第二十五話 泥底の理と、黄金の稲穂
天正二年(一五七四年)正月。
浅井万福丸は、数えで十歳になった。
小谷の落城から三ヶ月。父・長政は自害し、浅井の血を継ぐ男子は今や自分一人である。流浪の身で迎えた二桁の年齢。それは、稚児としての甘えを捨て、泥を啜ってでも生き延び、一族の執念を繋ぐ「男」としての覚悟を彼に強いた。
(……十歳か。父上、わしはまだ底知れぬ泥の中にいます。だが、この泥を必ず黄金に変えてみせましょう)
里の奥まった、岩肌をくり抜いたあの巨大で無骨な寄合所。万福丸は、甲賀の筆頭格である望月吉棟ら、各家の当主たちの前に再び立っていた。
万福丸のすぐ背後には、藤堂高虎と喜三郎が影のように控えている。高虎は、上座の大人たちが放つ隠しきれない殺気と蔑みを、冷徹な眼差しで押し返していた。
「……万福丸。肥溜めにまみれてなお、その不遜な面構えは崩れぬか。浅井の意地というよりは、もはや病に近いな」
望月吉棟が、地を這うような低い声で吐き捨てた。その横で、懐から取り出した扇子で露骨に鼻を覆った美濃部茂濃が、嘲笑を浮かべて言葉を継ぐ。
「……正月早々、肥臭い。汚物塗れの稚児など、我ら甲賀の益にはならぬ。やはりこの小僧はただの狂い児であったか」
――「(おい万福丸。連中の顔色より、この冬の異常な暖かさと湿度の変化に気づけ。講義を始める、受け取れ)」
脳内の時任が、冷徹な分析を告げる。万福丸が、時任の脳内にある異質な知見に深く触れた、その瞬間だった。
「……っ、が……ッ!」
突如、万福丸の体内から急速に熱が奪われた。戦国には早すぎる複雑な知見を脳が処理する代償として、体内の糖分が猛烈な勢いで燃焼し、消えていく。胃袋が自らを食い破るかのような、耐え難い、狂おしいまでの空腹。脂汗が噴き出し、膝の力が抜けかける。
「若様!?」
背後で、高虎がわずかに身を乗り出した。主君の異常な震えを察知し、その手はすでに刀の鯉口に掛かっている。今にもこの場を斬り破ってでも、万福丸を救い上げようとする鋭い殺気が立ち昇った。
「……案ずるな、高虎」
万福丸は、意識を刈り取るほどの飢餓感に耐え、脂汗を流しながら片手で高虎を制した。そして、ふらつく足取りのまま望月吉棟の目の前まで歩み寄ると、なんと上座の盆に供えられていた正月の丸餅と干し柿を、泥のついた手で鷲掴みにした。
「なっ、何をする稚児ッ! 神仏への供え物を!」
激怒し立ち上がろうとする当主たちを完全に無視し、万福丸は干し柿を獣のように貪り食い、固い丸餅を強引に噛み砕いて喉の奥へ押し込む。急激に失われる糖分(燃料)を強引に補給しながら、ギラついた飢えた瞳で当主たちを睨みつけた。
「……喰わねば、死ぬゆえな。望月殿、三雲殿……。今年の夏、西国では雨が一滴も降らぬ大干ばつとなる。そしてその異常な熱気に乗って、『稲を喰らう悪鬼』の雲がこの近江へ押し寄せる……。わしの管理する田以外は、すべて赤茶けて枯死するだろう」
――「(……いいぞ万福丸。俺が趣味で読み漁った歴史の記録によれば、この天正二年は西国を中心に一滴の雨も降らない『大干ばつ』が起きる。歴史上の事実だ。そしてその異常な高温と少雨は……生物学的に言えば、枯れ草で越冬したウンカやヨコバイが爆発的に増殖する絶対条件となる。お前が肥溜めで発酵させた『堆肥』の窒素分と、俺が教える生態系の管理術。それを『神の兵法』として売りつけろ)」
「望月殿……賭けをせぬか」
万福丸は、口の周りに白い餅の粉をつけ、激しい空腹に眩暈を起こしながらも、望月吉棟の鋭い瞳を射抜いた。
「わしに一部の田を任せよ。予言が外れ、収穫が減れば、わしの首を織田に差し出せ。だが、もしわしの田だけが生き残れば……収穫の三割を、わしの直轄とする。文句はなかろう、臆病者の集まりども」
座敷の空気が爆発しそうなほどの殺気に満ちた。狂行としか思えぬ振る舞い。だが、己の首を平然と盤上に乗せるその底知れぬ胆力と、一切の迷いがない眼光に、望月吉棟は微かに目を細め、口角を上げた。
「……よかろう。浅井の稚児が泥の中で何を掴んだか、見せてみろ」
その一部始終を、天井裏の暗闇から、己の気配を完全に断って見下ろす影があった。自らの命を薪にくべて天の理を引きずり下ろす凄絶な姿に、影はかつてない深い畏怖を抱き始めていた
五月、田植えが終わった田に、万福丸は奇妙な命を下した。
「畔の草を刈りすぎるな! クモの巣を絶対に払うな! そして、水路を開いて田にカエルを呼び込め!」
「そ、そんな阿呆な! 畔草を刈らねば見栄えが悪うごぜぇますし、虫が湧きますだ!」
農民たちは猛反発したが、万福丸は一喝した。
「黙れ! この草葉はクモの城となる! これらは山の神より授かりし、虫を以て虫を制する兵である!」
――「(……博物学的に言えば『生物的防除』だ。畔草を残すことで、害虫が大発生するより先に、土着のクモやカエルを定着させ生態系を構築する。これが最高の防波堤になる)」
(……黙れ時任。田んぼがクモの巣とカエルだらけなど、想像しただけで総毛立つわ……ッ!)
