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戦国昆虫戦記【泥中羽化】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第五章 甲賀掌握編 〜広がる支配と迫り来る巨影〜

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第四十三話 見透かす眼光と、甲賀の完成

 美濃部茂濃が、親織田派の筆頭とも言える怪僧・山岡景友(道阿弥)の館を訪れたのは、甲賀五十三家の決議が行われた翌日のことだった。


 山岡の元には、多羅尾光俊、伴長信という親織田派の重鎮たちも顔を揃えていた。彼らの表情は一様に暗い。織田の直轄領を襲った原因不明の大飢饉により、信長から「兵糧を根こそぎ差し出せ」という苛烈な要求が届いていたからだ。


「……して、美濃部殿。我らへの『使者』として来たと申すか」

 山岡景友は、探るような目で美濃部を見た。かつて共に織田への内応を進めていたはずの男が、今や見る影もなく痩せこけ、何かに怯えるように背を丸めている。


「道阿弥殿……もはや、抗うのは無駄にござる。直ちに甲賀に臣従なされよ。」

 美濃部の声は、乾いて震えていた。

「信長公に従い続ければ、道阿弥殿たちの領民は秋を待たずに餓死する。だが、甲賀に従えば生き残れる。……いや、問題はそこではないのだ。「あの御方」に逆らえば、常識の及ばぬところから、領地が、一晩で『食い尽くされる』」


「あの御方というのは六角殿の事か、そのような虚仮威し(こけおどし)には乗らんぞ。織田の軍勢は強大、一時の飢えで揺らぐような信長公ではありませぬ」  

 実利主義の多羅尾が鼻で笑うが、美濃部は虚ろな目で首を振った。

「……虚仮威しではない……! 現に織田の領地は枯れたではないか! 甲賀には、見えぬ数百万の軍勢が蠢いておるのだ……! どうか、どうか自らの目で、甲賀の奥深き館の現状……いや、異常な豊かさを確かめてくだされ!」


 美濃部のあまりに真に迫った恐怖に、山岡たちは言葉を失った。

 甲賀の現状を知るためにも、一度、甲賀に行かねばなるまい。山岡は多羅尾、伴と共に、甲賀の油日にある奥深き館へと向かうことを決意した。


 数日後、館へ足を踏み入れた山岡たちは、己の目を疑った。

 絶望的な飢餓とは無縁の世界だった。兵たちは皆、頬に血の気が満ちており、あちこちから獣肉を焼く匂いや、得体の知れない芳醇な発酵臭が漂ってくる。さらには、かつて織田の斥候を全滅させた「見えない毒針」の罠が、山全体を要塞のように覆い尽くしている気配があった。


 広間に入ると、正面の最も高い一段(上座)には、六角義賢・義治親子が、置物のように力なく座していた。

 だが、異様なのはそのすぐ下段、家臣や宿老たちが並ぶべき位置の「真ん中」に、堂々と座る少年――の存在であった。

 その背後には藤堂高虎、遠藤喜三郎が直臣として控え、左右の列には山中長俊や望月吉棟ら甲賀五十三家の宿老たちが、主君であるはずの六角親子ではなく、明らかにこの少年の顔色を窺うように居並んでいる。

「……っ」

 山岡景友は、その異様な光景に息を呑んだ。

(六角親子は上座にありながら、まるで生気がぬけておる。逆に、あの一段下に座る少年……あれが、美濃部が怯えていた「あの御方」ということなのか!宿老たちが、あのような少年を『芯』にして動いているというのか……?)

 山岡たちは、その一人の少年が、甲賀という巨大な毒蜂の巣を統べる、真の実権者であるという事実を、その座次だけで突きつけられたのである。


「山岡道阿弥にござる」

 山岡景友が、あくまで対等な外交僧としての笑みを浮かべて平伏した。

「此度の飢饉、まことに痛ましいこと。我らも織田と甲賀の板挟みで苦慮しており――」


 山岡が巧妙な弁舌で主導権を握ろうとした、まさにその時だった。


 ササササササッ……!


 万福丸の頭上の天井から、山岡たちの座る畳の真ん中へ、「何か」が滑り落ちてきた。

 体長は数寸。だが、異常なまでに長い十五対の足を持ち、波打つような不気味な動きで畳を這い回る虫――蚰蜒ゲジである。


(……ひっ!?)

 万福丸の心臓が、恐怖で文字通り跳ね上がった。全身の血が瞬時に凍りつき、呼吸すら忘れる。


――「(おおお! 立派なゲジじゃないか! 十五対の歩脚を持つ、屋内害虫の最強の捕食者だ! 見た目は極めてグロテスクだが、人間には全くの無害。ゴキブリや南京虫を根絶やしにして自らも去っていく、最高に清潔で働き者の益虫だぞ! 絶対に殺すなよ万福丸!)」


(黙れ! 黙れ時任! あんな禍々しい脚の塊が無害なわけがあるか! 早く消せ! わしは今すぐ、あの冒涜的な生き物をこの世から消し去りたいんじゃ!!)

 万福丸は、脳内の時任への怒りと、眼前のゲジへの生理的嫌悪が極限まで達し、顔面を夜叉のごとく引きつらせて、わなわなと震え始めた。


 その異様な姿を、山岡景友は「自分たちの言い訳に対する激しい怒気」だと錯覚した。

(な、なんだこの尋常ならざる殺気は……! 私の言葉を遮り、一言も発さずにこれほどの怒りを顕にするというのか……!)


