第二十九話 甲賀の緋色と、甲賀の光沢
天正二年(一五七四年)十二月
師走に入った甲賀の山々は、白き雪化粧を日ごと深めていた。石部城落城の余波と織田の包囲網による緊張感は依然として里を覆っていたが、その最奥に位置する万福丸の「作業場」だけは、異様な熱気と戦国の世にはあり得ぬ鋭い異臭に満ちていた。
鼻を突くのは、鼻腔を刺すような酢の匂い。そして、喉を焼くほどに強い、質の悪い酒をさらに煮詰めた「火酒」の芳香であった。
「ぬ……っ!? 近づけるな! そんな気色の悪いものを!」
万福丸は青白い顔をさらに引き攣らせ、じり、と後ずさった。
冴衣はその様子を見て、愉しげに口元を歪める。白い指先でつまんでいるのは、蠢くカマキリの卵嚢だ。わざと見せつけるように、目の前でゆらりと揺らす。
「あっはははは! やっぱ駄目か!」
中性的な美貌に邪悪な笑みを浮かべ、さらに一歩、距離を詰める。
「あんた、あんな恐ろしい蜂の群れを操って織田の兵を皆殺しにしたくせに……。こんな小さな塊ひとつで、声が震えてんぞ?」
「や、やめぬかぁぁ!! 喜三郎! 高虎! 早くそれを――その不浄な物体を、そのドブネズミごと摘み出せッ!」
威厳の欠片もない絶叫が、作業場いっぱいに響き渡った。
「……流石にございます」
傍らに控える藤堂高虎は、戦慄したように呟いた。
「若様は、あえて自らの忌み嫌う『不浄』を眼前に置き、精神を極限まで研ぎ澄ましておられる。己の弱点にすら正面から立ち向かい、克己の糧とされるそのお姿……覚悟のほど、見事」
「おおお万福丸様ぁっ!!」
遠藤喜三郎が、膝から崩れ落ちて号泣した。
「なんとお労しや……! 我ら家臣に動揺を見せぬため、かような醜悪な虫を前にして、あえて逃げ出さず御身を削っておられる……! 某、その強き御心に涙が止まりませぬぅぅ!!」
――「(おい万福丸、いつまで騒いでる。そんなゴミより、冴衣が持ってきた『紫鉱』を見ろ。極上だぞ。こいつの腹を割れば、世界を塗り替える赤が獲れる。……早くしろ、グズグズしてるとその虫の塊を口に放り込むぞ)」
(黙れ時任! おぬしは黙っておれ! 誰が食うか、この人でなしめ!)
「はぁ……相変わらず暑苦しいね、あんたたちは」
冴衣はつまらなそうに卵嚢を懐に仕舞い込むと、足元に置かれた大きな葛籠を蹴飛ばした。
「ほらよ。あんたに言われた通り、堺の商人が捨て値で捌いてた『紫鉱』さ。あいつら、効かねえ薬だと思って困ってたんだ。あたしが全部買い叩いてきてやったよ」
葛籠の中に山と積まれているのは、赤黒い樹脂がこびりついた木の枝の塊であった。
その名は『紫鉱』。名に「鉱」の字を冠し、一見すれば紫がかった石の礫に見えるが、その正体は鉱石ではない。南方から渡来するラックカイガラムシが、木の枝に群生して分泌した樹脂状の殻の塊である。
当時の日本では、この紫鉱を「薬」や「下品な紫の染料」としてしか扱えず、堺の商人たちにとっても、倉庫の隅で埃を被っている「使い道のないゴミ」に過ぎなかった。ゆえに、冴衣が二束三文の端金で手に入れるのは容易であった。
「紫鉱じゃ」
万福丸が呟くと、高虎が怪訝そうに葛籠の中を覗き込んだ。
「……石にございますか?」
「違う。虫じゃ。そこから色を取る」
紫鉱――南方からもたらされる、虫由来の染料である。
「主、御意。……これより、この汚らわしい塊から『色』を抽出いたしますな」
三雲佐助が、音もなく作業を開始する。
「……う、うむ。左様じゃ。佐助、手筈通りに執り行え」
万福丸は、朝方に例の「身体的代償」と引き換えに得た知識を懸命に想起しながら、現実に落とし込んでいった。
「喜三郎、灰汁を。……佐助、温度を保て。沸騰させてはならぬぞ」
万福丸の、熱病に浮かされたような、だが確信に満ちた指示に、作業場が動き出す。大釜の中に投じられた「紫鉱」から、どろりとした深紫色の液体が溶け出した。当時の染料なら、ここで終わりじゃ。だが、万福丸の脳内に残る知識は、その先へ踏み込む。
