第四十四話 先物の実りと、天然の諜報網
天正五年(一五七七年)九月
秋が深めいた甲賀の奥深き館に、堺の豪商・津田宗及が数台の大八車を連れてやってきた。車には、眩いばかりの銀塊が山積みにされている。
「万福丸様、お約束の金、確かにお持ちいたしましたぞ」
宗及は、脂の乗った顔に満面の笑みを浮かべ、万福丸の前に平伏した。
「見事な先見の明にござる。美濃・尾張、伊勢の飢饉により、米の相場は天井知らず。若君の言に乗り、他国で安く買い占めておいた米を高値で売り抜けた結果、約束通り、得た巨利の三割を工作資金としてお持ちいたしました。……いやはや、若君の掌の上で相場が踊る様は、商人の私から見ても恐ろしいほどにござる」
宗及はさらに声を潜め、愉快そうに肩を揺らした。
「納屋の今井宗久め、例年通りの相場を読み違え、高騰の前に手持ちの米を放出してしまい申した。今や信長公への面目を保つため、私が釣り上げた最高値の米を、涙を呑んで買い戻すという無様な醜態を晒しておりますわ。天王寺屋の格、今や納屋を凌ぎ、堺での発言力も盤石。全ては若君の予言通りにござる」
広間に同席していた山中長俊ら甲賀の家臣たちは、目の前に積まれた莫大な富に息を呑んだ。飢えるどころか、他国の飢饉すらも巨万の富へと変えてしまう万福丸の計略に、ただただ平伏するしかない。
だが、宗及はふと声を落とし、周囲の様子を窺うように目を細めた。
「……なれど、若君。堺の商人の情報網に、恐ろしき噂が流れております。織田信長が、軍勢を動かす支度をしていると」
「……矛先は、この甲賀か」
万福丸が扇子を揺らしながら冷徹に問うと、宗及は重々しく頷いた。
「左様にござる。親織田派であった山岡道阿弥らが突如として沈黙し、米の供出を拒んだことで、信長の怒りは頂点に達しております。さらに悪いことに、織田の直轄領は完全に干上がっている。今や織田の兵たちは、飢えと狂気で統制を失いかけております」
宗及の言葉に、藤堂高虎が進み出た。
「……刈田狼藉か。敵の田畑を荒らし、食糧庫であるこの甲賀から食糧を根こそぎ強奪する略奪戦。飢えた獣の群れが、なだれ込んでくるというわけですな」
広間に重い緊張が走る。死に物狂いで食い物を求める数万の兵と正面からぶつかれば、いかに要害の甲賀といえど甚大な被害は免れない。
――「(待て! 待て待て待て! 史実において、織田が本格的に伊賀や甲賀へ侵攻する『第一次天正伊賀の乱』は天正七年、つまり二年後のはずだ! ウンカ作戦のせいで、織田の兵糧と理性が限界を迎え、歴史の歯車が甲賀討伐へと前倒しになってしまった……!)」
(黙れ時任! 今さら何を喚いておるか! 貴様が『兵站を食い破れ』と唆した結果であろうが! わしはどうすればいいんじゃ!)
