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戦国昆虫戦記 ―浅井家の長男は、脳内の【昆虫研究家 時任】と乱世を歩む。~名は万福(まんぷく)なのに、知識の代償は「はらぺこ」でした~  作者: つんしー
第三章 甲賀泥底編 〜生き残りと価値の証明〜

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第二十六話 佐助の帰依と、六助の手土産

山の端に沈みかけた夕日が、木々の隙間から赤く差し込んでいた。

 焚き火の火がぱちぱちと爆ぜる中、万福丸は石に腰を下ろし、一日の仕事を終えた疲れを小さく吐き出していた。


 肥溜めと田んぼの管理、猪肉とコオロギの加工。

 幼い身体には過酷な働きであったが、それでもようやく、これから夕餉の段取りに入れる――そう息をついた、その時だった。


「……若様、お下がりを」

 背後に控えていた高虎が、一切の予備動作なく刀の鯉口を切った。その冷ややかな視線は、万福丸の頭上、夕闇に沈みかけた大木の梢に向けられている。


「……流石は藤堂高虎殿。俺の『息継ぎ』の微かな変調を拾うとは」

 声とともに、音もなく一人の少年が舞い降りた。

 枯れ葉一枚揺らさぬ完璧な着地。漆黒の装束に身を包んだその少年は、一分の隙もない佇まいで万福丸の前に片膝をついた。年齢は万福丸とそう変わらぬ、十か十一ほどに見える。


「何者じゃ」

 万福丸が低く問うと、少年は静かに面を上げた。

「甲賀五十三家が一つ、三雲一族の佐助と申します。……叔父である三雲成持より、浅井の御嫡男たる貴方様の動向と、甲賀に来た真意を探れと命じられ、数ヶ月間、監視しておりました」


「……三雲の忍びだと!?」

 喜三郎が激昂し刀に手を掛けるが、佐助は一瞥もくれず、ただ万福丸の眼差しだけを真っ直ぐに射返した。

「俺は、精神論ばかりの古い甲賀の掟に絶望していました。だが、貴方様は違った。極限の飢餓と苦痛にのたうち回り、自らの命を薪にくべてまで、天のことわりを引きずり下ろしておられた」


 佐助の言葉に、高虎の目が微かに見開かれる。

「叔父の目は腐っている。あの泥の底にこそ、新時代の理がある。……俺は一族を捨て、貴方様の『影』となることを選びました。どうか、……あるじ、俺の身体能力と知識、すべて主の理を体現するための手足としてお使いください」

 エリート忍の、あまりにも唐突で狂気じみた帰順。


(……何やらとんでもなく思い込みの激しい奴が来たぞ……。だが、高虎の目すらかいくぐる技量。手駒としては極上だ)

 万福丸が内心で値踏みし、鷹揚に頷こうとした――まさにその時。


 茂みががさりと揺れた。


「万福丸様ぁ!」

「おーい、帰ったぞ」


 冴衣と、ひとりの丸々と太った少年が並んで姿を現した。


「……ぬ?」

 万福丸は思わず眉をひそめた。

 冴衣の隣にいるその少年は、頬がぷっくりと膨れ、腹回りもふくよかで、歩くたびに身体がぷるんと揺れる。


(……誰じゃ、この丸いのは)