「……酢を入れろ。一滴ずつじゃ」
万福丸が、大釜の液面を凝視する。次の瞬間、濁った紫の液体が、まるで魔法のように鮮やかな、燃えるような「緋色」へと変貌した。茜よりも深く、紅花よりも鮮烈。かつて誰も見たことのない、太陽の如き輝きを放つ赤だ。
「……なんだい、これ。……綺麗じゃないか」
徹底した現実主義者の冴衣ですら、毒を吐くのを忘れ、その美しさに瞳を奪われた。
「驚くのは、まだ早い。……沈殿したカスを、火酒で洗え」
万福丸の指示に従い、高虎が蒸留したてのアルコールを注ぐ。すると、今度は黄金色の、透き通った樹脂が溶け出してきた。
「これが『甲賀の光沢』じゃ。漆のようにかぶれず、塗れば瞬時に乾き、金箔を完璧に定着させる。……これを京の公家や、堺の茶人に持っていけ。彼らはこの光沢と、そしてこの『甲賀の緋色』を求め、千金すら惜しまぬであろう」
「……冴衣。お主は『左衛門』として、これを京と堺へ売り歩け。京でコソ泥をしておったお主は、ここから凄腕の商人、『石川左衛門』として名を馳せることになるかもな」
冴衣は緋色の小瓶を掲げ、試すような視線を投げてきた。
「……へぇ。確かに大したもんだ。でもさ、あんた。あたしがこれを持ったまま、京や堺で姿を消すとは思わないのかい?」
「……ふん。お主の目的は、甲賀における地位の回復であろう? この理を解し、次々と新たな価値を産めるのは、この世でわしだけじゃ。わしという金の卵を産む鶏を捨てるほど、お主は愚かではあるまい」
万福丸は、口の端に米粒をつけたまま、十歳の幼子とは思えぬ冷徹さで言い放った。
「……あっはははは! あんた、本当に可愛げがないね! ……いいよ、乗った。あんたの知恵が枯れるのが先か、あたしの足が止まるのが先か。……いいよ、賭けようじゃないか」
冴衣は、万福丸の頭を乱暴に撫でると、緋色の染料が詰まった小瓶を懐に仕舞い込んだ。
「あ、そうだ。……お礼に、いいものあげるよ」
「ぬ? 何じゃ……?」
冴衣が、パッと手を開く。そこには、先ほどよりも一回り大きな、蠢く「オケラ」が握られていた。
「う、うわあああああッ!! 高虎! 佐助! 早く追い出せ! この女を、今すぐ里から追い出せッ!!」
万福丸の絶叫が、冬の甲賀の空に響き渡る。その滑稽な姿に、高虎は「なんと深い演技だ」と戦慄し、佐助は「御意!!」と冴衣を排除し、喜三郎は「万福丸様ぁぁ!!」と泣き叫び、冴衣は愉快そうに跳ねるようにして去っていった。
経済という名の「虫」が、今、近江の地を塗り替えようとしていた。
【時任昆虫教室:其の十七 ― 殻に篭る黄金、真紅の鎧・ラックカイガラムシ ―】
万福丸、その樹液を吸う赤い粒を侮るな。奴らが枝を覆い尽くす時、そこにはお前の軍勢を支える「覇者の色」と、敵を圧する「不滅の鎧」が結実しているのだ。
・真紅の理:樹脂を精製する過程で抽出される赤い色素は、古来より「臙脂」として珍重されてきた。布を染めれば、色褪せぬ鮮烈な真紅が宿る。昭和の私の時代でも、合成染料に負けぬ天然の深みとして、王侯貴族の衣を彩ってきた「高貴な赤」だ。
・皮膜の理:こいつらが身を守るために分泌する樹脂は、精製すれば「セラック」という最高級の天然コーティング剤になる。酒精に溶かして塗れば、瞬く間に硬化して水を弾き、熱を遮る。刀の鞘の防水、火縄銃の防湿……お前の軍備は他国を数十年分追い抜く「近代の硬度」を手に入れるのだ。
その血を「威光」に変え、不快な粘つきを「防壁」に変えろ。真紅の衣を纏い、虫の鎧で守られたお前の軍勢こそ、戦国の戦慄そのものなのだからな。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)




