第四十五話 飢えたる猛将と、沈黙の罠
天正五年(一五七七年)九月中旬
甲賀油日の奥深き館の広間には、異様な熱気と殺気が渦巻いていた。
三雲佐助が地図上に引いた一本の黒い線。それは、鈴鹿峠を越え、怒涛の勢いで甲賀へと侵入しつつある佐久間盛政軍、四千の進軍路であった。
「……敵将、佐久間盛政。織田家中でも指折りの猛将にござる。兵糧不足を補うべく、略奪を目的とした迅速な進軍。現在、山中から土山へ至る街道を、飢えた獣の如き速さで踏破しております」
佐助の報告が終わるや否や、広間に居並ぶ家臣たちの感情が爆発した。
「若様! 直ちに出陣のご許可を!」
真っ先に声を上げたのは、遠藤喜三郎であった。その瞳には狂信的な忠誠心と、戦への渇望が燃えている。
「日々鍛え上げた我が手勢、飢えた織田の敗残兵もどきなど一揉みにしてみせましょう! 虫の音を聞くだけでは、武士の魂が腐りまする!」
「喜三郎の言う通りだ」
藤堂高虎もまた、静かながらも鋭い闘志を隠そうとはしなかった。
「若様が敷かれた『天然の諜報網』は見事。敵の所在が判明している今、奇襲をかければ盛政の首を獲るは容易にござる。……武功を立てる機会を、なぜ虫ごときに譲らねばならんのですか」
鵜飼冴衣に至っては、不機嫌を隠そうともせず、愛用の鉄砲を膝に置いて鼻で笑った。
「あたしら鵜飼一族は、虫の音を合図に送るために鉄砲を捨てたわけじゃないよ。織田の精鋭の眉間に、鉛玉をぶち込んでこその忍びだろうが」
山中長俊ら甲賀の当主たちも、一様に頷いている。彼らにとって、戦とは首級を挙げ、恩賞を得るための神聖な舞台であった。万福丸の「戦わずして勝つ」という理屈は、あまりにも彼らの美学からかけ離れていた。
(――待て待て待て、こいつら全員、揃いも揃って死にたがりかよ!)
万福丸の脳内で、時任が呆れ果てたように叫んだ。
(――四千だよな、予想よりは少ないとはいえ、相手はあの『鬼玄蕃』こと佐久間盛政の精鋭軍団だ。飢えているとはいえ、追い詰められた精鋭の軍隊と正面からぶつかれば、こっちも数百人は死ぬ。そんな無駄死にを『武功』とか呼ぶなよ。効率が悪すぎるだろ!)
万福丸は、脳内の時任の絶叫をなだめつつ、冷徹な表情を崩さずに扇子をパチンと閉じた。だが、その扇子を握る小さな手は、時任が語る「スズメバチ」や「腐敗発酵」の悍ましいイメージに、生理的な嫌悪感でガタガタと震えていた。
「……喧しい。わしの前で死に急ぐな」
万福丸の声は、氷のように冷たかった。
「喜三郎、高虎。お主たちの槍は、価値なき雑兵を突くためのものか? 冴衣、貴様の弾丸は、森の土に吸わせるためのものか? ……わしは、一兵たりとも失うつもりはないぞ」
万福丸は、激しい眩暈を堪えながら立ち上がり、地図の一点を指した。
「敵は飢えている。ならば、その飢えを利用する。……佐助。山中の村から民を全て避難させよ。一粒の米、一匹の鶏も残さずにな。だが、一つだけ、『慌てて逃げ出した形跡』を作れ。土間に少量の本物の米を散らし、囲炉裏には火の気を残しておくのだ。……そして、その奥に『餌』を置け」
家臣たちが息を呑む中、万福丸は時任から授かった知識を、呪術的なまでの詳細さで語り始めた。高度な生物学的知識が脳を駆け抜けるたび、万福丸の体内の糖分が猛烈な勢いで消費され、視界がチカチカと明滅する。
「餌とするのは、発酵した糠と魚の端材、それに山菜の根を混ぜたものだ。ただし、これを普通に食わせるのではない。……嫌気性発酵、すなわち空気を遮断して意図的に腐敗に近い発酵をさせたものを用いる。これは極めて強烈な『甘酸っぱい香気』を放つ。極限の飢餓にある盛政の兵たちは、これを保存食の酒粕か、何らかの滋養ある食糧と見間違えて、競うように貪り食うだろう」
万福丸の言葉は、熱を帯びていく。
「だが、その中には下剤となる野草の根、そして嫌気性細菌が産生した毒素が凝縮されている。……食べた直後には何も起こらぬ。だが、彼らが村を出て、次の険しき谷筋に差し掛かる数時間後、その腹の中で地獄が始まる。激しい腹痛と、止まらぬ下痢。精鋭軍団は、その場で糞尿にまみれ、武器を握る力すら失うだろう」