 しかも、その少年が得意満面に掲げていたものを見た瞬間――。


「…………ッ!!」

 万福丸の顔から、すっと血の気が引いた。


 それは、巨大な蜘蛛――オニグモ、こいつはアシダカグモよりも胴体(可食部)が大きい。

 長い毛の生えた八本の脚が、夕暮れの中でカサカサと蠢いている。


「き、貴様……ッ!!」

 万福丸は石から転げ落ちるように立ち上がった。

「何者だ!? このような気色の悪いものを持って、わしに何をする気だ!!」


 丸い少年は、ぽかんと目を丸くした。

「え……?」

「近寄るな! それ以上進めば、叩っ斬ってやる!!」


 少年はしばし固まった後、みるみるうちに目を潤ませた。

「えっ……お、おいらだよ……?」

「……何?」

「六助だよ! 万福丸様!」


 一瞬、沈黙。

 万福丸はまじまじと見つめた。

 以前、骨と皮ばかりで倒れ伏していたあの忍びの子供の面影など、ほとんど見当たらない。

 だが、目元に、確かに面影はある。かつて痩せ細っていたあの子供が、今や山栗のように丸々としている。


「……ろ、六助?」

「うん!」

 六助は嬉しそうに何度も頷いた。

「冴衣がさ! 万福丸様はこういう大きい蜘蛛が大好物だって教えてくれたんだ!だから、おいら一番立派なのを捕まえてきた!」


「…………」

 万福丸の首が、ぎぎぎ、と冴衣へ向いた。

 冴衣は堪えきれず、腹を抱えて笑い出した。


「あっはははは! やっぱ駄目か!」

 焚き火の前で膝を叩く。

「ほんっと情けねえな、お前! 昼間は偉そうに皆に指図してんのに、蜘蛛一匹でその顔かよ!」


「おぬし……!」

 万福丸の肩が怒りと恐怖で小刻みに震える。


「虫だの百足だのを見つけるたびに顔を引きつらせてるくせに、よくまあ平気な顔してるよな」

 冴衣はさらに煽る。

「そのうち、里の皆に『万福丸様は蜘蛛で気絶する』って言いふらしてやろうか?」


「やめぬかぁぁ!!」


 その時、万福丸と冴衣たちの間に、一陣の黒い風が割り込んだ。佐助である。


「――気安く主に近づくな、街のドブネズミが」

 佐助の指先には、音もなく抜かれた苦無くないが冴衣の喉元へと向けられていた。その冷徹な殺気に、冴衣の笑い声がピタリと止まる。

「なっ……なんだいお前!? どこから湧いて出た!?」

「不潔で非効率な手段しか持たぬ女狐め。その汚らしい虫ごと、主の視界から消えろ」


 ――おお!

 脳内で時任が歓喜の声を上げた。

 ――オニグモじゃないか! 極上だぞ! 味は、茹でたての枝豆、蜘蛛界の特上品だ!


(黙れぇぇぇ!!)


 ――外殻を傷つけるなよ! 関節の可動域を活かしたまま、糸で脚だけを拘束しろと命じろ!


 万福丸は涙目になりながら、時任の理不尽な要求を叫んだ。

「さ、佐助! 殺すな! そ、その蜘蛛の……外殻を傷つけず、脚の関節だけを活かして拘束せいッ!」


「……!」

 その極めて具体的で異常な「生物学的指示」に、佐助の目が驚愕に見開かれた。

(なんという緻密な生体把握……! ただ殺すのではなく、素材の鮮度と構造を完璧に維持せよと!?)

「……御意!!」

 佐助は宙に舞い上がると、目にも留まらぬ速さで細い鋼糸を放ち、六助の手から蜘蛛だけを瞬時に弾き飛ばし、空中で八本の脚の関節だけを完璧に縛り上げて地面へ着地させた。外殻には傷一つない、神業のような捕縛術だった。


 ――素晴らしい! あの忍び、俺の要求を完璧に理解しやがった! 最高の助手だ!

