第四十話 泥の羽音(どろのはおと)
天正五年(一五七七年)四月
甲賀の山々は、目に痛いほどの新緑に覆われていた。湿り気を帯びた熱気が谷底に澱み、藪からは絶え間なく虫の羽音が聞こえてくる。
隠れ里の工房からも、虫たちの活動の音が聞こえるが、それは生命の輝きではなく、数百万の羽音による「死の予奏」であった。
「……ひっ、うあぁぁ……! 寄るな、わしに寄るなと言っておろうが!」
万福丸は工房の中央で、泣きべそをかきながら扇子を振り回していた。
視界を埋め尽くすのは、不気味なほどに長い翅を持つウンカの群れだ。それらは本来の倍以上の飛翔能力を持つよう、時任の知識で「長翅型」のみを選別し、強制的に交配を繰り返させた精鋭軍であった。さらに、稲を枯らす病原を宿した「保毒個体」のみを純化させている。
――「(万福丸、よく見ろ。この翅の長さこそが、遠方の織田領まで災厄を運ぶ翼だ。一度放てば、美濃、尾張、伊勢の田園はまたたく間に死の野へと変わる。これこそが、『空飛ぶ災厄を招く者』なのだよ)」
「黙れ、時任……! 理屈は、理屈はわかっておる! だが、この……この、不自然に長い羽を震わせる音が、耳の奥まで入り込んでくるのじゃ! おえっ……」
万福丸は全身に鳥肌を立て、嘔吐感をこらえて後ずさる。
この精鋭たちは、湿度を保ち断熱に優れた「泥の器」に詰められ、解き放たれる時を待っていた。
――「(この泥の壁が天然の加湿器となり、気化熱で内部を涼しく保つのだ。これならば、移動中に虫が蒸れ死ぬこともない。……どうだね、この不気味な兵器の名は)」
「……『泥の羽音』じゃ。泥底から生まれ、織田を枯らす羽音の軍勢……。これこそ相応しかろう」
万福丸が引きつった顔で命名したその時、傍らで腕を組んでいた冴衣が、堪えきれないといった様子で吹き出した。
「あっはははは! 泥の羽音ねぇ! 名付けだけは随分と威勢がいいじゃない。で? 結局その泥、自分じゃ触れもしないんだろ? 無理すんなよ万福丸、膝が笑ってるぜ」
「だ、黙れ! 冴衣、気安く呼ぶなと言っておろうが! 近寄るな、それ以上こちらに来れば手打ちに……やめろ、その籠をこっちに向けるなぁぁ!!」
万福丸は涙目で扇子を振り回し、必死に後ずさる。その無様な怯えようを、冴衣は心底おかしそうに眺めていた。
「……ふん。冴衣、戯言はそれまでだ」
万福丸は無理やり咳払いをし、主君としての仮面を剥がれそうになりながらも声を絞り出した。
「お主が率いる鵜飼の一族に命ずる。この『泥の羽音』を携え、美濃、尾張、そして伊勢の穀倉地帯へ潜り込め。最も稲の育ちが良い場所を見極め、これを開け放つのじゃ。……佐助。お主は石山の本願寺へ行け」
万福丸の手元には、石山本願寺へ送るための「泥の筒」が並んでいる。
「これを本願寺へ届けよ。あの『昆虫醤』を教えた知恵者からの、新たなる献上品だとな。使い方は教えた通り、織田の陣屋や兵の密集地に投げ込ませろ。……ただし、出所は決して明かすな。もし、この筒の正体が露見した時は……この災厄は、本願寺の門徒たちにも向けられる。そう、釘を刺しておけ」
「御意。……して、その『成果』については」
「お主がその目で見届けよ。敵が、虫ごときにいかに無様に食い荒らされるか……実戦での実験だ。その阿鼻叫喚、一分も漏らさずわしに報告せよ」
万福丸は、蠢く長翅の群れを見つめた。
時任の脳内解説が、冷徹に響く。
――「(お前の忍びがいれば、災厄は直接届けられる。四月の風に乗って、人智を超えた選別種が、信長の天下布武を根底から脅かすのだ)」
万福丸は、ついに耐えきれず工房を飛び出した。
「……時任め」
喉の奥で吐き捨て、震える手で傍らの若木の幹を掴む。
初夏の風は確かに爽快であったが、万福丸が吸い込んだ空気には、砕かれた翅と、逃れられぬ昆虫学の、不潔な粉塵の味が混じっていた。
【時任昆虫教室:其の二十二 ― 稲の死神、吸汁の災厄・ウンカ ―】
万福丸、お前の眼前に広がる黄金の稲穂が、一夜にして茶褐色の骸に変わる様を見たいか? ならばこの「小さな死神」を解き放て。
・略奪の理(吸汁の災厄):こいつらは稲の茎に針を刺し、その生命線である汁液を根こそぎ吸い尽くす。数百万、数千万の群れが一度に取り付けば、瑞々しい稲は立ち枯れ、広大な田が「坪枯れ」と呼ばれる死の斑点に覆われる。昭和の農村でも、防除を誤れば一村が飢えるほどの恐怖の象徴だった。
・軍略の理:火や剣による破壊は目立つが、この吸汁の災厄は静かに、かつ確実に敵の「胃袋」を破壊する。米なき軍勢は戦う前に瓦解する。お前の知恵は、一振りの刀よりも速く、敵陣を死の荒野へと変える「不可視の毒」とならねばならぬ。
稲を慈しむのも「理」だが、稲を殺すのもまた「理」だ。この死神を御し、敵の命脈を断て。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)
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