閑話其の一 隠れ里の「不潔」抗争
夏の盛り、甲賀の隠れ里を包む空気は、逃げ場のない蒸し風呂のようであった。
湿度を含んだ熱気が、粗末な作業小屋に淀んでいる。数えで十二歳の童には酷な暑さだが、浅井の嫡男・万福丸は、背筋を伸ばし文机に向かっていた。
その視線の先では、二人の若き忍びが、静かだが刺すような火花を散らしている。
「……冴衣。その泥のついた草鞋で上がるな。主の身辺は、常に清浄でなければならぬ。貴様の持ち込む不浄は、淀みとなって運気を下げる」
三雲佐助が、氷のように冷徹な声で断じた。十三歳にして一族の最高傑作と目される少年は、一点の曇りもなく磨き上げられた居室で、不快そうに眉を寄せている。
「へっ、相変わらず堅苦しいねえ、佐助。そんなに綺麗にしてたら、いざって時に体が鈍るよ。戦場なんてのは泥と血の掃き溜めなんだからさ」
対する冴衣は、不敵に唇を歪めて笑った。彼女は手にした獲物の蛇を、無造作に土間に放り出す。山を駆け回ってきたその脚には泥がこびりつき、獣のような野生の匂いを漂わせていた。
「万福丸、あんたもこいつに毒されてるんじゃないだろうね? 畳の上でちんまり座ってるだけじゃ、強い大将にはなれないよ」
冴衣は万福丸を弟のように、あるいは歳の離れた遊び相手のように呼び捨てにする。彼女にとって万福丸は、守るべき主であると同時に、どこか放っておけない幼い存在でもあった。
「……冴衣、言葉が過ぎるぞ。わしは座っておるだけではない。わしが今、何を見据えておるか、お主には分からぬのか」
万福丸は、武家の嫡男としての威厳を保ったまま静かに返した。だが、その脳内では昆虫研究家・時任が、冴衣の持ち込んだ「不浄」に対して、怒涛の警告を鳴らし始めていた。
(おい万福丸、何を余裕ぶってるんだ! あの女が持ち込んだ泥や生肉、あれこそが死の運び手だぞ。土の中には破傷風菌が、蛇の皮には得体の知れない寄生虫の卵がびっしり張り付いている……。目に見えないほど小さな、だが悍ましい形をした無数の『悪鬼の類』だ!)
脳内での時任の語る「見えぬ悪鬼」の描写は、万福丸の幼い想像力を最悪の形で刺激した。
万福丸の脳裏に、皮膚を食い破り、血管の中を這い回る無数の黒い蟲の群れが浮かぶ。その恐怖は、織田の軍勢を前にした時よりも鋭く、万福丸の背筋を凍らせた。
「……寄るな! 冴衣、それ以上近づくな!」
万福丸が、堪えきれず椅子を蹴立てて後ずさった。その顔は目に見えて蒼白になり、指先が小刻みに震えている。
「おや……? 万福丸、あんた、本気でそんなに汚がってるのかい?」
冴衣が呆気に取られたように足を止める。万福丸の「本気の怯え」は、彼女にとって予想外の拒絶であった。
「佐助! 高虎! 喜三郎! 直ちに処置せよ! その泥を、不浄を、この小屋から一刻も早く排除せぬか! 冴衣、お主もだ! 滝へ行け! その身を洗え!」
万福丸の悲鳴に近い命を受け、小屋の外に控えていた藤堂高虎と遠藤喜三郎が、弾かれたように飛び込んできた。
「若様! いかがなされましたか!」
「喜三郎、ただ洗うだけでは足りぬ! 煮るのだ! あらゆる布、道具を煮え湯に潜らせよ! 煮沸せよ!」
「煮沸……。ただの清めではなく、火の力で不浄を根絶やしにする究極の秘術。なるほど、主はそこまで見越しておられたか」
佐助が、万福丸の意図を独自の「毒理」として解釈し、深く平伏した。
「承知いたしました。これより里中の竈を使い、不浄の根を断ちます!」
「若様! おお、なんという先見の明! 疫病の種を事前に焼き払われるとは、まさに神童のご差配!」
喜三郎がいつものように畳を叩いて号泣する。高虎もまた、万福丸の蒼白な顔を「里に潜む目に見えぬ脅威との戦い」と深読みし、深く頭を下げた。
「若様、我らも全力を尽くします。不浄を許さぬその御心、里の者たちにも徹底させましょう」
それから数時間。隠れ里は、前代未聞の「大清掃」に包まれた。
佐助の指揮の下、あらゆる布が大釜でぐつぐつと長時間煮込まれ、小屋の壁は磨き上げられた。冴衣は「万福丸がそこまで言うなら」と不貞腐れながらも、半日以上滝に打たれ、皮膚が赤くなるまで身を清めて戻ってきた。
里中に立ち込める湯気と、焦げた煙。万福丸は、ようやく「清潔」に近づいた空間で、ぐったりと文机に突っ伏していた。
「……これで、あの悪鬼どもは消えたか」
(ああ、とりあえずの殺菌にはなっただろう。だが見ろ、佐助のやつ、少しやりすぎだな。煮沸が完璧すぎて繊維が熱で分解され、布がボロボロじゃないか。……あ、言い忘れていたが、あまりに清潔にしすぎると、今度は体の方が『戦い方』を忘れて、かえって弱くなることもあるんだぞ。多少の土を食うくらいの強さがないとな……)
「……貴様、さっきと言っておることが違うではないか! どっちなのだ!」
万福丸が脳内で憤死しそうになった、その時。
「若様ぁ! お腹空いたでしょう!」
土間から、丸々とした体型の六助が元気よく駆け込んできた。彼は山仕事の帰りなのか、爪の間には真っ黒な泥が詰まり、首筋には無数の小さな虫が這っていた。
「見てください。! おいらの母ちゃんが握ってくれた握り飯です。山盛り持ってきました!」
六助が、泥だらけの掌で包まれた、真っ白な握り飯を差し出す。
万福丸の視界には、六助の手から米粒へと移動しようとする「見えぬ悪鬼」の幻影が見えた気がした。
「……ろ、六助。お主、その手は……」
「え? 手? ああ、さっきまで肥溜めの整理をしてたから少し汚れてるけど、味は最高ですよ!さあ、食べてください。!」
万福丸は、差し出された握り飯と、六助の無邪気な笑顔を交互に見た。
胃の腑は猛烈に、握り飯の匂いに反応して鳴っている。だが、脳内の声が残した呪いのような言葉が頭を離れない。
「……高虎、喜三郎……。この握り飯を、煮てくれ……。煮沸するのだ……」
「若様!? 握り飯を煮るなど、無茶を仰せ召されるな」
藤堂高虎の困惑に満ちた言葉が、湯気の立ち込める小屋の中に虚しく響いた。
戦国乱世を生き抜く道は、敵の刃を避けるよりも、家臣の「善意の不浄」に耐える方が、遥かに過酷であった。




