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戦国昆虫戦記【泥中羽化】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第四章 甲賀開拓編 〜不浄の富と禁忌の技術〜

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第三十八話 茶室の予言

 天正四年(一五七六年)十月

 堺の町を照らす陽光は既に力なく、海からの風が肌を刺す。街路の隅には枯れ葉が溜まり、行き交う人々の背を丸めさせていた。


 万福丸は、鵜飼冴衣の案内で、会合衆えごうしゅうの一人である津田宗及の屋敷を訪れていた。冴衣は堺や京での商いにおいて「石川左衛門」という男装の仮名を名乗り、持ち前の度胸と話術で、すでに天王寺屋との間に太いパイプを築き上げている。


 茶室『昨夢庵』の静寂の中、冴衣――石川左衛門は、首に巻いたうすものの布を軽く弄りながら、ニヤリと笑った。

「宗及の旦那。約束通り、連れてきたよ。あたしが卸してる『甲賀の緋色』の、本当の持ち主だ。……万福丸、挨拶しな」

 冴衣に促され、数えで十二歳の万福丸が静かに進み出る。


 その瞬間、万福丸の脳内で、やかましい絶叫が弾けた。


――「(おい万福丸! 津田宗及だぞ! あの天王寺屋だ! 帝大入試の日本史において、文化史と経済史の必須項目だ! うおお、生で茶を点てておる! おい、その茶碗の名物を聞け! 信長との関係性をつぶさに聞き出せ!)」


(黙れ時任! 気が散る! わしは今、こやつをハッタリで呑み込まねばならんのじゃ!)


 脳内で騒ぎ立てる帝大卒の歴史愛好家を怒鳴りつけながら、万福丸は表面上は極めて冷徹な表情を作り、宗及の前に座った。

 宗及は目の前の少年に、商人特有の鋭い視線を向ける。

「……驚きましたな。左衛門殿が語る『甲賀の知恵者』が、これほどお若いとは。しかし、その佇まい……ただのわらわとは思えませぬ」


 万福丸は、宗及の探るような視線を真っ向から見据えた。

「宗及殿。お主の悩みは、信長公の御用商人として独走する今井宗久……納屋の影に、天王寺屋が隠れつつあることだな?」


 宗及の手が、一瞬止まった。図星であった。織田の天下が近づくにつれ、信長に深く取り入った宗久の権勢は増し、堺の利権は納屋へと傾きつつある。

「……それがしが、納屋に遅れを取っていると?」


「来秋、尾張・美濃の稲は『天の怒り』により根こそぎ枯れる。信長公が頼りとする兵糧の調達に、宗久は必ずや失態を演じるであろう。あらかじめ他国の米を安値で買い占めておき、その時、信長公に高値で売りつける……あるいは、宗久の不手際を補う形で兵糧を差し出せば、天王寺屋の格はどうなる?」


 万福丸の唇が、冷たく弧を描く。宗及は目を細め、喉の奥で低く笑った。

「……来年の秋、稲が枯れる? 途方もない予言にございますな。もしそれが外れた場合は、どう落とし前をつけていただけるので?」


「この『甲賀の緋色』の製法と、今後の全権を天王寺屋に無償で譲渡しよう。だが、見事言い当てた暁には、お主が買い占めで得た巨利の三割を、我らの工作資金として提供してもらう」

 万福丸が言い放つと、宗及の顔色が変わった。堺の商人たちが喉から手が出るほど欲している極上の染料、そのすべてを賭けるというのだ。

「宗及殿。わしを信じて、来秋へ向けた米の先物さきものを動かす度胸はあるか?」


 宗及の瞳に、隠しきれない強欲の火が灯った。

「……己の里の命運を、天候の賭けに晒すとは。よろしい、その喧嘩、天王寺屋が乗せていただきましょう」


「商談成立だな。では、これは我らの結びつきを祝う品だ」

 万福丸は懐から小さな陶器の壺を取り出し、宗及の前に置いた。蓋を開けると、濃密で野性的な、だが抗いがたい芳醇な香りが茶室に漂った。


「……これは? 醤油や味噌の類とは違うようですが」

「『特殊なひしお』じゃ。舐めてみよ」


 宗及が指先に少しつけ、舌に乗せた瞬間、その顔に劇的な驚愕が走った。口内に爆発的に広がる圧倒的な『旨味』。既存の塩や魚醤などとは次元の違う、脳髄を直接撫で上げるような深いコクがそこにあった。


――「(当然だ。昆虫の持つ高純度のタンパク質が発酵によって分解され、大量のアミノ酸……すなわちグルタミン酸の結晶となっているのだからな。人間の脳は、この旨味を生存に直結する味と錯覚する。一度これを知れば、もはや既存の調味料など泥水に感じられるはずだ)」


 時任の冷徹な解説が脳内に響く。万福丸の狙いは、経済的利益だけでなく、この『生理的な欲求』によって堺の豪商をも支配することにあった。

「……凄まじい味わいにございます。これほどの品、いかほどの値で……」

 宗及は、すでに商人の目ではなく、飢えた獣のような目で壺を見つめていた。


「焦るな。まずはこの醤と、我ら甲賀で作った栄養豊かな兵糧を、石山本願寺へ無償で届けたい。宗及殿、お主が持つ石山への『裏の物流網』……毛利の水軍や門徒衆の繋がりを、わしに貸せ」

