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戦国昆虫戦記【泥中羽化】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第五章 甲賀掌握編 〜広がる支配と迫り来る巨影〜

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閑話其の二 名門の残照と、傀儡の舞

 ――さて、無能の親子、どうしてくれようか。

 薄暗い座敷へ向かう廊下を歩きながら、万福丸は小さく鼻を鳴らした。畳の先には、南近江の名門にして、今やわしの傀儡、六角承禎、そしてその子・義治が待っている。名門、守護、左京大夫――。聞こえは立派だが、実のところは甲賀の山陰に這い蹲り、己が命脈ばかりを気にしている老狐と、その倅に過ぎぬ。


(時任、あの親子……正直、使い道が見えぬ。いっそ切って捨てるか?)


 脳裏に問いかけると、即座に呆れた声が返った。


(おいおい、全く無能ってわけじゃないぞ)


(ほう?)


(織田侵攻の時、観音寺城をあっさり捨てた件だ。あれはなかなか出来ることじゃない。徹底抗戦していたら、まず間違いなく死んでた。名門の意地だとか武士の面子だとかで籠もってたら、信長に首を晒して終わりだ)


 万福丸は口元を吊り上げた。


(ふむ。逃げ足だけは一流ということか)


(違う。“生きて次を狙う”判断ができたってことだ。戦国じゃ、それが一番難しい)


 その言葉に、万福丸は足を止めた。襖の向こう。微かに衣擦れの音がする。怯えておるな。わしが来るだけで。


(ならば使えるか)


(使える。保身に走る奴ほど、利で縛れば強い。承禎は老獪だ。義治は父の威光に縋る小心者。恐怖で縛り、利益を与えれば、勝手に働く)


 万福丸は小さく笑った。


(ならば、よい。犬は噛ませてこそ役に立つ)


 背後に控える二人の気配が動く。


「若様」


 低く声を掛けたのは高虎だった。その目は、いつものように冷たく周囲を測っている。


「六角親子、すでに畏れきっております。話は早いかと」


 対して喜三郎は鼻息荒く拳を握りしめていた。


「若様! あのような邪魔者、もし不遜な態度を見せれば某が即座に――」


「待て、喜三郎。殺してしまえばそれまでだ」


 喜三郎は一瞬きょとんとしたのち、


「……はっ! 若様の深きお考え、しかと!」


 と、なぜか感動したように目を潤ませた。


(いや、ただ使い潰すだけだろ……)


 時任が呆れたように呟く。万福丸はそれを無視して襖へ手をかけた。


「さて――南近江の名門殿に、わしの“次”を働してもらおうではないか」


 襖が、静かに開いた。


 襖が静かに左右へ開くと、そこには微かな線香の匂いと、張り詰めた沈黙が満ちていた。上座に控えるのは、南近江の守護として君臨した六角承禎、そしてその嫡男・義治である。本来であれば、浅井の嫡男に過ぎぬ万福丸が拝謁を請う立場だが、今やこの座敷の主導権がどこにあるかは、親子の強張った肩を見れば一目瞭然であった。


「……左京大夫殿。夜分に失礼いたします。甲賀での生活、何ぞ不便はございませぬか」


 万福丸は、鈴の鳴るような涼やかな声で、静かに一礼した。十三歳の少年ではあるが、非の打ち所がない礼儀作法である。だが、下げた頭の奥で、脳内の時任がくすくすと笑った。


(おい万福丸、演技が板につきすぎだ。見てみろよ、あの親子の顔。解剖台に乗せられたモルモットみたいだぞ)


(……黙っていろ。わしは今、一応の『近江の主』に対して振る舞っておるのだ)


 万福丸は内心で時任を撥ね除け、顔を上げた。その瞳は濁りなく澄んでいるが、射抜かれた承禎は、目に見えて喉を鳴らした。


「……あ、ああ、万福丸殿か。……此度の件、甲賀の諸家を纏め上げられた御手際、見事と言うほか……」


「左京大夫殿。畳の質や、供される食事など、何かお気に召さぬことがあれば、遠慮なくこの万福丸にお申し付けくだされ。名門六角家の方々に、不自由を強いるなどあってはならぬことですから」


 万福丸の言葉はどこまでも優しく、労りに満ちていた。だが、義治の方は、その言葉の裏にある「生殺与奪はわしの手にある」という響きを感じ取ったのか、膝の上で組んだ手が小刻みに震えている。


「い、いえ! 滅相もございませぬ! このような山深い里にて、これほどの手厚きもてなし……。感謝に堪えませぬ!」


 義治が、父より先に食い気味に声を上げた。保身。その一言が、彼の全身から滲み出ている。


(ほらな、言っただろ? 義治は分かりやすい。自分の命と今の生活を守るためなら、彼は自分の誇りを喜んで差し出す奴だ)


