第三十七話 泥の筒
天正四年(一五七六年)九月
秋風が近江の山々を吹き抜け、黄金色の稲穂が頭を垂れる季節となった。
甲賀の里は、「甲賀の緋色」と「甲賀の光沢」がもたらす富によって、かつてない活気に沸いている。美濃部の物流網を通じて流れ込む銭は、着実に万福丸の懐を潤していた。だが、屋屋敷の庭に並んだ五十丁の鉄砲を前に、万福丸の表情は晴れない。
「……一丁につき、目の飛び出るような銭が消えていく。弾薬、鉛、火縄の消耗まで考えれば、千挺を揃えて維持するなど、今の稼ぎをすべて注ぎ込んでも足りぬ。信長という男は、これに万単位の銭を投じておるのか。化け物め」
万福丸は、鉄砲という兵器の圧倒的な「不経済さ」に舌打ちした。堺から買い付けた最新の鉄砲は強力だが、甲賀の全財産を投じても、織田の物量に正面から対抗するにはまだ数桁の開きがある。
――「(賢明な判断だ、万福丸。正面から札束で殴り合うのは、資本力に勝る者の戦法だ。君のような持たざる者が選ぶべきは、高価な鉄(筒)から鉛を撃ち出すことではない。安価な泥(筒)から、増殖する『死』を放つことだ)」
「増殖する死、だと?」
――「(そうだ。俺が提案するのは、敵の戦意を根底から破壊し、肉体を蝕む『生物戦』の導入だ。目標は、大量の吸血虫……ウシアブやマダニ、そして悪臭を放つカメムシやムカデなどの不快害虫だ。これらを特殊な環境で飢えさせ、狂暴化させて培養する。竹筒に泥と共に詰め込み、敵陣へ投擲、あるいは獣道へ伏せるのだ)」
その瞬間、万福丸の脳裏に「寄生生物による病原体の媒介」「特定タンパク質への過剰な拒絶反応」「生物群集における恐慌の伝播」という、時任が究極まで突き詰めた生化学と生態学の残酷な知識が、濁流となって流れ込んだ。
(ぐ、ぅ……! 腹が……またしても空っぽじゃ……!)
数えで十二歳の肉体が、非道徳的かつ緻密な生物学理論の処理に悲鳴を上げる。急激なカロリー消費により万福丸の視界が赤黒く明滅し、胃の腑が内側から握り潰されるような暴力的な飢餓感が彼を襲った。
「……六助! 握り飯じゃ! 急げ、わしの胃袋が……敵を喰らう前に、わし自身を喰い破ろうとしておる!」
「わ、わかったよ、万福丸様! 顔真っ青だよ、今すぐ持ってくる!」
六助が弾かれたように炊事場へ走る。万福丸は膝をつき、脂汗を滴らせながらも、胃を押さえながら凄絶な笑みを浮かべていた。
「ははっ……くふっ! 上等じゃ。鉄や鉛に頼らずとも、この山の泥と虫けらどもが、織田の血をすする安上がりな兵器となる。この苦しみこそ、勝利を安く買い叩くための代償よ!」
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数日後、甲賀の山深くにある、日光の届かない湿った洞窟。
そこには、耳を塞ぎたくなるような、不気味な羽音と蠢く音が充満していた。洞窟の奥には獣の血を溜めた桶や、腐敗しかけた肉の塊が吊るされており、そこに無数の吸血虫が黒い塊となって群がっている。
「……万福丸。あんた、正気かい。忍びのあたしらでも、流石に吐き気がするよ」
鼻口を布で覆った冴衣が、ひきつった声で言った。鵜飼一族の者たちも、この「実験場」の異様さに顔面を蒼白にしている。
「正気だからこそやっておるのじゃ、冴衣。見よ、あの飢えたアブやダニどもを」
万福丸は布越しにくぐもった声で、虫の群れを指差した。
「奴らは鉛玉と違って、自ら標的を探し出し、鎧の隙間に入り込んで肉を噛みちぎる。吸血による激痛は馬を狂わせ、陣形を内部から崩壊させる。さらに、ムカデやカメムシを野営地に放てば、兵たちは悪臭と不快感で一睡もできなくなる。刃を交える前に、敵の心根を腐らせるのじゃ」
