初めての空は、低くて広い
ご覧いただきありがとうございます。
左後部姿勢制御噴射口の異常から、四日が過ぎた。
交換された制御弁は、格納庫脇の解析室で何度も分解され、部品の一つ一つが調べられた。
機械的な破損はない。
配線の焼損もない。
圧力調整機構にも異常はない。
それなのに、噴射口は停止命令を受けてから〇・四秒間、作動を続けた。
時速数キロの低速移動だったから、機体は三度傾いただけで済んだ。
高速飛行中なら、〇・四秒は十分に長い。
場合によっては、機体を制御不能へ陥らせる。
「やっぱり、私の信号が遅れたんじゃない?」
格納庫の整備卓に置かれた制御弁を見ながら、私は尋ねた。
「違う」
アルフォンスは端末から目を上げなかった。
「リサの停止命令は正常に届いている。グライフの機体制御系も、正しく停止信号を出した」
「では、なぜ止まらなかったんですか?」
「別の命令が割り込んだ」
整備卓の周囲にいた全員が黙った。
ノア。
バルド班長。
ドロテア技師。
ヘルガ少佐。
そして、少し離れた場所に立つヴィオラ中尉。
「別の命令?」
私はアルフォンスの端末をのぞき込んだ。
複雑な数字と記号。
私にはほとんど理解できない。
「グライフが送った停止信号の直後、噴射継続を指示する信号が発生している」
「誰かが外から操作したの?」
「外部侵入の記録はない」
『ありません』
グライフの声が格納庫へ響く。
『試験中、私の制御領域へ外部から接続した形跡は存在しません』
ヘルガ少佐が腕を組む。
「なら、機体内部から発生したのか」
「その可能性が高い」
アルフォンスが表示を切り替える。
「信号の送信元は、特殊インターフェース領域」
全員の視線が私へ集まった。
「私専用の?」
「そうだ」
グライフには二種類の神経接続装置が搭載されている。
通常のパイロットが使用する一般規格。
そして、私の身体に埋め込まれた特殊端子へ直接つなぐ専用規格。
「でも、私は噴射を続けようなんて思ってない」
「分かっている」
「では、特殊インターフェースが勝手に?」
「それも違う」
アルフォンスの声が硬くなる。
「特殊インターフェースの中に、僕の知らない制御領域がある」
「あなたが設計したんでしょう?」
ヴィオラ中尉が尋ねる。
「基本構造とグライフ側の受信系統は僕が設計した。しかし、完成した実機には設計図に存在しない処理層が追加されている」
設計図にない。
その言葉が、身体の中へ冷たく沈んだ。
「誰が追加したの?」
「記録が消されている」
まただ。
私の身体に埋め込まれた端子。
消された製造番号。
閲覧できない手術記録。
志願前に作成されていた搭乗候補者記録。
そして、設計者すら知らないグライフの制御領域。
「リサの手術を行った者と、同じ人間でしょうか」
ノアが低い声で尋ねる。
「断定できない」
アルフォンスはすぐに答えた。
「ただし、特殊端子と追加処理層の通信規格は一致している」
「偶然ではないな」
ヘルガ少佐の声が一段低くなる。
「リサの身体とグライフが、最初から一組として用意されていた可能性がある」
「少佐」
ノアの顔から血の気が引いた。
「まだ可能性だ」
「でも……」
ノアが拳を握る。
「リサが事故に遭う前から、この機体は開発されていたんですよね」
「グライフ計画の開始は事故の三年前だ」
アルフォンスが答える。
「特殊インターフェースの基礎設計も、事故前に存在していた」
「それなら、事故の後にリサを選んだ?」
「あるいは」
アルフォンスが言葉を止めた。
私の胸が冷たくなる。
「事故そのものが、私を選ぶためだったって言いたいの?」
「断定していない」
「可能性はあるんでしょう?」
「現時点では何も分からない」
アルフォンスの言い方はいつもどおりだった。
証拠がないことを事実にはしない。
けれど、それが今は苦しかった。