 時任の声が、万福丸の脳裏で冷静に分析を続ける。


(承禎はもう少し厄介だ。彼はまだ、自分が『利用価値のある駒』であることを演じようとしている。万福丸、ここは少し『餌』を投げてやれ。名門の誇りをくすぐるようなやつをな)


 万福丸は薄く微笑み、承禎を見据えた。


「左京大夫殿。お二人にはすでに甲賀の諸家を束ねる旗頭として御尽力いただいておりますが、わしは、お二人にさらなる大役を担っていただきたいと考えております」


「……大役、とな?」


 承禎の目が、僅かに鋭くなった。老狐の野心が、保身の殻を突き破って顔を出す。


「左様。現在、織田の勢いは凄まじい。なれど、尾張の成り上がりに近江の理が分かるはずもなし。古き良き秩序を知るお二人こそが、今一度、近江全域の諸将を糾合する『真の盟主』として立つべきかと。……いかがでしょう。浅井の『傘下』としてではなく、共に近江を奪還する『共闘の柱』として、改めてお力添えをいただけませぬか?」


 『盟主』という甘美な響きが、承禎の耳を打った。万福丸に頭を下げる屈辱を、表向きの「対等な共闘」という名分で覆い隠してやろうという提案だ。しかし、万福丸の背後に控える二人の存在が、その甘い誘惑を凍りつかせた。


 藤堂高虎は、一言も発さず、ただ彫像のように佇んでいる。だが、その冷徹な眼光は、六角親子の頸動脈の拍動すら数えているかのようだった。一方の喜三郎は、万福丸の「盟主」という言葉を聞いた瞬間、顔を真っ赤にして憤慨した。


「……っ、若様! このような逃げ腰の御仁を盟主などと! 某の腹が煮えくり返りますぞ! 浅井の、いや若様の覇道こそが――」


「喜三郎、控えよ」


 万福丸の静かな、だが逃げ場のない一言が座敷を打った。喜三郎は一瞬で言葉を飲み込み、震えながら平伏した。


「……は、はっ! 過ぎた物言い、平に、平にご容赦を……!」


 この光景こそが、六角親子にとって最大の恐怖であった。あの猛将をたった一言で完全に服従させる十歳の少年。その異常なまでの統率力と冷徹さ。


(いい演出だぞ、喜三郎のやつ。天然 of 脅し役だな)


 時任が楽しげに囃し立てる。


「……さて、承禎殿。お返事をお聞かせ願えますか?」


 万福丸は、脳内での時任の声を意識の端に追いやり、再び慈愛に満ちた笑みを承禎に向けた。


「も、もちろんにございます! この承禎、万福丸殿……いや、浅井家との共闘のため、この命、粉骨砕身し……!」


「おや、左京大夫殿。わしは『盟主』になってくれと申したのです。浅井のためではなく、六角家の再興のために動いていただければ、それで良いのです。……その先に、わしの望む結果があれば」


 万福丸は、スッと扇子を畳に置いた。それは、交渉の終了を告げる合図であり、同時に「拒否権はない」という断罪の宣告でもあった。


「義治殿も、よろしいな? お主には、甲賀の諸家を繋ぐ『要』として、さらなる立ち回りを期待しておりますぞ。お主のその、機を見る速さ……わしは高く評価しております」


「は、ははっ! ありがたき幸せにございます! 何なりとお申し付けを!」


 義治は、今や万福丸に尻尾を振る飼い犬のような顔をしていた。彼にとって、万福丸の言葉は死罪の宣告を免れた恩赦のように聞こえたのだ。


(決まりだな。保身のために動く人間は、裏切るリスクも計算しやすい。彼らが『織田につくより万福丸に従う方が生存確率が高い』と思っている限り、これほど忠実な駒はいない)


(ふん。名門の誇りとやらも、飢えと死の前ではこれほど脆いものか。……高虎、喜三郎。行くぞ)


 万福丸は立ち上がり、最後まで非の打ち所のない礼をして、座敷を後にした。廊下へ出た瞬間、背後で親子の長い、長い溜息が漏れるのが聞こえた。それは、死神が去った後の安堵の息であった。


 高虎が隣に並び、低く囁く。


「若様。……見事な手綱さばきにございました。あの親子、もはや若様の影すら踏むことはできませぬな」


「若様! 某、若様の深き慈悲に、またしても涙が……! あの卑怯者にすら機会を与えられるとは……ぐすっ」


 喜三郎が鼻を啜りながら、いつものように感動の渦に飲み込まれている。


(……やれやれ。喜三郎の脳内もお花畑だが、万福丸、お前の『腹黒主君』っぷりも相当なもんだ。帝国大学の政治学講義でも、これほど鮮やかな傀儡工作は見られないぞ)


(……黙れ。わしはただ、近江を掃除しているだけだ)


 万福丸の静かな独り言が、甲賀の夜風に溶けていった。


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