――「(その通りだ。さらにマダニは重篤な熱病を媒介し、蜂やアブによる繰り返しの刺咬は、時に兵の呼吸を止め、絶命に至らしめる。鉄砲一丁を買い足す銭で、何万という『生きた弾丸』を無限に増殖できる。これこそが、資本の格差を覆すための冷徹な最適解だ)」
時任の解説を背景に、万福丸は竹筒に泥と虫を詰め込む作業を兵たちに命じた。それは「泥の筒」と呼ぶにふさわしい、おぞましき兵器の雛形であった。
「若様……。これは、あまりにも武勇の道から外れた、外道の戦法にございます。いくらなんでも、かような戦い方は……」
遠藤喜三郎が、珍しく躊躇いを口にした。正面からの武勲を重んじる彼にとって、虫をけしかけて病や狂乱を誘う戦法は、卑怯なものに映ったのだ。
万福丸は感情の失せた瞳で、喜三郎を見据えた。
「武勇だと? 喜三郎。ならば問うが、織田が数万の兵でこの甲賀を蹂躙するのは『道』に適っておるのか? 大軍で小勢を圧殺するのは正義で、小勢が泥を啜って生き抜くのは外道か?」
「そ、それは……」
「わしは浅井を再興し、お前たちを生き延びさせるためならば、喜んで外道に堕ちよう。銭のない我らが山を守るには、誇りや道徳などという高価な飾りは後回しじゃ。安上がりな防衛で織田の血をすする。……これこそが、わしの正義じゃ」
万福丸の迷いのない断言に、喜三郎は言葉を失い、やがて深く平伏した。その冷徹な正論の前に、彼はもはや反論する術を持たなかった。
藤堂高虎は、そのやり取りを暗がりで静かに聞いていた。
(……恐ろしい。武士としての誇りすらも『高価な飾り』と切り捨て、最も安価で、最も残虐な最適解を平然と選び取る。倫理のタガなど、あの御方には初めから存在しないのだ。だが、それゆえに……この泥沼の戦場において、万福丸様ほど頼もしい主君はおらぬ)
高虎は、不気味な羽音が響く洞窟の中で、万福丸の合理性に再び深い戦慄を覚えていた。
「さあ、実験を続けよ。いずれ織田がこの山を呑みに来た時、この泥と虫けらどもが、奴らをいかなる地獄へ引きずり込むか……今のうちに研ぎ澄ませておくのじゃ」
万福丸の静かな、しかし確信に満ちた声が洞窟の闇に吸い込まれていく。
高価な鉄砲に代わる「泥の筒」は、静かに、確実にその毒を溜め込んでいた。来たるべき嵐の日、甲賀の山そのものを「死の罠」へと変えるために。
【時任昆虫教室:其の十九 ― 猛る吸血の凶刃・ウシアブ ―】
万福丸、鉄の筒から鉛を飛ばすだけが戦だと思っているなら、お前の戦術はあまりに高価で、あまりに甘い。 持たざる者が強者を地に這わせるための、最も安上がりで残酷な「生きた弾丸」を教えてやろう。
・狂乱の理(吸血の凶刃):ウシアブは他の虫とは違う。 優しく刺すのではない、鋭い大顎で皮膚を「切り裂き」、溢れ出る血を啜るのだ。 その激痛は、屈強な軍馬をも狂乱させ、静粛を旨とする行軍を一夜にして阿鼻叫喚の地獄へと変える。
・消耗の理(非対称の戦果):重厚な鎧を纏った武者とて、その隙間を縫って潜り込む羽音からは逃れられぬ。 絶え間ない刺咬と羽音は、兵たちの精神を磨り減らし、一睡もできぬまま戦意を根底から腐らせる。 鉄砲一挺を買い入れる銭があれば、この飢えた「泥の筒」を万単位で培養し、敵の陣形を内部から瓦解させることが可能だ。
武士の誇りという「高価な飾り」に固執し、物量で圧殺されるのがお前の望みか? 泥を啜り、虫けらを操ってでも生き残る。 その冷徹な最適解こそが、弱者が強者を喰らうための唯一の正義だ。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)
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