第三十三話 長浜の茶坊主と、兜虫騒動
天正三年(一五七五年)六月
じりじりと、蝉の声が脳漿を焼くような夏の昼下がり。近江国、甲賀の隠れ里。
湿度を含んだ熱気が、粗末な作業小屋に淀んでいた。数えで十一歳の幼子には酷な暑さだが、浅井の嫡男・万福丸は、背筋を伸ばし文机に向かっていた。
外面は威厳ある若君だが、その脳内では「帝大卒の昆虫研究家」が、取り留めもない述懐を垂れ流していた。
(……いいか万福丸。昆虫の構造こそ究極の機能美だ。この暑さでも生体リズムを崩さない進化の歴史。……いや、それより今は石田だ。長浜の寺にいる石田佐吉のことだ。彼は後に驚異的な行政能力を発揮するから、今のうちに唾をつけておけと言っただろ。どうなったんだよ)
「黙れ時任。暑苦しい。長浜は織田の忠臣、羽柴のお膝元ではないか。わしが行けるはずもなかろう。……だが、お主があまりに喧しいゆえ、冴衣を偵察に走らせた。未だ吉報は届かぬがな」
万福丸が苦々しく独り言ちた、その時だった。
「万福丸様! 万福丸様ぁ!」
足音高く飛び込んできたのは六助だ。
「見てください! 森の奥ですんげぇのを見つけたんだ! これを万福丸様と一緒に、ここで飼いたいと思って!」
「……ぬ?」
六助がゆっくり掌を開く。
そこには、陽光を黒光りさせる硬質な甲殻の巨獣がいた。二股に分かれた立派な角と、鋭い爪を持つ六本の脚。カブトムシ。万福丸にとっては「地獄の使者」に他ならない。
「ぎ、ぎ……」
「ぎ?」
万福丸の顔面から急速に血の気が引く。
「……ぎ、ぎゃあああああああああああああああ!!」
「うわっ!? どうしたんですか万福丸様!」
「寄せるな! それをわしに近づけるな! 六助、刺客か! 織田の放った新手の刺客か!?」
万福丸は文机を蹴立てる勢いで後ずさり、部屋の隅へ逃げ込んだ。
(おいおい情けない声を出すな。素晴らしい大型個体じゃないか。いいか万福丸、カブトムシは、いつの時代でも少年にとっては憧れの存在なんだぞ。六助をみろ。恩人のお前に喜んでもらおうと必死なんだ。一角の武将ならなら度量を見せろ)
「うるさい時任! 六助! その『角の生えた悪魔』を今すぐ捨てろ! 焼き払え!」
「ええっ!? 捨てちゃうんですか? ほら、見てください! すごく格好良いじゃないでか」
六助が純粋な尊敬を込め、一歩詰め寄る。
「来るな! 佐助! 高虎! 喜三郎! 誰かおらぬか! 刺客だ!」
騒ぎを聞きつけ、藤堂高虎と遠藤喜三郎が駆け込んできた。さらには、背後の影から音もなく一人の少年が姿を現した。三雲佐助だ。
「……騒々しいぞ、六助。主の前だぞ。不敬ではないか」
佐助の冷徹な眼光が、暴れる六助の手元を捉えた。
「……ほう。カブトムシか。主、これを『飼う』と仰せか」
「飼わぬ! 佐助、お主からも言ってやれ!」
だが、佐助は深く頷いた。
「なるほど。強靭な角で敵を跳ね飛ばし、硬い鎧で身を守る。主はこの虫の『防備の理』を我らに示そうとされているのだな。実に合理的だ」
「あははは! また震えてるじゃない。可愛いとこあるわね」
梁から降りてきたのは冴衣だ。昨夜、長浜から戻ったばかりの彼女は、青ざめた万福丸を見て愉快そうに唇を歪める。
「怖がらないで。足をもいで火に炙れば蟹の味がするわよ。あたしが捌こうか?」
「冴衣! やめろ! 想像させるな!」
万福丸は青い顔で叫び、待ちわびた報告を促すべく冴衣を睨みつけた。
「……それより冴衣、お主! 長浜の石田の件はどうなった。報告を待っておったのだぞ」
「ああ、あのガキ? なんか理屈っぽくて真面目腐ってて、気に入らない奴だったわ。羽柴殿に仕えたいって、お寺でせっせとお茶を淹れてたわよ」
「……断られたか」
「一応、あんたの名前は伏せて『甲賀には羽柴以上の賢人がいるから、騙されたと思って一度来い』って言ってやったわ。少しは食いつくかと思ったけど、『その甲賀の主とやらに、自分が行く価値があるかどうか見極める時間が必要だ』なんて、ぐずぐず御託を並べ始めたからさ。めんどくさくなって『勝手にしろアホタレ!』って捨て台詞吐いて帰ってきちゃった」