 時任が脳内でスタンディングオベーションを送るが、万福丸は完璧に拘束されて目の前に置かれた巨大グモを見て、泡を吹きそうになっていた。


 六助はそんなやり取りを見ながら、きらきらした目で万福丸を見つめていた。

「嫌いだからって放り捨てたりしないんですね。やっぱり万福丸様はすごいなぁ」


「違う!こんなもの、投げ捨てたいわ!」

 だが六助の耳には入っていない。


「おいら、あの時、本当に死ぬかと思ったんだ」

 少し真顔になる。

「あの時、万福丸様が助けてくれた。あの時のこと、ずっと忘れない」

 万福丸の表情が少し和らぐ。

「だから、おいら、万福丸様のためなら何でもするよ。命だって惜しくない」


「それはならぬ」

 万福丸はきっぱりと言った。

「おぬしの命は、おぬしのものじゃ。軽々しく差し出すな」


 その言葉に、六助はぐっと唇を結んで頷いた。

「うん!」

「しかし、何でもすると言ったのは嘘では無いな?」

 万福丸の目が、すっと細くなる。

「……うん」


(……ふ。喜三郎に次いで、都合の良い手駒が増えた。こき使ってやるぞ。)


 少し離れた場所で、その様子を見ていた高虎が静かに目を細めた。

(……やはり)

 冷たい眼差しの奥で思考が巡る。

(この御方は、人の心を掴むのがあまりにも自然だ。子供一人の忠義すら、命として返す)

「……流石にございます」

 高虎は低く呟く。

「ただ生き残るのみならず、人を繋ぎ止める言葉を持っておられる」


 その横で、遠藤喜三郎が突然ぼろぼろと涙を流した。

「おおお万福丸様ぁっ!!」

 膝から崩れ落ちる。

「なんとお優しい……! このような庶民の子にまで、かような慈悲深きお言葉を……!」


「喜三郎、泣くな、鬱陶しい!」

「若様のお心は海より深い……!」


 冴衣はそんな一同を見て、呆れたように鼻で笑った。

「……なんだこいつら」

 蜘蛛が転がる地面を見下ろす。

「蛇みたいな目つきの男は勝手に感心してるし、でかい男は泣いてるし、新入りの生意気なガキは蜘蛛を縛って跪いてるし」


 そして、にやりと万福丸を見た。

「で?」

 冴衣が悪戯っぽく笑う。

「結局、食うのか?」


「…………ッ!!」

 万福丸の瞳に涙が浮かぶ。


(嫌じゃ!!)

 ―― 食え。

 時任が冷酷に囁く。



「……………よ、よかろう」

 万福丸は震える声で言った。

「あ、脚だけなら……炙れば……だ、大丈夫だ……」


「おお!」

 六助の顔がぱっと輝く。

「やっぱり万福丸様はすごい!」


「お労しやぁぁ!!」

 喜三郎号泣。


「覚悟のほど、見事」

 高虎感心。


「あっはははは! 無理すんなよ、声が震えてんぞ」

 冴衣大爆笑。


 そして、佐助が真剣な顔で万福丸を見上げた。

「主。この極上の味覚と理、俺も深く理解いたしました。……明日より、この裏山に潜む同型の蜘蛛を、俺が一日十匹、必ず生け捕りにしてまいりましょう」


「やめろぉぉぉッ!!!」


(時任……もう、嫌じゃ、本当に腹を切るぞ……)

【時任昆虫教室:其の十四 ― 網を張る鬼、里の珍味・オニグモ ―】


万福丸、その禍々しい模様に怯むな。軒先や枝間に堂々と居を構えるこの「鬼」こそ、お前の血肉となるべき良質な脂質の塊だ。


・美食の理(森の豆):腹を割ってみろ。そこには濃厚な緑の身が詰まっている。炙れば皮は香ばしく、中身はまるで「茹でたての枝豆」のようなクリーミーな旨味が広がる。昭和の山間部でも、物好きな研究者はこれを「クモ界の特上品」と呼んでいた。

・生存の理:奴らは網の中心に鎮座している。場所さえ覚えれば、毎日決まった時間に「収穫」が可能だ。毒を恐れるな。熱を通せば、それはお前の知略を支える無害なエネルギーへと変わる。


姿に惑わされるのは凡愚のすることだ。構造を理解し、その中身を啜れ。鬼を食らい、鬼の如きしぶとさを手に入れるのだ。


(昭和初期の昆虫研究家・時任)

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