第四十ニ話 飢餓の旋風
天正五年(一五七七年)八月
本来ならば、近江の山々も、そして美濃、尾張、伊勢の広大な平野も、黄金色の稲穂が波打つ歓喜の季節であるはずだった。
だが、甲賀の工房に飛び込んできた六助の報告は、それとは程遠い現実を無邪気な笑顔で告げるものであった。
「おいらだよ! 万福丸様! 見てきたよ、美濃も尾張も、伊勢もすっごいことになってる!」
六助は泥だらけの顔を輝かせ、万福丸の膝元へ駆け寄った。その手には、茶色く枯れ果て、何やら黒い粒のようなものがびっしりと付着した稲穂の束が握られている。
「……ぬ? 報告せよ、六助。だが、近寄らずにな。その稲を……こちらへ向けるな」
万福丸は扇子で顔の半分を隠し、悲鳴を上げそうになる喉を必死に押さえ込んだ。衣服から漂う饐えた腐敗臭、そして視界の端でカサカサと蠢く「何か」の気配。全身の毛穴が粟立ち、背筋を氷のような悪寒が駆け抜ける。
「うん! 田んぼの真ん中に、茶色い穴がぼこぼこ空いててさ、稲がドロドロに腐って倒れてるんだ。農民たちが『比叡山を焼いた魔王への仏罰だ!』って泣きながら拝んでたよ! はいこれ、一番虫がびっしりついてた稲のお土産!」
――「(素晴らしい。長翅型ウンカの吸汁による完璧な『坪枯れ』だ。これほどの広範囲に大名欠を引き起こすとは。信長の足元は干上がっているぞ。万福丸、お前の嫌うこの小さな羽虫が、魔王の兵站を食い破ったのだ!)」
(黙れ時任……! わかっておる、わかっているからその理屈をわしの脳内で反芻するな!)
万福丸は視界の端で蠢く稲穂から目を逸らしたかったが、主君としての威厳を保つため、瞬き一つできずにその「おぞましい物体」を凝視して硬直してしまった。
その光景を見た藤堂高虎は、戦慄とともに深く頭を垂れた。
「……流石にございます。敵領を飢餓の地獄に変え、その成果たる忌まわしき枯れ稲を前にしても、決して目を逸らさぬそのお覚悟。この凄惨な結果すら、若様の描く大計の通過点に過ぎぬという証か」
一方、遠藤喜三郎は、枯れた稲穂を凝視し続ける万福丸を見て、膝から崩れ落ちて号泣した。
「おおお万福丸様ぁっ!! なんとお優しい……! 魔王を討つためとはいえ、敵の民が飢える痛みを、その目で直視して分かち合おうとされておられるのですね! 泥を被り、非情を演じきるそのお姿……お労しやぁぁ!!」
万福丸は「違う、ただ固まっているだけじゃ!」と叫びたい衝動を、奥歯を噛み締めて辛うじて封じ込めた。
そこへ、呆れたような冴衣の笑い声が響く。
「あっはははは! 無理すんなよ万福丸、顔が完全に引きつってんぜ? なんならあたしが、その稲についた美味そうな虫を炙ってやろうか?」
「だ、黙れ冴衣! 貴様、いい加減にせぬか! ……佐助! その稲を、一刻も早くこの場から遠ざけよ!!」
「御意!! 主が体現されたこの霊虫、大切に保管・研究いたしましょう!」
三雲佐助が万福丸の悲鳴を「高度な研究指示」と解釈し、恭しく稲穂を受け取って去っていく。万福丸は深い絶望とともに、重い息を吐き出した。
数日後。甲賀五十三家の重鎮たちが、合議の場に集結していた。
上座には、甲賀の旗頭として担ぎ上げられた六角承禎・義治親子の姿がある。だが、もはや彼らが「ただの飾り」であることは、誰の目にも明らかだった。
会議の場を支配しているのは、六角親子ではない。下座の中央にどっかと座る、十三歳の童――浅井万福丸の放つ、圧倒的な存在感である。
山中長俊や望月吉棟ら当主たちは、万福丸へ畏怖の念を隠そうともしなかった。時任の知識――徹底した資源の循環と最新の農業技術の導入により、周囲の国々が飢えに苦しむ中、甲賀の田はかつてない黄金の波を湛え、蔵には食糧と富が溢れかえっている。もはや甲賀に飢えなど存在しなかった。
そしてその末席には、美濃部茂濃が控えていた。かつては万福丸に刃向かおうとした男だが、今は違う。万福丸がもたらした富と底知れぬ知識の恐ろしさを誰よりも理解した彼は、心底から過去の反抗を悔い、絶対の忠誠を誓っていた。
「……さて」
万福丸が扇子を広げると、場は水を打ったように静まり返った。六角義賢でさえ、ビクリと肩を震わせて万福丸の言葉を待っている。
「美濃・尾張、そして伊勢の惨状は、皆も知っての通りじゃ。織田の蔵は空になり、今年の年貢は絶望的。……ならば、信長はどう動く?」
静寂の中、高虎が進み出て、冷徹な声で応じた。
「信長は、飢饉を理由に兵を引く男ではありませぬ。直轄領が枯れたのならば、無傷の従属国から根こそぎ兵糧を奪うはず。すなわち……織田に恭順している、多羅尾光俊、伴長信、そして織田への内応工作を主導する怪僧・山岡景友らの領地から」
万福丸は満足げに頷いた。
「左様。信長に従い続ければ、多羅尾や伴、山岡の領民たちは、織田の兵を食わせるために、自らが丹精した米を奪われ、餓死することになる。……馬鹿な話じゃ」
万福丸は、周囲の当主たち、そして上座の六角親子を見据えた。
「これより、親織田派の三名へ使いを出す。選択肢は二つ。信長に米を奪われ、干からびて死ぬか。それとも……このわしに臣従し、甲賀の豊かな米を食って生き延びるか、だな」
飢えという「鞭」と、甲賀の豊かさという「飴」。
非情にして合理的な差配に山中や望月ら宿老たちは息を呑んだ。もはや合議など必要ない。甲賀五十三家という古い連帯は、万福丸という異能の王の前に、ひとつの強固な意思へと統一されつつあった。
「御屋形様」
万福丸が形ばかりの敬意を込めて六角承禎を振り返る。
「この決議、ご異議はありませぬな?」
「あ、ああ……無論だ。万福丸の、いや、浅井殿の申す通りに……」
かつて近江を支配した名門の当主は、己がただの傀儡であることを痛感し、力なく頷くことしかできなかった。
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