第三十話 傀儡の神輿と、異能の神子
天正三年(一五七五年)四月
春の陽光が降り注ぐ甲賀の隠れ里は、かつての貧相な山村の面影を完全に払拭していた。
谷間を吹き抜ける風には、もはや飢餓の匂いはない。
道ゆく童たちは皆、頬に血の気を宿し、手には栄養満点の「陸のエビ(コオロギ)」の粉末を練り込んだ団子や、猪や鹿の獣肉の干し肉を握っている。かつては織田の包囲に怯え、枯れ木のように痩せ細っていた里の者たちの顔には、確かな活力と、明日を生き抜くという熱を帯びた生気が満ちていた。
「おう、万福丸。息災であるか。そちの働きもあり、我が六角の威光、未だ地に落ちてはおらぬな!」
「ははっ。すべては六角様のご威光と、天の配剤によるもの。我ら反織田の旗印として、六角様こそがこの甲賀の頂点に立たれるべきお方にございます」
上座でふんぞり返る六角義賢・義治親子の前で、十一歳になった万福丸は深く平伏し、極めて丁寧な口上を述べていた。
かつて近江の覇者であった六角親子は、信長に追われて甲賀へ逃げ込んでからも、己らが頂点であるという尊大な自覚を捨てていない。だが、平伏する万福丸の冷めた瞳の奥には、確かな打算が宿っていた。
――「(ふん、馬鹿な神輿だ。せいぜい『反織田の首魁』として信長の怒りを集めてくれ。その隠れ蓑の下で、俺たちの生物学特区を完成させる)」
(時任、脳内とはいえ口が悪いぞ。……まあよい、事実であり、誰にも聞こえぬしな。彼らにはこれからも矢面に立ってもらわねばならぬ)
その時、甲賀五十三家の筆頭格である望月吉棟が、静かに進み出た。
「御屋形様。堺での『甲賀の緋色』と『甲賀の光沢』の商い、今月も莫大な利を上げました。つきましては、この銭の使い道と、新たに開墾した田の差配ですが……」
「おお! ならば我が兵を養うための武具を揃えよ! 田の米はすべて我が軍資金とする!」
六角義治が身を乗り出して叫ぶ。
しかし、望月はその言葉をまるで風の音のように聞き流した。
彼は上座の六角親子には目もくれず、ただ静かに、そして深々と、下座で平伏している万福丸の方へ向き直ったのである。
「……いかが計らいましょうか、万福丸様」
評定の間が、シンと静まり返る。
三雲も山中も、他の当主たちも、誰一人として望月の行動を咎めない。彼らの鋭い眼光が真に畏怖と敬意を向けているのは、紛れもなく十一歳の稚児のほうであった。
実態は、とうに逆転していたのだ。
この一年半、甲賀の里は万福丸と時任がもたらした「知識」によって劇的な進化を遂げていた。
不衛生だった里の排泄物は、蛆とセンチコガネによる循環システムで極上の肥料へと変わり、六助の腐った傷は「無菌蛆治療」によって奇跡的に治癒した。猪や鹿の肉による獣肉食の導入やコオロギの粉末である陸のエビは里から飢えを駆逐し、蜘蛛やカエルを利用した益虫農法と時任の気象予知は、ウンカの大発生の中でも万福丸の管理する田には黄金の豊作をもたらした。『甲賀の緋色』と『甲賀の光沢』は、大きな現金収入となり、万福丸個人だけでなく、里全体に活気をもたらしていた。
かつてこの稚児を「厄介者」と見下していた当主たちの目は、今や狂信に近い畏敬に染まっている。
織田の先鋒部隊を「蜂の要塞」で壊滅させ、これらすべての奇跡を体現する万福丸。傀儡の六角親子よりも、確実に里を富ませ、命を繋ぐ「異能の神子」こそが、今や里の実質的な支配者となっていたのである。
評定を終え、名ばかりの館を辞した万福丸は、人目のつかない裏山へと向かった。
そこには、丸々と太った健康的な体つきの少年が、地面に這いつくばるようにして待機していた。
「おいらだよ! 万福丸様、お呼びでしょうか!」
「六助。……大儀じゃ。また少し太ったのではないか?」
かつて死にかけていたところを無菌蛆治療で救われた六助は、今や万福丸に対し、信仰に近い絶対の忠誠を抱いている。
「万福丸様のためなら、おいら、火の中水の中、肥溜めの中だって潜ってみせます! 今日の御用は何なりと!」
「……肥溜めはよい。お主に、尾張か美濃へ向かってほしいのだ。探り当ててほしい人がおる」
万福丸は懐から、丁寧に布で包んだ小箱を取り出した。中には、一通の文と、冴衣が売り捌いているのと同じ『甲賀の緋色』の小瓶、そして一本の美しい「かんざし」が入っている。
「母上……お市の方様じゃ。母上は、わしが敦賀へ落ち延びたとばかり思っておられるだろうが……」
万福丸は一呼吸置き、鋭い眼差しで六助を見据えた。
「今は織田の領内、清洲か岐阜へ戻されておるやもしれぬ。このかんざしは、母上がわしを逃がす際に託された品じゃ。織田の城に潜り込み、これを母上の古くからの側付きの者に見せよ。さすれば、怪しまれることなく奥へ通じる道が開けよう」
忍者ではあるが、見た目はただの童である六助が城へ近づくだけなら怪しまれない。そして、浅井の奥方を知る者であれば、このかんざしの意味を即座に理解し、秘密裏に引き合わせるはずだ。
「無事であると、そして、わしは甲賀で必ず生き延びてみせると、これを届けてほしい」
