第四十六話 鬼玄蕃と、御簾の奥の王
九月下旬。鈴鹿の険しき山道を、四千の「沈黙の塊」が動き出した。
先頭を行くのは、織田家随一の勇猛を誇る佐久間盛政。その眼光は、甲賀の豊かな糧食を奪い取らんとする野心に燃えていた。だが、彼の耳には、森の虫たちが一斉に鳴き止む「沈黙の足音」は、まだ届いていなかった。
山中の村落に踏み込んだ盛政軍は、囲炉裏の火がくすぶる無人の家屋や土間で、発酵した甘酸っぱい香りを放つ「それ」を発見した。
「酒粕……いや、何らかの滋養ある保存食か!」
極限の飢えに喘いでいた兵たちは、狂ったようにその餌に群がった。盛政もまた、下郎が毒見をして直ちに倒れなかったことを確認すると、泥にまみれた手でそれを掴み、喉の奥へ流し込んだ。
だが、地獄は数時間後に訪れた。
険しい谷筋の行軍中、突如として兵たちが次々と腹を抱てうずくまり始めたのである。
「な、なんぞ……腹が……ッ! 割れるように痛むッ!」
嫌気性発酵によって爆発的に増殖した細菌の毒素と、野草の根から抽出された強力な下剤成分。それは、飢えに飢えた胃腸を無慈悲に蹂躙した。整然としていた隊列は瞬く間に崩壊し、屈強な織田の精鋭たちは武器を放り出し、道端で、茂みで、自らの糞尿にまみれて絶叫した。
「おのれ、毒を……ッ! 構えい! 敵の夜襲が来るぞ!」
盛政は激しい腹痛に脂汗を流しながらも、刀を抜き放ち怒号を上げた。さすがは鬼玄蕃、己の肉体が悲鳴を上げてもなお、戦う意志だけは折れていない。
だが、降り注いできたのは矢弾ではなかった。
頭上の木々から、パチン、パチンと奇妙な小石が降ってくる。それは、兵たちの足元や鎧に当たると同時に、むせ返るような強烈なフェロモン――『狂い汁』を周囲に撒き散らした。
直後、森の奥から、空気を震わせるような重低音の羽音が沸き起こった。
「ひぃぃッ! ハチだ! オオスズメバチの群れだァッ!」
怒り狂った数万のオオスズメバチが、腹痛で動けないたちに容赦なく襲い掛かる。刀も槍も、空を舞う悪魔には何の意味も持たなかった。
「ええい、退け! 退けぇッ!」
猛将・盛政でさえ、顔面や首筋を執拗に刺され、泥と自らの排泄物に塗れながら地に這いつくばるほかなかった。甲賀の森は、剣戟の音ひとつ響かぬまま、文字通りの阿鼻叫喚の地獄と化したのである。
数日後。甲賀の奥深き隠れ里の広間。
「離せ! ええい、痴れ者ども! 恥をかかせるな、いっそひと思いにわしを殺せッ!!」
広間の中央で、後ろ手に縛られた巨漢が吠え猛っていた。佐久間盛政である。
体中の刺し傷は赤黒く腫れ上がり、泥と汚物にまみれた鎧は剥ぎ取られ、みすぼらしい小袖一枚の姿。誇り高き「鬼玄蕃」の面影は見る影もない。だが、その両眼だけは依然として血走り、殺意にギラついていた。
その盛政を上座から見下ろしているのは、かつて近江を支配した名門、六角承禎と義治の親子であった。
「あ、ああ……佐久間玄蕃よ。無様な、姿だな」
承禎の声は、名門の当主にしてはひどく上擦り、不自然に震えていた。彼の視線は、縛られた盛政を通り越し、自らの背後に設置された薄暗い御簾の奥を、恐る恐る窺っている。
御簾の裏側。そこには、十三歳の童――浅井万福丸が、冷徹な瞳で床机に深く腰掛けていた。
(――ここが正念場だ。六角を完璧に操り、「鬼玄蕃」の心を折れ)
(……当然だ。盛政の奴、あの有様でよく吠えるが……わしらの前では無力よ)
万福丸は扇子で口元を隠し、傍らに控える三雲佐助に目配せをした。佐助は細い竹筒を口に当て、六角承禎の座る床板の隙間へ向けて、万福丸の「意思」を低い声で伝達する。
竹筒から響く冷徹な指示に従い、承禎がビクリと肩を跳ねさせて口を開いた。
「よ、余は、いや、我ら六角は、甲賀の衆とともに、貴様らを哀れに思っておる。戦わずして虫と下痢に敗れるとは、武士として死ぬよりも辛い恥辱であろう」
「黙れェッ! 没落した六角の残党風情が! 貴様らの小賢しい罠など、信長公が必ずや火の海に変えてくれるわ!」
盛政の怒号に、承禎は「ひっ」と短い悲鳴を上げて後ずさった。だが、竹筒からの指示は容赦なく続く。
「……ふ、ふん。強がるな。貴様がここで死ねば、生き残った武将どもも道連れぞ。それに、貴様が糞尿にまみれて地を這った事実を、信長に報告せねばならなくなるな」
承禎が台本通りに言い放つと、盛政の顔色が変わった。武士としての面子を完全に泥に沈められた上、部下を道連れに犬死にする。それは「鬼玄蕃」にとって最も耐え難い結末であった。
「……貴様ら、何を企んでおる」
盛政の声のトーンが、わずかに落ちた。
御簾の奥で、万福丸が扇子で軽く膝を叩く。佐助の竹筒から、新たな問いが承禎の耳へ吹き込まれた。
