第二十七話 晩秋の亀裂
天正二年(一五七四年)十月
織田軍の猛攻により、甲賀の入り口に位置する要衝・石部城が落城した。この敗報は、自治を誇る甲賀の山々に戦慄を走らせる。
収穫を終えた甲賀の里には、冬の到来を前にした静寂ではなく、内側から爆発せんとする不穏な殺気が満ちていた。
この年、近江を襲った極烈な日照りは、織田の支配下のみならず、この甲賀の隠れ里をも等しく焼き尽くしていた。万福丸が管理した田は、時任の導きによって奇跡的な実りを見せたが、それ以外の田の収穫は見るに耐えぬ惨状であった。
約束通り収穫の七割を筆頭当主・望月へ返却したとて、壊滅的な凶作に見舞われた里全体の飢えを癒やすには心許ない。対して、従える家臣が片手で数えるほどしかおらぬ万福丸の手元には、三割の取り分が手つかずの『余剰米』として積み上がっていた。
飢餓に喘ぐ里において、その黄金の米袋は、単なる食糧を超えた支配の種と化していたのである。
寄合所では、甲賀五十三家の筆頭当主・望月吉棟を囲み、有力な当主たちが車座になっていた。上座には、石部城を追われ、泥と返り血に汚れたままの姿で咳き込む近江の旧守護・六角承禎様と、その嫡男・義治様が座していた。
万福丸にとって、これがかつての南近江の主との初顔合わせであった。泥を啜り、汚物にまみれて再起を狙う十歳の少年。対して、泥にまみれて全てを失い、なおも錦の御旗にしがみつく老いた守護。両者の視線が、晩秋の冷気の中で交錯した。
「望月殿、もはや猶予はござらぬ。織田の耳には既に、この里に隠された『余剰米』の話が届いております」
口火を切ったのは、美濃部茂濃であった。その手には、織田の調略の窓口である山岡景友から密かに届いた書状が隠されている。
「信長公は、石部から逃れられたお館様――六角様の身柄は元より、その蓄えられた米を根こそぎ差し出すよう求めておられる。このままでは、この里は焼き払われますぞ」
「美濃部! 貴様、織田の脅しに屈してお館様を売るか!」
当主の一人、三雲成持が激昂し、刀の鯉口を切る。だが、美濃部は冷笑を浮かべ、末席に座る万福丸を指差した。
「……万福丸。貴様が溜め込んだその不浄の米を差し出せば、お館様の件はさておき、少なくともこの里が焼き払われるという最悪の危機だけは脱することができるのだ」
座敷の空気は一触即発。筆頭当主・望月は苦渋に満ちた表情で沈黙し、どちらの側に付くべきか、その天秤を揺らしていた。
末席の万福丸は、時任の「知識」を得る代償として、激しい低血糖に襲われていた。胃が自らを食い破るかのような飢餓感に脂汗が止まらない。
――「(おい万福丸、落ち着け……今は観察に徹しろ。……美濃部の野郎、必死に扇子を動かしているが、その風に乗って『シバンムシ』がこちらに流れてきている。あいつ、織田の使者から受け取った『密書』を、今まさに懐に隠し持っているぞ)」
「……美濃部殿」
万福丸が、震える声を無理やり抑えて立ち上がった。
「里を思う心だけは、認めてやろう。……だが、織田へ差し出す『手土産』は、既に貴殿の懐の中で蠢いているようだな。その紙の匂いと虫を連れた『密約』が」
万福丸の冷徹な指摘に、美濃部の顔が引き攣った。
「……何をデタラメを!」
「佐助。……やれ」
万福丸が短く、鋭い声で命じた。
傍目には唐突な指示に見えたが、すでに万福丸の『影』として魂を預けた佐助にとって、その命は呼吸を合わせるよりも容易なことであった。かつてのエリート忍としての誇りも一族への義理も、今の彼には無意味だ。ただ、主の邪魔を消し去る「物理的な牙」として、佐助は一分の迷いもなく闇に溶けた。
天井から音もなく、一条の影――三雲佐助が美濃部の背後に滑り落ちた。美濃部が叫ぶ暇もなく、佐助の細指が懐から一本の経筒を抜き取る。
中から現れたのは、六角親子の首と引き換えに、美濃部を「甲賀の守護代」に任じ、万福丸の米を安堵するという信長からの連署状であった。
成持が激昂し、美濃部を睨みつける。だが、その燃えるような憤怒の眼差しは、次いで、万福丸の傍らに音もなく控える佐助へと向けられた。かつては一族の、そして己の手足として育て上げた最高傑作。その麒麟児が、今や自分の号令ではなく、ただ眼前の少年の微かな気配にのみ応じ、その影に徹している。己の手から完全に零れ落ち、万福丸に魂を預けた甥の姿を目の当たりにし、成持はその顔を隠しようのない苦渋に歪めた。
「……三雲殿、もはや感情の刻ではござらぬ。……美濃部殿が算盤を弾き違えたのは、裏切りそのものではなく、その『代価』の見極めにございます」