――「(万福丸、落ち着け! 正面衝突は絶対に避けろ。佐助の忍びの技と、昆虫の生態を掛け合わせれば、織田軍の動きを数里先から完璧に把握できる、巨大な天然の『諜報網』が敷ける! 昆虫たちの警戒行動を利用するんだ。いいか、秋の虫は振動に敏感だ。数千の兵が進軍すれば、その足音で虫は鳴くのをやめ、沈黙する。それを遠くから聞き取るだけで敵の位置は丸裸にできるんだ!)」
時任の必死な助言を脳内で受け止め、万福丸は表面上は一切の動揺を見せず、ただ扇子をパチンと閉じた。その静かな音が、広間に響き渡る。
「……愚かな。飢えに狂った兵を山へ放つなど、自ら死地に踏み入るも同然」
万福丸は、冷ややかに言い放った。
「正面から刀を交える必要などない。甲賀の兵は一兵たりとも失わせぬ。織田の略奪部隊の動きは、この森の生き物たち自身に監視させる」
万福丸の言葉に、三雲佐助が暗がりから音もなく姿を現し、傅いた。
「御意。……して、いかにして森の目を借りましょうか」
「佐助。秋の森には、エンマコオロギやスズムシなど、無数の虫が鳴いておろう。それらは自らの羽を擦り合わせて音を出しておるが、極めて警戒心が強い。地を這う生き物は、足裏から伝わる微細な振動で天敵を察知するのじゃ」
万福丸は時任の知識を己の言葉として紡ぎ、畳を指した。
「数千の兵が甲賀の山を踏み荒らせば、その振動は地を伝い、行軍経路にいる虫たちは一斉に鳴くのをやめ、沈黙する。斥候を近づけて目視で敵を探れば見つかって殺される危険があるが、虫たちの『鳴き声の消失』を遠方から観測すれば、血を流すことなく正確に敵の数、速度、現在地を把握できる」
佐助の目が、ハッと見開かれた。
「……なるほど。森の中に、織田軍の動きに合わせて『巨大な沈黙の塊』が移動していくのを、音で追うというわけですな。主の知識、まさに底知れず。即座に、自然の営みを利用した諜報の網を敷きましょう」
それからの数日。
佐助の指揮の下、鵜飼冴衣を含む甲賀の忍びたちは、武器を研ぐのではなく、森の各所の高い樹上に身を潜めた。彼らの任務は、罠を作ることでも敵を討つことでもない。ただ自然の営みに溶け込み、「虫の音が消える瞬間」に耳を澄ませることだ。
担当する区域の虫の音が消えた忍びは、声を出さず、隣の樹上にいる味方へ鏡の反射光や, 鳥の鳴き声を模した極低周波の笛で合図を送る。
森に元から存在する虫たちの生態をそのまま利用し、点と点であった沈黙が忍びたちの伝達によって繋がる。こうして、甲賀の山々を覆う生きた諜報網が機能し始めた。
九月中旬。館の広間には、甲賀の巨大な地図が広げられていた。
次々と送られてくる忍びたちからの合図を元に、三雲佐助が筆を走らせ、地図上に黒い線を引いていく。
「……主の仰られた通り、森の中に『沈黙の塊』が現れました」
佐助の声は、驚嘆に微かに震えていた。
「虫の音が途絶えた範囲の広さ、そして沈黙が移動する速さ……そこから導き出された敵の規模は、およそ四千。飢えによる焦りか、進軍速度は速いですが、足並みは乱れております。現在地は甲賀の入り口、鈴鹿の山中。……将の名も判明いたしました。織田信長が放った先鋒、佐久間盛政にござる」
地図に描かれる緻密な敵の現在地を見て、山中長俊たちは息を呑み、戦慄した。
敵は我らに見られていることすら気づかず、我らは敵の息遣い、数、歩みまでを完全に把握しているのだ。
「……見事な手際にござる、若君」
長俊が畏怖の念を込めて平伏する。
「これにて敵の動きは完全に丸裸。……直ちに軍議を開き、迎撃の陣立てを決めねばなりませぬな」
万福丸は扇子を静かに開き、地図上の「沈黙の塊」――迫り来る佐久間盛政の軍勢を冷徹に見下ろした。
【時任昆虫教室:其の二十四 ― 静寂を告げる警笛・スズムシ ―】
万福丸、秋の夜長に響くその涼やかな音色を、単なる風流だと聞き流しているなら、お前の命は長くない。この「小さな楽師」たちは、敵の接近を誰よりも早く、正確に告げる、血を流さぬ「天然の諜報員」なのだ。
・警戒の理(沈黙の合図):スズムシをはじめとする秋の虫は、地を這う微細な振動に極めて敏感だ。数千の兵が甲賀の山を踏み荒らせば、その重圧と振動により、奴らは一斉に羽を休め、鳴くのをやめる。森の中に突如として現れる「沈黙の塊」こそが、不可視の敵軍の現在地を示す何よりの証拠だ。
・諜報の理(広域監視網):斥候を放って敵を探れば、見つかって殺される危険がある。だが、森の各所に潜めた忍びに「虫の音が消えた瞬間」を観測させれば、血を流すことなく敵の数、速度、進軍経路を完全に把握できる。自然の営みをそのまま諜報の網として利用する……これこそが、物量で劣る者が大軍を迎え撃つための、最も合理的で冷徹な知略だ。
風流を解さぬ無骨な武者どもが、自ら「沈黙」という名の警笛を鳴らしながら死地へ踏み込んでくる様を、高みの見物といこうじゃないか。お前が耳を澄ますべきは、敵の喚声ではなく、虫たちが残した「静寂」の音だ。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)




