……正気か……」
頼みの綱の武将二人にまで裏切られ、万福丸は頭を抱えた。
(……おい、どうする。何かないのか)
万福丸は脳内の底へ呼びかけた。
(……ある。甲賀の地下にある蚕の越冬施設を使って、蛾の幼虫に人工的に菌を植え付けて培養するんだ)
その瞬間、時代を超越した培養技術の知識が万福丸の脳へ流れ込んできた。
(ぐっ……!?)
情報を得た代償として、体内の糖が急激に燃焼していく。目の前がぐらりと揺れ、耐え難い空腹感が即座に万福丸の肉体を襲った。腹の奥からギュルルと盛大な音が鳴る。
(くそっ……急激に腹が減ってきた……! まずはこの死ぬほどの空腹を抱えたまま、目の前の理不尽な叔母上の相手をせねばならんのか……!)
万福丸が、どうやってその空腹と代償を誤魔化すか、脳内で組み立てていた、その時だった。
「……ねえ、万福丸」
ふいに、叔母上が万福丸の顔をジッと見つめて小首を傾げた。
「どうしたの? 難しい顔をして。それに……貴方、今、誰か『別の人間』とお喋りでもしているの?」
ビクッ、と万福丸の肩が跳ねた。
「なっ……! そ、そのようなこと、あるはずが――」
「ふふっ、冗談よ。ずいぶん可愛げのない顔をしているから、からかっただけ」
叔母上は、ころころと鈴を転がすように笑った。だが、その瞳の奥には、すべてを見透かしているかのような底知れぬ鋭さが宿っている。
(時任……やはり、わしの手には負えん。この人は、わしを根底から喰い破る劇薬だ)
万福丸は、額に滲んだ冷や汗を拭いながら、甲賀に舞い降りた『絶対的理不尽』の美しき女王に、ただ平伏するほかなかったのである。
明日より一日三話投稿を考えております。
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