第四十九話 岐阜城での対峙
天正五年十月初旬
岐阜城
金華山の頂にそびえるその巨城は、晩秋の夕暮れに染まり、さながら巨大な獣が伏せているかのような威容を誇っていた。だが、その広間に満ちている空気は、十月の冷気よりも鋭く、重苦しい沈黙が支配している。
「……六角だと?」
上座に座す織田信長の低い声が、静寂を切り裂いた。
信長の目の前には、泥にまみれ、無数のオオスズメバチの死骸が敷き詰められた佐久間盛政の兜が置かれている。信長はその中の一匹を、忌々しげに指先で摘み上げた。鋭い針を残したまま死に絶えた悪魔の羽音が、今にも広間に響き渡るかのようだった。
信長は、摘み上げた蜂の死骸を無造作に弾き飛ばした。信貴山城の松永親子の件はまもなく決着するとの報は受けているが、一息つく間もなく届いたこの「敗報」は、魔王の誇りを激しく逆撫でしていた。
「はっ。我が主、六角左京大夫(承禎)様、並びに右衛門督(義治)様からの親書、確かに持参いたしました」
平伏しているのは、山中長俊である。彼の背後には、甲賀で獲れた瑞々しく太った白米が、挑発するように箱に詰められ積まれていた。領内が虫害と飢饉に喘ぐ中、これほどまでに完璧な一粒一粒を見せつけることは、織田の困窮を嘲笑うに等しい。
信長から放たれる凄まじい殺気に、長俊の背筋を冷たい汗が滝のように流れ落ちていた。胃の腑がねじ切れそうになる。少しでも声が震えれば、たちまち首が胴から離れるだろう。だが、長俊は必死に奥歯を噛み締め、呼吸を保った。
(信長公は確かに恐ろしい。だが、我らの『若様』は……怒りや殺気すら見せずに、国一つを泥に沈める化け物だ)
魔王の激情か、泥底の冷徹なる知か。二つの絶対的な恐怖の狭間で、長俊は自らの主君たる万福丸への絶対の服従を選び、微塵も表情を崩さなかった。
「条件は二つ。一年間の停戦。そして……織田家に留め置かれている、京極一家の引き渡しにございます」
長俊が淡々と告げると、信長は動きを止めた。
「……京極だと?」
信長の思考が、高速で回転を始める。
六角が甲賀を纏め、これほどの軍事的知略を見せただけでも解せぬ。六角承禎という男は、保身にかけては一流だが、それは裏を返せば「生き残るためなら平気で泥をすする」という小者特有の嗅覚に過ぎない。あの誇りの塊である鬼玄蕃を完全に手玉に取るような盤上遊戯。
(六角に、これほどの『絵』が描けるはずがない。あやつらはただの飾りだ。……何かが背後にいる)
さらに、要求されたのが「京極」であることだ。京極家は、浅井長政の姉の嫁ぎ先であり、信長にとっては浅井の血縁を監視下に置くための鎖でもあった。
(京極一家を引き渡せば、浅井の旧臣どもを糾合する強力な旗印を、あえて敵にくれてやることになる)
表向きの当主である高吉などどうでもいい。真に厄介なのは、長政の姉であるあの女だ。近江の武家の妻らしく控えめな『完璧な貴婦人』の仮面を被っているが、その実、恐妻家である夫を完全に支配し、京極家の実権を握っている。あの女が甲賀という強固な砦に入れば、近江の地盤がどれほど揺らぐか計り知れない。
(……やはり、浅井ではないのか)
行方知れずとなっている浅井の遺児。信長の胸中に、泥の底から自分を見上げる亡霊の視線を感じはするが、確たる証拠は無い。
「山中。お主、六角の家臣としてここに来たな」
「いかにも」
「ならば答えよ。なぜ六角が、京極にこだわる。……行方知れずの浅井の『小僧』が裏で糸を引いておるのか?」
信長の鋭い眼光が、長俊を射抜く。
長俊は、額に汗を浮かべながらも、表情一つ変えずに答えた。
「……名門の誼にございます。かつて六角と京極は近江を共に支えた家同士、今の織田の振る舞いはあまりに非道。それを正すのが守護たる六角の義務、と御屋形様は仰せにございます」
「ふん。白々しいわ」
信長は親書を放り投げた。
北陸の上杉、本願寺、大和の松永、そして領内の飢饉。今は背後を突く甲賀との戦端を開いている余裕などない。信長は血を吐かせてやるという言葉を飲み込み、冷徹に算盤を弾いた。
「京極をくれてやる。停戦も一年だ」
信長は短く言い放った。だが、その瞳には慈悲など欠片もなかった。
「長俊。六角ではなく、その後ろで『神輿』を担いでおる亡霊に伝えよ。……いつまでその泥の中に隠れ通せるか、楽しみにしておくとな」
岐阜城を後にする山中長俊の背中に、魔王の視線が最後まで突き刺さっていた。六角の影に隠れる亡霊。その正体が何者であれ、信長は確信していた。いずれこの泥の底から這い出してくる『何か』と、血で血を洗う戦いを繰り広げることになるだろうことを。
明日より一日三話投稿を考えております。
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