「本願寺へ、陣中見舞いと申されるか? よろしいでしょう。天王寺屋の船と馬借、手配いたします」

 宗及は二つ返事で了承した。これが、来春以降に本願寺へ「泥の筒」を怪しまれずに持ち込ませるための、恐ろしい撒き餌であることなど、知る由もなかった。


---


 数日後。木枯らしの吹き荒れる甲賀の屋敷。

 万福丸は、冷え切った自室の縁側で、三雲佐助と六助を呼び出していた。傍らには冴衣が退屈そうに柱によりかかっている。


「佐助、六助。お主らに頼む仕事がある。……冬の間、尾張と美濃と伊勢の田へ向かえ」


 万福丸は、言いながら両腕をさすり、露骨に鳥肌を立てた。これから口にしなければならない内容を想像するだけで、猛烈な吐き気が込み上げてくる。


――「(万福丸、正確に伝えろ。ウンカは秋に交尾し、稲の刈り跡に残った枯れ草や株の根本に卵を産み付けて越冬する。そのまま冬の寒さを耐え抜き、春の温かさと共に一斉に孵化するのだ)」


「……敵地の田んぼに残された、刈り株や枯れ草を……大量に集めてこい」

 万福丸は胃液が逆流するのを堪えるように、顔を青ざめさせて絞り出した。

「その枯れ草の中には、来年の秋に稲を食い荒らす害虫の『卵』が眠っておる。それを甲賀の温度が一定な洞窟へ運び込み……春を待たずに強制的に孵化させ、増殖させるのじゃ……うぇっ。佐助、お主は六助と共に里の者たちを率いよ。現地の農民には銭を握らせて『堆肥や燃料として買い取る』とでも偽り、奴ら自身の手でかき集めさせればよい」


 万福丸が口元を押さえてえずくのを見て、冴衣がケラケラと笑い声を上げた。

「相変わらず情けない顔だねえ、万福丸。虫の卵を集めるだけでそんなに泣きそうになるなんてさ。あたしが代わりに素手でかき集めてきてやろうか?」

「だ、黙れ冴衣! 想像させるな! わしの視界にそのぶつぶつしたものを持ち込んだら、即座に斬り捨てるぞ!」


 万福丸が涙目で怒鳴る一方、佐助と六助は深く平伏していた。

「……なるほど。敵の足元に眠る『災厄の種』を冬の間に盗み出すだけでなく、敵の領民の欲を利用し、自らの首を絞める種を自ら集めさせる。刃を交えることなく、敵の未来の兵糧を確実に腐らせる……極めて論理的で、美しいほどに無駄がない。さすがは俺の主だ」

「あんたも大概気持ち悪いね、その狂信ぶり」

 冴衣が呆れたように鼻で笑うが、佐助は冷ややかな目で冴衣を一瞥しただけで、改めて万福丸を見上げた。

六助は万福丸の為ならと、やる気に溢れている。

「万福丸様、安心してよ。万福丸様のためならば織田の領地を這いずり回ってでも、泥一つ残さず掻き集めます!」


「承知いたしました。尾張・美濃・伊勢の刈り株、根こそぎ刈り取って甲賀の隠れ里へ運び込みましょう。来秋の絶望は、我らが確と集めてまいります」


 佐助と六助が影の中へ溶けるように消えた後、万福丸は冷たい冬の空、遠く岐阜の方向を睨みつけた。

(わしは死なぬ。母上も妹たちも、誰一人として死なせはせぬ……。この地獄の如き嫌悪すらも飲み込まねば、織田には勝てぬのじゃ)


黄金に輝く堺の茶室での密約は、やがて織田の領地を喰らい尽くす、静かで致死的な種蒔きの始まりであった。

【時任昆虫教室:其の二十 ― 潜伏する吸血の牙・マダニ ―】


万福丸、目に見える敵だけを恐れるのは三流だ。真に恐ろしいのは、草むらで息を潜め、お前の軍勢が通りかかるのをじっと待ち構える、この「物言わぬ暗殺者」だ。


・浸食の理(執念の吸血):マダニは獲物の体温と吐息を鋭敏に察知し、その肉へと深く牙を突き立てる。一度喰らいつけば、その体は数倍に膨れ上がるまで血を啜り続ける。無理に引き剥がそうとすれば牙は肉に残り、そこから腐敗が始まるのだ。

・熱病の理(不可視の毒):こいつらの真価は吸血そのものではない。その小さな体に宿した「重篤な熱病」にある。一箇所刺されるだけで、屈強な兵も高熱に浮かされ、骨を砕くような痛みにのたうち回ることになる。鉄砲の弾丸は一人を殺すが、この病の牙は、戦わずして陣営全体を寝たきりの骸へと変える。

泥にまみれ、虫けらと共に戦うことを厭うな。鉄砲一挺を揃える銭で、お前は何万という「生きた暗殺者」を敵の進軍路に解き放つことができる。これこそが、物量の格差を覆すための冷徹な最適解だ。


(昭和初期の昆虫研究家・時任)


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