第三十二話 腐った実と、岐阜からの風
同月、ある日の夜、甲賀の里は静寂に包まれていた。万福丸の屋敷に、筆頭当主・望月が人目を忍んで訪れた。広間に差し込む月光が、少年の幼い横顔と、歴戦の忍びの険しい表情を対照的に照らし出す。
「万福丸様、美濃部の処遇について、里の者たちの突き上げが激しゅうございます」
望月が重苦しい口調で切り出した。美濃部は、里の利を売り、織田信長と内通していた罪で現在、屋敷に蟄居させられている。
「裏切りは忍びの里において万死に値する罪。一族郎党、根切りにすべきとの声が支配的でございます。……いかがなされますか」
万福丸は、手元に置かれた古い書物を閉じた。
「……死なせるのは容易い。だが、望月。忍びの行商では、これからの取扱量は捌ききれぬ。量が増えれば出所を怪しまれ、せっかくの緋色や光沢も、売るに売れず腐らせることになるぞ。そこでだ、美濃部の持つ物流網は使える。美濃部を冴衣の下で走らせ、奴の看板をそのままわしらの隠れ蓑にするのだ。奴の表の荷に紛れ込ませれば、大量の品もまっとうな商いとして流せる」
「しかし、一度裏切った男を信じるのは危うすぎます。里の掟は、身内の甘さを許しませぬ」
「そうだな。この目で確かめる。……今から美濃部の元へ行くぞ。奴がまだ食える実なのか、芯まで腐り果てた泥なのか、直に糾明した上で見極める。わしが納得せねば、その場で首を刎ねても構わぬ」
望月は驚きに目を見開いたが、万福丸の意志の強さに押され、黙って頷いた。
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美濃部の屋敷は、かつての栄華が嘘のように冷え切っていた。万福丸と望月が踏み込むと、美濃部は畳に額を擦り付け、狂ったように命乞いを始めた。
「万福丸様! 望月殿! 織田への文は、里を守るため……時間稼ぎのための方便にございます! どうか、どうかお許しを!」
万福丸はその醜態を、感情の失せた瞳で見下ろした。背後では三雲佐助の刀が、威嚇するようにカチリと鳴る。
「……言い訳はよい。織田に、この里の情報をどこまで漏らした? 嘘を吐けば、その瞬間に首を飛ばすぞ」
美濃部は震え上がり、脂汗を流しながら必死に口を開いた。
「ろ、六角様がこの山に潜んでいると伝えただけでございます! 他には何も漏らしておりませぬ! 信じてくだされ!」
万福丸は無言で美濃部を見据え、その反応を冷徹に観察した。
(……心拍の速動。過剰な発汗。だが、視線は彷徨っておらぬ。恐怖による真実か。脳内の時任が囁く通りだ。『生物が死に直面した際に見せる、生存本能としての服従』。これは利用できる。この男が漏らしたのは、既にわしが囮とした六角の情報のみ。ならば、まだこの実は皮を剥けば中身は食える)
「……ふん。六角という、もはや価値のない神輿を売って己の身を護ろうとしたか。卑怯な男よ」
万福丸は冷たく告げた。
「美濃部。お主の持つ物流網、わしのために差し出せ。わしらが作り出す『甲賀の緋色』と『甲賀の光沢』を、出所を隠したまま京や堺で売り捌け。商いの差配はすべて冴衣に預ける。お主は奴の指示に従い、得た金の一部を使って、鉄砲の弾となる鉛を、織田の目を盗んで少しずつ集めろ。一度に大量に動かせば、奴らに勘繰られるからな。……わしに利をもたらす限りは、その首を繋いでおいてやる」
「は、ははっ……! ありがたき幸せ……! 骨の髄まで働かせていただきます!」
「(……いい判断だ、万福丸。表の商人を盾にするのは賢いやり方だ。足のつく鉛を運ぶなら、まっとうな荷の中に少しずつ紛れ込ませるのが一番確実だからな。一度に全部を鉛に変えないのも、疑われないための知恵だな……)」
万福丸は、美濃部を「腐った実」と断じた。だが、果実が腐り落ちても、その種や養分は土を肥やし、次の命を育む。裏切り者の命すらも、彼は「部品」として組み込んだのである。
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翌朝。
万福丸の屋敷に、童――六助が、息を切らせて駆け込んできた。
「おいらだよ! 万福丸様、岐阜から戻りました!」
「……よくやった、六助。母上は、息災であられたか」
万福丸が駆け寄る六助に問うと、彼は真っ直ぐに頷いた。
「うん! お城の奥には入れなかったけど、昔からの侍女様にかんざしと赤い染料を渡せたよ! 万福丸様が生きてるって伝えたら、御方様、泣いて喜んでたって……。で、これを万福丸様にって!」
六助が懐から取り出したのは、小さな香袋であった。
それを受け取ると、伽羅の深い香りが鼻腔をくすぐった。間違いなく、小谷城で母が肌身離さず持っていた温もりの匂い。戦国の泥を啜り、人ならざる術を操る日々の中で、その香りだけが万福丸を本来の嫡男へと引き戻す。
「……六助、大仕事であったな」
万福丸は香袋を愛おしげに懐へ収めた。しかし、六助の顔は晴れない。
「……でも、万福丸様。岐阜の町は、なんだか刺すような殺気が漂ってて、怖かったです。お侍たちが町で『赤い染料』を売ってた商人を捕まえて、出所を厳しく問い詰めてました。それに、兵隊たちは『甲賀の山には神の罰を下す化け物虫が棲んでいる』って震え上がってて……」
――「(ははっ、上出来だ万福丸。植え付けた恐怖の種は、見事に岐阜で芽吹いているようだな。偵察隊を生かして逃がした甲斐があったというものだ)」
脳内の時任が愉快そうに笑う。
「(だが、信長という男は、その『神罰』の正体と、莫大な富を生む染料の源泉を暴こうと、より執着してくるはずだ。恐怖は、時に刃を向ける動機にもなるからな)」
時任の警告に、万福丸は嫌そうに顔を顰めるどころか、暗闇の中で不敵な笑みを浮かべた。
「……ふん、上等よ。信長が血眼になってこちらを探るということは、わしらの仕掛けた策が、確実に奴の足元を脅かしている証拠じゃ。」
万福丸は懐の香袋の感触を確かめ、力強く言い放った。
「奴らが山に足を踏み入れた時、また、不気味な虫どもで出迎えてやればよいだけのこと。……六助!」
「はいっ!」
「岐阜での大仕事、誠に大儀であった! 今日はゆっくり休め。明日からまた、忙しくなるぞ。信長を震え上がらせる、新たな仕掛けを作るのだからな!」
「はいっ! おいら、どこまでもついていきます!」
元気に頷く六助を見送り、万福丸は甲賀の山々を睨み据えた。それは、織田の軍勢を迎え撃ち、地の底へ引きずり込むための巨大な罠として、彼の目に力強く映っていた。
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泥の中から這い上がる万福丸と共に、この物語も一歩ずつ高みへ登っております。
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