万福丸は頭を押さえた。「冴衣、お前な……。人選、間違ったか……。」
「……まあよい。織田の目が光る長浜で深追いは禁物だ。放っておけ」
万福丸は吐き捨て、やり場のない苛立ちで目の前のカブトムシを再び睨んだ。その沈黙と震えを、高虎は「次の一手を案じる深謀」と見誤った。
「……流石は若様。この虫を『弱きを守る盾』の象徴とし、軽々しく飼おうとした六助の慢心を諌めておられる。恐るべき深謀遠慮だ」
「おおおおお!!」
喜三郎が板間に突っ伏して号泣し始めた。
「なんと……若様は、この虫が籠の中で死ぬのを不憫に思われたのだ! 命を救われた六助が、他の命を弄ぼうとする増長を、御身を挺して諌めておられるのだぁぁ!!」
「えっ、あ、おいら、そんなつもりじゃ……」
(万福丸、六助が泣きそうだぞ。食えとは言わん、『飼う』ことを許してやれ。人心掌握も立派な生存戦略だぞ)
「……ぐ、ぬぬ……"
万福丸は胃の腑の震えを飲み込んだ。浅井の再興。そのためには、人心を繋ぐ「度量」が必要だ。
「……六助。その、黒き武者を……そこで飼うことを許す。ただし! 籠からは絶対に出すな! わしの視界に入れるな!」
「万福丸様……! ありがとうございます! 世界一強く育ててみせます!」
「おおお! 虫けらにまで居場所を与えられるとは、まさに海より深い御心!」
喜三郎が再び畳を叩いて泣く。
「……主、御意に。明日より同型の甲虫を一日十匹、生け捕りにしてまいりましょう」
佐助が余計な追撃を加える。
「よせ佐助、一匹で十分じゃ! 冴衣! お主も笑うな!」
(よし、交渉成立。……さて、長生きさせるための高栄養な餌の配合だが、これには込み入った知見が必要になる。いいか、心して聞けよ?)
時任の声が「熱」を帯びた瞬間、万福丸の脳が火を噴く感覚に襲われた。急速に糖が消費され、視界が明滅する。
万福丸は、ぐったりと文机に突っ伏した。
「……誰か、握り飯を。猛烈に、腹が減った……」
耐え難い空腹と疲労。
戦国乱世を生き抜く道は、あまりにも険しく、そして「多脚」であった。
【時任昆虫教室:其の十八 ― 鎧の巨兵、里の武者・カブトムシ ―】
万福丸、何をその角に恐れおののいている。その黒光りする硬質な外殻は、戦国の世を象徴する武者の鎧に過ぎぬ。中身を知れば、それはお前の胃を満たす贅沢な糧となるのだ。
・美食の理(土の牛):その幼虫を侮るな。腐葉土の中で丸々と太った白き塊は、揚げれば皮はパリリと弾け、中身はまるで「鶏のササミ」をさらに濃厚にしたような淡白かつ力強い旨味が溢れ出す。成虫とて、その脚を外してじっくりと火を通せば、香ばしい「海老の殻」にも似た風味が口内を支配するだろう。
・生存の理:この虫は、クヌギやコナラの樹液が溢れる場所に集う。すなわち、そこは森の生命が収束する地点だ。カブトムシが見つかる森は、豊かな実りがある証拠。奴らの存在そのものが、その土地の肥沃さを示す道標となる。また、その強靭な角を支える筋肉は、そのままお前の四肢を動かす純度の高いタンパク質へと変換されるのだ。
姿に惑わされるのは凡愚のすることだ。構造を理解し、その中身を啜れ。武士が兜を尊ぶように、お前もこのカブトムシを尊び、その命を余さず啜るのだ。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)
【更新報告】
本日もご一読ありがとうございます。
万福丸の物語は、ここからさらに加速してまいります。
「続きを読みたい」と思っていただけましたら、ブックマークと⭐️評価をいただけますと幸いです。
皆様の反応ひとつひとつが、完結まで筆を走らせる最大の原動力となっております。
今後とも、万福丸の覇道を見守っていただければ幸いです。




