第四十一話 禁忌の実験
天正五年(一五七七年)五月
石山本願寺から帰還した三雲佐助の報告は、秘密工房の重苦しい空気をさらに凍り付かせた。
「……織田の陣屋は、まさに地獄にございました。投げ込まれた『泥の筒』から溢れ出した羽音に、兵たちは正気を失い、自らの肌を血が出るまで掻きむしり……。さらには時任様の予言通り、高熱にうなされ、物狂いとなって敗走する者が続出。一軍が戦わずして自壊いたしました」
万福丸は、込み上げる吐き気をこらえ、引きつった顔で短く応じた。
「……そうか。実験は、成功じゃな」
――「(当然の帰結だ。衛生環境の劣悪な陣営に、吸血性と病原を宿した個体を投げ込めば、それは軍事的な毒ガスに等しい。万福丸、これで泥の筒の有効性は証明された。次は、この新兵器を支える『力』を練り上げねばならない)」
万福丸は時任の冷徹な言葉を振り切るように、泥まみれの訓練場へと視察に赴いた。
そこでは、藤堂高虎と遠藤喜三郎が、新兵たちの猛訓練に立ち会っていた。
万福丸は、足元の泥から這い出てくる小さな虫に怯え、視線をあちこちに泳がせながら、脂汗を流して震えていた。一箇所に留まることができず、鋭い目付きで周囲を警戒し続けるその姿を見て、高虎が独り言ちる。
「……流石は若様。一瞬たりとも隙を見せず、地形の僅かな揺らぎや、伏兵が潜むべき死角を鋭く凝視しておられる。あの冷徹な眼光……。我らも一刻の油断も許されぬな」
高虎は万福丸の「怯え」を「精密な検分」と読み取り、兵たちにさらなる負荷を命じた。
一方、その傍らで遠藤喜三郎は、膝から崩れ落ちて号泣していた。
「おおお……なんとお労しや! 若様は、虫の羽音に耳を塞ぎたくなるほどの恐怖を抱えながら、民に代わってその『業』を一人で背負おうとしておられる……! あの震えは、民を想う慈悲の震えに相違ない……! お優しい、なんとお優しいお姿かぁぁ!!」
喜三郎は泥を拳で叩きながら、万福丸の「自己犠牲」に咽び泣き、兵たちに虫由来の滋養食を配り歩いた。
そんな狂騒から離れた水辺では、冴衣率いる鵜飼の一族が、不気味な訓練を繰り返していた。
彼らは水底から音もなく現れ、火縄銃を放つ。時任の知恵により、「泥の器」の破片を火皿の覆いに転用し、水しぶきの中でも点火を維持する工夫が施されていた。
「あっはは! 万福丸、こんなところで震えてたら、的にされちまうぜ?」
冴衣が、泥だらけの指を突き出して万福丸を煽る。
「……冴衣、貴様……呼び捨てにするなと言っておろうが! その指を近づけるな!」
「無理すんなって。あんたが放った『泥の羽音』が織田を食い荒らしている間に、あたしたちがこっちの『力』を仕上げてやるよ。あんたの震えが止まる頃にはな」
周囲が勝手に心酔し、甲賀の軍備は時任の知識を吸収して急速に膨れ上がっていく。
万福丸は「早くこの虫だらけの山から逃げ出したい」という絶望的な本音を飲み込み、反比例するように研ぎ澄まされる織田への敵意だけを、その瞳に宿していた。
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