第四十八話 弾正、灰となり蘇る
天正五年十月十日 大和国、信貴山城
織田信長が差し向けた四万の大軍に完全包囲され、城内はすでに死の臭いに満ちていた。矢玉は尽き、下層の曲輪からは兵たちの断末魔と、建屋が焼け落ちる黒煙が本丸にまで立ち昇っている。
本丸の薄暗い一室。名物『平蜘蛛』の茶釜を前に、一人の老人が不敵な笑みを浮かべていた。松永弾正久秀である。
「……父上、もはやこれまでです。織田の使者が、その釜を差し出せば命だけは助けると申しております。どうか、ご決断を……!」
嫡男、松永右衛門佐久通が、血と煤に塗れた顔を歪ませ、震える声で懇願する。
だが久秀は、茶を一口啜ると、手元の火縄を愛おしそうに見つめた。
「阿呆め。信長のような無粋な成り上がりに、この儂の命運も、この平蜘蛛も渡さぬ。己の生き様は己で決める。派手に爆ぜて散るこそ、この松永弾正に相応しい幕引きよ」
「……そいつは、ちょっと勿体ないねぇ」
突如、閉ざされたはずの襖の奥から響いた女の声に、久通が弾かれたように刀に手をかけた。
「何奴だ!」
暗がりから音もなく姿を現したのは、商人の護衛を装って潜入していた鵜飼冴衣であった。彼女は懐から、見慣れぬ黒い筒と、大量の『白い粉』が入った大きな袋を床に放り投げる。
「堺の津田宗及の使いで、名物茶器の最終検分に来たと言えば、包囲網の兵も案外すんなり通してくれるもんだ。……弾正の爺さん。死ぬ前に、ひとつ『極上の茶番』に乗ってみる気はないかい?」
「茶番だと?」
「甲賀が、あんたを拾いたいって言ってるんだ。信長の作った退屈な世で野垂れ死ぬか、それとも誰も見たことのない景色を創るか……選べってさ」
久秀の目が、好奇心に細められた。
「甲賀だと? あの忍びの巣が、儂を……。面白い。だが、この四万の包囲網をどう抜ける。儂がこの城を枕に死なねば、織田は血眼になって地の果てまで追ってくるぞ」
「だから、死ぬのさ。……『死んだこと』にするんだよ」
冴衣は部屋の隙間という隙間に素早く目張りをし、持ち込んだ袋から細かい小麦粉と炭の粉末を部屋中に撒き散らし始めた。
「爺さん、この粉が部屋中に舞い上がったら、一気に火をつけろ。平蜘蛛の火薬が爆ぜるより、ずっと派手な閃光が拝めるはずだ。その隙に、あたしらが用意した抜け穴からずらかる。……久通の旦那、あんたもボサっとしてないで手伝いな!」
「あ、あわわわ……! 部屋中に粉を撒いて火をつけるなど、狂気の沙汰か! 何を……! あぁ、胃が、胃が痛む……!」
久通は混乱しながらも、冴衣の凄まじい手際と気迫に圧倒され、言われるがままに粉を撒き散らした。
数分後。
信貴山城本丸で、空を焦がすほどの紅蓮の炎と、落雷のような轟音が炸裂した。
夜空に巨大な火柱が立ち上り、周囲の空気が一気に膨張して突風が巻き起こる。包囲していた織田の兵たちは、あまりの衝撃と閃光に悲鳴を上げて目を覆った。爆煙の中、建屋の破片が四散し、松永弾正の最期は誰の目にも疑いようのない「壮絶な爆死」として歴史に刻まれたのである。
――数日後。伊賀の険しい山道を抜け、外界から完全に隔離された『甲賀』の隠れ里。
秘密の獣道を抜け出してきた久秀と久通は、目の前に広がる異様な光景に絶句していた。
「……な、何だ、ここは。戦国の世だというのに、この山奥にこれほどまでに物資と食糧が溢れているとは……」
泥に塗れた足袋を引き摺りながら、久通が呆然と呟く。