広間が静まり返る。戦の場に「糞尿」という言葉を持ち出した万福丸に、家臣たちは当惑しつつも、その残酷さに背筋を凍らせた。
「動けなくなった獲物には、トドメが必要だ。……佐助。あの『狂い汁』は用意できたか?」
「はっ。森の奥より、オオスズメバチの巣を数十個、生きたまま回収しております」
ハチ、という単語が出た瞬間、万福丸の背中にぶわっと凄まじい鳥肌が立った。脳裏に浮かぶ無数の羽音と蠢く毒針の群れ。吐き気がせり上がるのを、万福丸は奥歯を噛み締めて必死に飲み下した。
「……相わかった。動けなくなった織田軍の頭上から、その『狂い汁』を塗りたくった礫を放り込め。怒りに狂ったハチの群れが、這いずり回る四千の兵を襲う。……刀を抜く必要がどこにある? 彼らは自ら食ったものに裏切られ、森の羽音に蹂躙されるのだ」
万福丸は、不満顔の家臣たちを一人ずつ見渡した。
「……だが、お主たちの出番がないわけではない。ハチの狂宴が終わり、毒が抜けた頃、生き残った佐久間盛政と名のある武将のみを『回収』せよ。お主ら当主が先頭に立ち、縄をかけ、館まで連れてくるのだ」
「残りの雑兵どもはいかがなさいます?」
「捨て置け。恐怖と腹痛を抱えたまま、織田の領地へ逃げ帰らせるのだ。『甲賀の森は地獄だ』と語らせる、生きた証人としてな。我らに、価値なき者に食わせる無駄な飯はない」
「捕縛……でございますか? 盛政ほどの男、殺したほうが後腐れがないのでは」
高虎の問いに、万福丸は不敵な笑みを浮かべた。
「否。無傷で、丁寧に手当てをした上で、信長の元へ条件として突きつけるのだ。……『盛政の命と引き換えに、京極へ嫁がれた叔母上ら一族を、無傷で甲賀へ引き渡せ』とな。……盛政を殺せば織田の報復を招くだけだが、生かして京極の一家と替えれば、この甲賀に京極、六角、そして浅井の血が揃い、大義名分が立つ。……高虎、喜三郎。お主たちの手で叔母上を甲賀へ迎え入れること、これ以上の誉れがあるか?」
その言葉に、家臣たちは震えた。単なる勝利ではない。旧主家への義理を果たし、かつ織田の喉元に強烈な「交換札」を突きつけるという高度な政治的策謀。
「……若様。お見事。ただの首級よりも、京極様を救い出すことこそが真の武功。この高虎、魂が震える思いにござる!」
高虎が深く、深く頭を下げた。喜三郎も、冴衣も、万福丸の描き出した「誇り高き奪還作戦」に、もはや異論を挟む余地はなかった。
(――よし、万福丸、釣れたぞ! 高虎たちは『義理と名誉』に弱いからな。…………史実じゃ『京極マリア』として有名だが、今はまだ洗礼前だ。京極の叔母上と呼ぶほかないな)
「……軍議は終わりだ。佐助、配置に就け。森を、巨大な捕虫網に変えてやれ」
家臣たちが広間を退出した瞬間。
万福丸の膝が、糸が切れたように折れた。
「若様!?」
咄嗟に駆け寄った佐助の腕の中で、万福丸の顔は紙のように真っ白になり、冷や汗が滴り落ちていた。
「……は、腹が、減った……。難しい理屈は……腹に、障る……」
眩暈でぐるぐる回る視界の中、万福丸は震える手で、近くにあった干し柿をむんずと掴み、口に押し込んだ。
(――感服したよ、万福丸。実に見事な立ち振る舞いだった。虫への嫌悪を押し隠し、よくぞ言い切ったものだ)
(……黙れ……今すぐ、わしの前から、羽のあるものの想像を……消し去れ……。おえっ……)
十三歳の体は、天才的な知略の代償として、猛烈な空腹と吐き気に悲鳴を上げていた。だが、その肩には、浅井の再興と甲賀の未来、親族の命が、重く、しかし確かな誇りとともに乗っていた。
【更新報告】
「明日もまた読みたい」と思っていただけましたら、ブックマークと⭐️評価をいただけますと幸いです。
皆様の反応ひとつひとつが、完結まで筆を走らせる最大の原動力となっております。
今後とも、万福丸の覇道を見守っていただければ幸いです。