「企みなどない。ただ、解せぬだけだ。信長が甲賀を平らげるに、たった四千とは……我らをひどく侮ったか? それとも、織田の陣営はそれほどまでに兵糧が尽きているのか?」
「……ふん。結果として不覚は取ったが、貴様ら山猿を捻り潰すには四千で十分だと思ったまでよ」
盛政は顔を背け、強がって見せた。だが、竹筒からの声はさらに鋭く盛政の痛所を突く。
「……いや、それだけではあるまい。信長のやり方ならば、飢えていようと圧倒的な大軍で蹂躙するはず。それをしない、いや、できない理由が他にあるのではないか? 例えば……大和の国あたりで、何かよからぬ事態でも起きている、とかな」
盛政の血走った目が、驚愕に大きく見開かれた。
「貴様ら……山に引きこもっているくせに、なぜそれを……ッ!」
泥にまみれた顔が、ギリッと歪む。
「……ええい、隠し立てするつもりはないわ! 大和の松永のジジイめが、またしても御屋形様に背き、信貴山城に立て籠もりおったのだ! 織田の主力部隊は皆、あの裏切り者の老いぼれを討つべく大和へ向かっておる! だからこそ、わしは手近な甲賀を速やかに踏み潰し、兵糧を確保せねばならなかったのだ!」
(――なるほど。やはり、松永久秀の謀反か。美濃・尾張の飢饉に加えて、大和での二正面作戦。信長の足元は完全に火の車というわけだな)
御簾の奥で、万福丸が冷酷に口角を上げる。織田の窮状という決定的な『手札』を確信した万福丸は、佐助へ次の指示を出した。
佐助の竹筒から、決定的な要求が承禎の耳へ吹き込まれた。
「……命を助けてやる。条件は二つだ」
承禎は、まるで自分が恐ろしい魔王にでもなったかのような錯覚に陥りながら、震える声で宣告した。
「一つ。織田に身を寄せている、京極の一家を、無傷でこの甲賀へ引き渡せ。そして二つ。我ら甲賀との、一年間の停戦を約定せよ」
「なんだと……!?」
盛政は絶句した。要求の規模が、ただの国衆の域を超えている。
「我らは、美濃、尾張、伊勢が、謎の虫害によって甚大な兵糧不足に陥っていることを知っている。一年の停戦。今の織田にとって、喉から手が出るほど欲しい時間であろう?」
承禎の(正確には万福丸の)言葉に、盛政はギリッと奥歯を噛み鳴らした。完全に読まれている。飢饉に苦しむ織田軍に、険しい甲賀の山へ再侵攻する余力はもはやない。しかも、自分という武将の命が失われれば、織田軍の士気はさらに地に落ちる。
「……書状をしたためよ、盛政。貴様の震える筆跡こそが、信長への何よりの説得材料となる」
盛政は、屈辱に血の涙を流しながらも、投げ出された筆を握った。己と生き残った武将たちの命を天秤にかけ、織田の未来のために、泥まみれの屈辱を呑み込んだのである。
翌朝。甲賀の館の裏手で、万福丸は出立の準備を整えた山中長俊と密かに向き合っていた。
「大役、ご苦労じゃ。長俊」
万福丸が、冷徹な王の顔で労う。
「はっ。この山中長俊、六角様の名代として……いや、真なる我らの若様の御心を、確かに信長の元へと届けて参ります」
実直な長俊が、深く頭を下げる。彼の背後には、盛政が屈辱とともに記した書状と、荷馬に積まれたいくつかの木箱があった。
「手土産は、手抜かりなく持ったな?」
「はい。……盛政の兜、そしてその中には、若様のご指示通り、隙間なくオオスズメバチの死骸を敷き詰めております。さらに……」
長俊は、もう一つの荷に視線をやった。
「甲賀で穫れた、極上の白米。一帯が飢饉に苦しむ中、これほど丸々と太った米を見せつけられれば、信長とて我らの『底知れぬ力』を認めざるを得ないでしょう」
万福丸は扇子で口元を隠し、低く笑った。
「左様。魔王に教えてやるのだ。飢えているのはそちらだと。……頼んだぞ、長俊。甲賀の未来は、お主の双肩にかかっておる」
「御意!」
翌十月初め、山中長俊は、数名の供回りとともに、静かに甲賀の山を下りていった。
その背中を見送りながら、万福丸は鋭い眼差しを東の空へ向けた。
(――見事な手際だ。これで京極の叔母上を取り戻せるな)
(……ああ。浅井の血は、もう誰一人として絶やさせはせぬ)
若き王は、静かに扇子を閉じた。泥と知略に塗れた交渉戦の火蓋は、今、信長の御前へと移ろうとしていた。
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【更新報告】
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万福丸の物語は、ここからさらに加速してまいります。
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今後とも、万福丸の覇道を見守っていただければ幸いです。