内心で強烈な鳥肌を立て、涙目になりながらも、万福丸は決して外面の威厳を崩さなかった。一度命を削ってその仕組みを脳に刻んだ以上、退くわけにはいかなかった。
そして盛夏。万福丸の予言――いや、時任の持つ歴史記録の通り、西国を異常な大干ばつが襲った。
その殺人的な熱気と少雨は近江にも甚大な影響を及ぼし、極端な気候を待っていたかのように、近江全域に害虫の大群が襲来した。
周辺の村々からは絶望の悲鳴が上がる。手塩にかけた稲は容赦なく吸汁され、黄金色になる前に次々と赤茶けて枯れ果てていく。
だが、万福丸が管理する田だけは、異常なほどの生命力を放っていた。
保護された無数のクモが稲の間に網を張り巡らせ、飛来する害虫を次々と絡め捕る。足元の水辺では丸々と太ったカエルが跳ね回り、侵入する虫をその長い舌で根こそぎ食い尽くしていく。狂気とも思えた畔草が、完璧な防衛陣地として機能していたのだ。さらに、万福丸が嫌悪を押し殺して溜め込ませた糞尿の山――それが時任の知恵によって完熟の肥土へと転じ、大地を内側から震わせていた。その滋養を吸い上げた稲穂は、周囲の田が霞むほどに青々と、力強く天を突き、目前に迫る秋には未曾有の収穫を予感させるほど、たわわに頭を垂れようとしていた。
「……信じられん。周囲の田は全滅だというのに」
視察に訪れた高虎が、青々と輝く万福丸の田を見て、背筋に冷たいものを感じて震えた。
「若様は……目に見えぬ小さな命すら盤上の駒として操り、我らだけを富ませる『天理』を完全に支配しておられるのか……。なんと恐ろしき神算鬼謀か」
その傍らで、喜三郎は水路の前にしゃがみ込む万福丸の背中を見て、またしても号泣した。
「見ろ、高虎! 若様は泥にまみれながらも、この奇跡を一人で準備しておられたのだ! あのお姿……今は山の神の使いであるカエルと語らい、深く感謝の念を捧げておられるに違いない! 浅井の執念に、神仏すらも味方しているんだ!」
だが現実の万福丸は、目の前で喉を鳴らす巨大なツチガエルと視線が合ってしまい、極度の恐怖と嫌悪で完全に硬直しているだけであった。
(……こっちを見るな……跳ねるなよ、絶対にわしに向かって跳ねるなよ……ッ!)
――「(……慈悲でも神仏でもない。単なる生態系の最適化だ。お前の家臣を養うための、最低限の食糧安保だよ)」
脳内で時任が冷笑するが、万福丸は硬直したままそれを無視し、重く垂れ始めた稲穂を震える瞳で見つめた。
「……時任。不潔なものは死ぬほど嫌いだが、この『成果』の匂いは……悪くないな」
――「(……当然だ。あれはゴミじゃない。お前の再起を支える、富と食糧の山だと言っただろう?)」
十歳の少年の瞳には、泥底から時代を飲み込もうとする、覇者の光が確かに宿り始めていた。
【時任昆虫教室:其の十三 ― 闇夜の音楽家、陸のエビ・コオロギ ―】
万福丸、その鳴き声に風流を感じる余裕があるなら、まず指を動かせ。闇夜に潜むこいつらは、飢えたお前の細胞が渇望する「良質な脂質とタンパクの塊」だ。
・美食の理(陸のエビ):殻を剥き、軽く炙ってみろ。昭和の私の研究室でも、その香ばしさは「川エビ」に酷似していると結論づけた。サクサクとした食感の後に広がるナッツのような濃厚な旨味は、そこらの野草を齧るより遥かに効率的な栄養摂取となる。
・生存の理:逃亡者にとって、音を立てる獲物は「場所」を教えてくれる親切な供給源だ。美声を愛でる暇があるなら、その「音の主」を捕らえ、血肉に変えろ。お前の喉を鳴らすのは、雅な歌ではなく、生命を繋ぐこの「陸の美味」であるべきだ。
風流で腹は膨れぬ。美しき声を出すその「筋肉」こそが、明日を生き抜くための糧だ。貪り食い、その跳躍力をお前の脚力へと変えるのだ。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)