道ゆく里人たちの顔に、乱世特有の飢えや疲弊の影はない。彼らは血抜きされた猪や鹿の獣肉を炙り、見慣れぬ黒っぽい粉末を練り込んだ高栄養の団子を頬張っている。
「驚くのは早いよ、爺さん。こっちを見な」
先導する冴衣が指差した先には、硫黄と泥の臭いが立ち込める大規模な工房があった。煮えたぎる大鍋からは、京や堺の経済圏を侵食しつつある鮮烈な『甲賀の緋色』が抽出され、別の区画では、里の汚物や泥を集めた古土法による『硝石』の組織的な生産が行われていた。
さらに、蚕を用いた絹の大量生産と、その蛹を余すことなく兵糧として完全利用する、狂気じみた循環の仕組みが稼働している。
「……極めつけは、これさ。爺さん、今年の春先から、美濃や尾張、伊勢の穀倉地帯を襲った、あの不気味な虫の厄災を知ってるかい?」
冴衣がニヤリと笑う。久秀の脳裏に、織田領を苦しめているという謎の『羽音』と不作の報が蘇った。
「まさか……。あの厄災すらも、この山奥で人為的に起こしたものだとでも言うのか?」
「さあね。ただ、この甲賀の隠れ里には、武力で勝てないなら虫を使ってでも国の土台から喰い破る、とんでもない化け物が棲んでるってことさ」
久秀は背筋に冷たい粟立つものを感じた。
火薬もなしに城を吹き飛ばしたあの奇術。泥から火薬と黄金を生み出し、生態系すら操作して信長の喉首を絞め上げる異常な技術体系。
この甲賀の奥底には、戦国の常識を根底から破壊する『化け物』が棲んでいる。
――甲賀、大広間。
上座には、かつて南近江の覇者であった六角承禎(義賢)と、その子・義治がふんぞり返っていた。左右には望月や三雲といった甲賀の重鎮たちがずらりと並び、下座には一人の美しい少年が控えている。そして、客分として通された松永親子は、六角親子に平伏した。
「ほう。大和で死んだはずの松永殿が、まさか我が甲賀へ逃れてこようとはな。よくぞ参った。我が六角家の威光の下、甲賀は日に日に強大になっておる。織田を討ち果たす日も近かろう!」
承禎が鷹揚に頷き、義治も「いかにも! 余の采配あってこその豊かさよ!」と胸を張る。
「ははっ。すべては左京大夫(承禎)殿、右衛門督(義治)殿の御威光の賜物にございます。松永殿をお迎えできたのも、名門六角家のご恩沢なればこそ」
下座に控える少年――浅井万福丸が、鈴の鳴るような涼やかな声で、深く、非の打ち所のない一礼をした。
だが、その瞬間、久秀の鋭い目は座敷に満ちる『異様な空気』を正確に読み取っていた。
(……滑稽なことよ)
六角親子は上座で威張っているが、万福丸が声を張るたび、承禎は目に見えて怯えて様子であり、義治に至っては膝の上で組んだ手を震わせている。彼らの全身から滲み出ているのは、覇者の余裕などではない。己の生殺与奪を握られている者の『保身と恐怖』だ。
さらに決定的なのは、望月や三雲ら甲賀の実力者たちの態度だった。彼らは六角親子の言葉など一言も聞いていない。その視線はただ一点、下座で恭しく頭を下げる少年にのみ、絶対的な忠誠と畏怖をもって注がれていた。
(あのように一番目立つ場所で名門の肩書きを鳴かせ続ければ、織田は、真っ先にあの無能な親子を狙う。……この少年、六角を極上の『避雷針』として飼い殺しておるのか)
広間を出た後、奥座敷へと案内される廊下で、久秀は愉快そうに嗤った。
「カカカ! 見事な手綱さばきよな、坊主。あのような張り子の虎を矢面に立たせ、己は安全な泥の底で策を練るとは。お主の性格の悪さは、この儂を超えているやもしれぬ」