「任せてください! おいらの命に代えても、必ずや母君様へお届けいたします!」
六助は深く頷き、雪解けの泥道の中へと、風のように消えていった。
半月後。
織田領内、岐阜城の奥の院。
春のうららかな陽射しが差し込む座敷の隅で、三人の幼き姫たちが身を寄せ合うようにして遊んでいた。
七つになる長女の茶々は、母の沈んだ横顔を気遣うように、時折不安げな視線を向けている。六つの次女・初は大人しく折り紙を弄り、三つになったばかりの三女・江は、何も知らぬ無邪気な寝顔で乳母の腕の中に抱かれていた。
浅井が滅び、城を落ち延びてから一年半。彼女たちは織田の庇護下という名の鳥籠に囚われ、息を潜めるように生きていた。
お市は、庭先の桜から目を伏せ、自室の奥へと下がった。そこへ、古くから付き従う侍女が、血相を変えて密かに小箱を持参してきたのである。
「御方様……門前に現れた見知らぬ童が、これを。浅井の奥方にしか通じぬ品だと」
震える手で蓋を開けたお市は、息を呑んだ。
そこに入っていたのは、小谷城の落城の折、我が子を逃がす際に形見として渡したはずの「かんざし」と、万福丸の力強い筆致の文、そして、見たこともないほど鮮やかで美しい真紅の染料が入った小瓶であった。
文を広げたお市の目から、張り詰めていた糸が切れたように大粒の涙が溢れ出した。
「……万福丸。私の、万福丸……。生きて、生きてこれほど逞しく……」
声を出さずに泣き崩れる母の姿に、茶々が弾かれたように駆け寄ってくる。
「母様……いかがなされたの? 誰か、織田の者が嫌な文を……?」
幼い手で縋り付く茶々に、お市は首を横に振り、涙で濡れた顔にこの一年半で初めての、本当に心からの微笑みを浮かべた。
「……ううん。違うのよ、茶々。兄様よ。あなたたちの兄様が、生きて、この母に便りを届けてくれたの……」
「兄様が……!」
初も顔を上げ、江を抱く乳母も驚きに息を呑む。
「お市様、これなる童、外にて未だ控えておりまする。如何いたしましょう」
侍女の言葉に、お市はハッと我に返り、涙を拭った。万福丸の生存は、この鳥籠の中に差し込んだ唯一の希望の光だ。ならば、母として、その光に答えねばならぬ。
「……これを」
お市は、自らの帯に結わえ付けていた、小さな、しかし美しい刺繍が施された香袋を解いた。それは、彼女が小谷城にいた頃から大切にしていた、伽羅の深い香りが染み付いた肌身離さぬお守りであった。
「この文と、これを、あの童に。……そして、伝えておくれ」
お市は香袋を愛おしげに掌で包み込み、最後の祈りを込めるように侍女に託した。
「母も、妹たちも、岐阜の地で息災であると。万福丸、あなたの逞しさを、母は信じています。……どうか、その香りが、あなたの進む道を健やかに守りますように。いつか、必ず……」
侍女は、主の並々ならぬ決意を汲み取り、深く平伏して香袋と文を受け取った。お市は、再び庭の桜へと目を向けた。その横顔には、先ほどまでの絶望の色はなく、遠く甲賀の空を見据える、一人の母の、そして浅井の奥方としての、強く気高い意志が宿っていた。
しかし、その同じ岐阜城の最も高い場所で、織田信長もまた、見えざる存在に気づき始めていた。
「……申し上げます。堺にて出所不明の極上の『赤』が出回り、公家衆がこぞって買い漁っております。商人の素性は知れず。また……過日、雪解けと共に甲賀の山中にて、昨冬に行方知れずとなった偵察部隊の死体が発見されましたが……刃傷はなく、凍結していた遺体には、すべて何らかの『毒虫』に刺され、腫れ上がった痕が無数に……当時、数人の生き残りがおりましたが、彼らは全員、毒虫がどうのこうのと口にするだけで、その日のうちに全員が死に絶えております」
報告を受ける織田信長の双眸が、ぞくりとするほどの冷気を放った。
「甲賀の山中には、虫を操る得体の知れぬ神子がおり、里の者たちが狂信しているとの噂もございます」
「……神子、だと」
信長は、手元の扇子をゆっくりと閉じた。
浅井長政の首は取った。だが、その血を引く嫡男の死体は、いまだ確認されていない。甲賀、六角、不気味な虫の噂、そして突如として湧き出した未知の富。
「……長政の、残り香がするな」
信長の低い声が、広間に這うように響く。
「伊賀、甲賀の泥ネズミどもめ。まとめて焼き払ってくれるわ」
天正三年。
万福丸が積み上げた「生物学特区」は、ついに天下人の明確な殺意を引き寄せてしまったのである。
ご評価下さったら方、本当にありがとうございます!!!
良ければ、是非、最終話お読みください。
すいません。
第三章最終話、少し長い文章になってしまいました。
【更新報告】
本日もご一読ありがとうございます。
次回からは、第四章となります。
万福丸の物語は、ここからさらに加速してまいります。
「明日もまた読みたい」と思っていただけましたら、ブックマークと⭐️評価をいただけますと幸いです。
皆様の反応ひとつひとつが、完結まで筆を走らせる最大の原動力となっております。
今後とも、万福丸の覇道を見守っていただければ幸いです。