静かに口を開いたのは、山中長俊であった。僧形の彼は、数珠を操ることもなく、ただ帳面を検めるような冷徹な眼差しを万福丸に向けている。
「万福丸、いや万福丸殿。……貴殿の持つ米は、織田への恭順を示すには十分すぎる量。だが、貴殿はそれを安易な降伏に使おうとは思っておらぬようだ。その異形の知識をもって、甲賀の在り方そのものを根底から作り替え、織田と渡り合う腹積もりであろう。……それは算術を超えた、誠に危うき劇薬の策にございますぞ」
山中は万福丸の意図を瞬時に見抜き、その危うさに微かな愉悦を滲ませて微笑した。
その重苦しい沈黙を破ったのは、筆頭当主・望月吉棟の、地を這うような低い声であった。望月は座を圧する威厳とともに立ち上がり、裏切り者の当主を冷徹に射抜く。
「……美濃部茂濃。甲賀当主筆頭として、この望月が預かる。貴様の沙汰は六角様とも相談の上、後日下す。……今は屋敷に蟄居せよ。一歩でも外に出れば、即座にその首を撥ねる!」
震える美濃部が連れ去られた後、万福丸は上座の六角親子へ向き直り、先ほどまでの冷徹な覇気を見事に隠して、深く平伏した。
「……承禎様、義治様。御前を汚した非礼、平にご容赦を。石部を追われ、さぞやご無念であったこととお察しいたします。ですが、ご安心くだされ。この甲賀の山々は、決して名門・六角家を見捨てはしませぬ」
万福丸の唐突な恭順の姿勢に、座敷の空気が戸惑いに揺れる。
「浅井の小僧よ……。貴様、我らを織田へ売らぬと申すか?」
承禎が疑わしげに問うと、万福丸は顔を上げ、淀みない笑みを浮かべた。
「当然にございます。我が亡き父・長政も、近江の真の主は六角家であると常々申しておりました。どうかこの隠れ里にて、再び御旗を高く掲げ、我ら反織田の『要』として君臨していただきたく存じます。……兵糧と実務につきましては、微力ながらこの万福丸めが泥を被り、全て手配いたしますゆえ」
その言葉に、承禎と義治の顔にパッと安堵と傲慢の色が戻った。
「おお……! 左様か、浅井の遺児よ、見上げた忠義である! やはり我ら名門の威光は、この近江の地に健在ということよ!」
義治が高笑いし、承禎も鷹揚に頷く。彼らは完全に「便利な実務担当の忠臣を得た」と勘違いし、上機嫌で奥の座敷へと下がっていった。
六角親子が去り、座敷に再び静寂が落ちる。
万福丸の背後で控えていた高虎が、冷たい息を吐いた。
(……恐ろしい御方だ。あの無能な親子を上座に縛り付け、織田の怒りを全て被らせる『極上の避雷針』として利用するおつもりか)
残された筆頭当主・望月は、深い疲労と、それ以上の「飢え」を瞳に宿して万福丸に歩み寄った。美濃部という物流の要を失い、織田の包囲を前にして里が冬を越すには、目の前の少年が独占する兵糧が不可欠であった。
望月は当主としての矜持をかなぐり捨て、万福丸の前に膝を突いた。
「万福丸。……六角様を神輿として隠れ蓑にする腹積もり、見事である。だが、織田は容赦なくこの山を囲むだろう。……徹底抗戦を貫くには、もはや我ら武人の槍だけでは足りぬ。頼む……お主が隠し持つあの『三割の米』と、その異形の知恵。それを、この甲賀を救うために貸してくれ。懇願いたす」
――「(おい、当主が頭を下げたぞ。……万福丸、ここが『汚物処理の稚児』から『甲賀の実質的な支配者』へ成り上がる、決定的な分岐点だ)」
万福丸は、激しい空腹を抱えたまま、冷徹な覇者の瞳で望月を見下ろした。
「顔を上げよ、望月。……いや、今はまだ望月殿と呼んでおこうか
この山を救うのは、もはや武勇ではなく、泥を啜るような『生存の法則』だ。……我らと共に、その深淵へ踏み込む覚悟はあるか」
【時任昆虫教室:其の十五 ― 秘密を暴く死神、書物の天敵・シバンムシ ―】
万福丸、扇の風を読め。鼻を突く古い紙の匂いと、風に乗って舞う「茶褐色の粒」……。それは敵が隠し持つ「秘密」が、内側から食い破られている証拠だ。
・侵食の理(探知の理):名は「死番虫」。乾燥した穀物だけでなく、古い和紙や糊、骨董の木材を好んで食らう。こいつが飛んでいるということは、すぐ近くに「手入れの悪い古い書物」や「蔵出しの品」があるということだ。
・露見の理:懐に密書を隠していても、シバンムシの食害は止められぬ。扇子で風を送れば、粉砕された紙屑や成虫がこちらへ流れてくる。敵が何を隠し、どこから情報を得たか……この小さな「死神」がお前に教えてくれるのだ。
姿は見えずとも、虫の動きが「嘘」を暴く。博物学とは、時にどのような忍びの技よりも鋭く、敵の懐を透かし見る眼となるのだ。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)