万福丸は立ち止まらず、ただ冷たく双眸を細めるだけで何も答えなかった。ここはまだ広間に近い。忠臣の仮面を被ったまま、静かに奥座敷へと歩みを進める。
――奥座敷(密室)。
人払いを済ませた部屋に入り、万福丸と松永親子の三人だけになると、万福丸はようやく忠臣の仮面を脱ぎ捨てた。
「褒め言葉と、とらえておこう、弾正。恐怖と利で縛れば、これほど忠実で便利な防波堤はないからな」
冷酷な支配者の瞳で言い放つ万福丸に、久秀は目を細めた。
「お主を死地から拾い上げたのは、単なる慈悲や好奇心ではない。わしの真意を語ろう」
万福丸は扇子を畳に置き、声を潜めた。
「わしの目的は、浅井の復興である。そして、織田に囚われている母・市と、三人の妹たちを必ず奪還する。信長には、これまで積み上げた一切を崩壊させ、絶望の中で血を吐かせてやる」
(本能寺の変……信長の最期はすでに歴史が定めている。だが、それをこの老人たちに語る必要はない。未来を知る優位性を手放すな。今はただ、信長を討つという強烈な意志だけを餌にすればいい)
脳内の時任が、冷静な計算のもとに助言を送る。万福丸も微かに頷き、言葉を続けた。
「……なるほど。大義名分としては美しいが、その腹の底には煮えたぎるような憎悪があるわけだ」
久秀が嬉々として目を細めた。
「で、この老いぼれに何をさせたい?」
「お主の、その悪辣極まりない謀略の知恵と、諸国に張り巡らせた人脈。……その『毒』を、わしに貸せ。さすれば、誰も見たことのない極上の盤上遊戯を見せてやろう」
万福丸は久秀を真っ直ぐに射抜いた。
「そのための軍師として、弾正、そして右衛門佐。お主たちの力を貸してほしい」
久秀は、震えるほどの歓喜を覚えていた。義理や道徳などという下らないものを鼻で笑い、純粋な「知識と技術」で世界を壊そうとするこの少年になら、己の最期を賭ける価値がある。
「……よかろう。この老いた梟雄、坊主、お主の描き出す絵図面の一部となってやろうではないか」
「父上! 若君に向かって、なんて無礼な言い様ですか……! 若君、平にご容赦を。私は父の暴走を監視し止めるためにも、実務と兵站を全力で回させていただきます。……あぁ、胃が痛い……」
久通が頭を抱えながらも、深く一礼した。
万福丸は満足げに頷くと、改めて二人に向き直った。
「……ところで。松永弾正久秀と、右衛門佐久通は、信貴山城で名物平蜘蛛と共に爆死した。この世に存在せぬ人間だ」
万福丸は口元に微かな笑みを浮かべる。
「新たな名は、何とする?」
久秀は顎を撫で、皮肉げに笑った。
「……信貴山で灰になった老爺ゆえな。『灰庵』とでも名乗らせてもらおうか」
それを聞いた久通は、深くため息をついた。
「なれば私は、父の悪名から逃れ、裏で実務に徹する道を選びます。名を『道実』といたしましょう」
「灰庵に、道実か。……よかろう」
天正五年。
甲賀の泥底で、時代を根底から覆すための「闇の軍師」と「最高の実務官」が、万福丸の陣営に加わったのである。
(……おい万福丸。これであの爺さんが裏切ったらどうするつもりだ?)
(ふん。裏切る前に、死ぬまで使い倒してやるわ)
泥底の覇王と、灰の軍師。彼らの嗤い声が、甲賀の夜風に怪しく溶けていった。
【更新報告】
本日もご一読ありがとうございます。
万福丸の物語は、ここからさらに加速してまいります。
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今後とも、万福丸の覇道を見守っていただければ幸いです。