 万福丸は、恐怖のあまり声の焦点が合わないまま、震える扇子をピタリと山岡の膝元(実際はそこを這い回るゲジ)に向け、佐助に対して搾り出すように叫んだ。


「……佐助。あの者の足元で這い回る、その薄汚れた者を……今すぐ断ち切れ」


 万福丸の言葉に、山岡の顔からスッと血の気が引いた。万福丸はさらに山岡を睨みつけ(実際はゲジを凝視したまま)、震える声で理不尽な八つ当たりを放つ。


「道阿弥……あの忌まわしい『這いずり回る者』を、外からわしの館へ持ち込んだというのなら、お主らごと、跡形もなく泥に沈めるぞ……!!」


 それは単なる「(お前らが連れてきた)虫を退治しろ」という悲鳴であった。

 だが、内応工作の主導者である山岡には、全く別の意味に聞こえた。

(『足元で這い回る薄汚れた者』……! まさか、私が甲賀へ放っている間者のことか!? この少年、私が腹の底でまだ織田と通じようとしていることを完全に看破し、佐助に始末を命じたというのか!)


 山岡が恐怖で硬直したその時、三雲佐助が一歩前へ進み出た。

「主の眼は、全てを見透かしておられます」

 佐助の冷徹な声が、広間に響く。

「道阿弥殿が信長公へ送った書状の数。多羅尾殿が隠し持っている兵糧の目録。伴殿が放った草の者の名……。我らの前に、隠し立てできることなどありませぬ。……明日、お主らの田に『泥の羽音』を放ちましょうか?」


 佐助の言葉は刃よりも鋭く、親織田派の三名の心を完全にへし折った。圧倒的な情報網と、逆らえば領地が枯れるという生物兵器の恐怖。


 藤堂高虎が、冷ややかな視線で山岡たちを見下ろし、深く頷く。

「……流石は若様。薄汚い間者の存在を言葉少なに突きつけ、敵対する意志を瞬時に断ち切るその知略。生温い言葉など不要、ただ圧倒的な力と情報網のみで甲賀を完全に掌握するというお覚悟……見事」


 一方、遠藤喜三郎は、恐怖で脂汗を流す万福丸を見て、またしても膝から崩れ落ちていた。

「おおお万福丸様ぁっ!! かつて甲賀を共に治めた同胞に、自ら間者を処分する機会を与えられるとは! その身を震わせて非情を堪えておられる! なんという海より深き慈悲……お労しやぁぁ!!」


 広間に、喜三郎の号泣と、佐助の冷ややかな宣告だけが響き渡る。

 冴衣だけが、暗がりで腹を抱え、声を出さずに笑い転げていた。

(あっはははは! 傑作だ! ただのゲジゲジ一匹で、織田の狸どもが完全に縮み上がってやがる!)


 山岡景友は、万福丸の「全く感情の読めない狂気の瞳(実際はゲジを見て硬直しているだけ)」に完全に心を折られた。この少年は、人間の感情を超越している。


「お、お待ちくだされ! 降伏いたします! 我ら三名、間者は全て処分し、浅井の若君に絶対の忠誠を誓いましょう!!」

 実利主義の多羅尾がいち早く平伏し、それに釣られるように山岡と伴も額を畳に擦り付けた。


 万福丸は、彼らがなぜ急に土下座をしたのか全く理解できていなかったが、ゲジが畳の隙間へ逃げていったことで、ようやく呼吸を取り戻した。


「……う、うむ。わかればよい」

 声の震えをごまかしながら扇子を閉じると、山岡たちは「命を拾った」とばかりに深く安堵の息を吐いた。


 天正五年(一五七七年)八月。

 一匹の蚰蜒ゲジと、壮絶な勘違いの連鎖により、甲賀五十三家は完全に万福丸の足元に平伏した。織田信長の足元を崩す「甲賀統一」が、ここに完了したのである。


【更新報告】

本日もご一読ありがとうございます。

万福丸の物語は、ここからさらに加速してまいります。


「明日もまた読みたい」と思っていただけましたら、ブックマークと⭐️評価をいただけますと幸いです。

皆様の反応ひとつひとつが、完結まで筆を走らせる最大の原動力となっております。

今後とも、万福丸の覇道を見守っていただければ幸いです。



【時任昆虫教室:其の二十三 ― 闇を駆ける十五対の疾風・ゲジ ―】


万福丸、お前の足元を這い回るその「冒涜的な脚の塊」を見て震え上がるがいい。だが、見た目の忌々しさに惑わされて本質を見失うな。こいつはお前の館を、そしてお前の陣営を影から支える、最高に忠実な「掃除屋」だ。


・殲滅の理(迅速なる捕食者):ゲジは見た目こそおぞましいが、十五対の長い脚は伊達ではない。その機動力は虫界でも随一。ゴキブリや南京虫といった、不快と病を運ぶ者たちを音もなく追いつめ、その鋭い顎で次々と血祭りにあげる。お前の寝所を密かに守る、音なき守護者だと思え。

・無害の理(益獣の矜持):お前にとっては恐怖の象徴だろうが、こいつは人間に危害を加えることはない。役目を終えれば、自ら静かに姿を消す。お前が「汚らわしい」と忌み嫌う泥や闇の中にこそ、実は最も清潔で、最も役に立つ知恵が隠されているのだ。

見た目の恐怖を制御し、その裏にある「理」を理解しろ。お前がこの「這いずり回る者」さえも使いこなす度量を持ったとき、敵はお前の底知れぬ眼光に、見たこともない恐怖を抱くことになるだろう。


(昭和初期の昆虫研究家・時任)


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