事故機の姿勢制御系統は、複数の装置がほぼ同時に故障した。
原因は偶発的な複合故障。
誰かが故意に起こした証拠はない。
それでも、もし。
私をグライフへ乗せるために。
私の身体を作り替えるために。
事故を――。
「リサ」
ノアが私の肩へ手を置く。
「今、考えなくていい」
「でも」
「証拠がない」
自分へ言い聞かせるような声だった。
「今は、勝手に一番悪い可能性を事実にしない方がいい」
私は頷こうとした。
けれど、首がうまく動かなかった。
『リサ』
グライフの声がした。
『私の内部情報を開示します』
アルフォンスが顔を上げる。
「何?」
『追加処理層の解析権限を、アルフォンスへ付与します』
「今までは拒否していただろう」
『当該領域がリサの安全を損なう可能性を確認しました』
「中枢人格領域への影響は?」
『解析中、私の人格モデルが停止する可能性があります』
「駄目」
考えるより先に声が出た。
「グライフ、今すぐ権限を戻して」
『リサ』
「人格が消える可能性は?」
『恒久的損失の可能性は低いと判断します』
「ゼロじゃないんでしょう」
『はい』
「なら駄目」
黒い機体表面の青い光が揺れる。
『私の内部に、リサを傷つける機能が存在する可能性があります』
「だからって、あなたを危険にしていい理由にはならない」
『私は修復可能です』
「同じグライフに戻れる保証はない」
『安全確保を優先すべきです』
「私の安全だけを優先しないで」
格納庫内に声が響いた。
皆がこちらを見ている。
それでも止められなかった。
「私を守るためなら自分が壊れてもいいなんて、事故のときの私と同じでしょう!」
あの日の私は、自分が死んでも市街地を守ろうとした。
結果として人は助かった。
でも、グライフはそれを失敗だと言った。
搭乗者を失う機体は失敗だと。
「私にだけ、生きろって言わないで」
『私は人間ではありません』
「関係ない!」
『あります。私は軍用兵器です』
「私にとっては違う!」
自分の声が震えている。
目の奥が熱い。
グライフが壊れるところを想像しただけで、息が苦しくなった。
「あなたは私の機体で、私の相棒で……」
それ以上の言葉が、うまく見つからない。
「大切なの」
やっと出た言葉は、それだけだった。
青い光が、静かに止まる。
『大切』
「うん」
『私が、リサにとって』
「大切だよ」
格納庫に沈黙が落ちた。
ノアが私の肩へ置いていた手を、わずかに強くする。
『解析権限の付与を撤回します』
グライフが答えた。
『リサの命令を受諾します』
「ありがとう」
『ただし、追加処理層を完全に放置することもできません』
アルフォンスが端末を確認する。
「外側から信号を監視するだけなら、人格領域へ触れずに済む」
『許可します』
「制御権限は?」
『追加処理層から姿勢制御系統への直接命令を遮断します』
「できるのか?」
『恒久的遮断は不可能です。試験中のみ、私の演算領域を介して監視します』
ヘルガ少佐が尋ねる。
「再発した場合は?」
『即座に対象信号を無効化します』
「それで安全を保証できるか」
『保証はできません』
グライフは言い切った。
『ただし、危険性は前回より低下します』
分からないことを安全だとは言わない。
この子は最初からそうだった。
「少佐」
私はヘルガ少佐を見る。
「次の試験は、中止ですか?」
少佐はすぐに答えなかった。
「お前は、どうしたい」
「飛びたいです」
「機体内部に未知の制御層がある」
「怖いです」
「その状態でもか?」
「はい」
機体の異常。
事故との関連。
自分の身体の秘密。
全部が怖い。
「でも、危険を隠さず、監視して、何か起きたら中止できるなら」
「飛べると思うか?」
「飛べるかではなく、試験で確かめたいです」
ヘルガ少佐が私の顔を見つめる。
「即答はしない。医療、整備、管制で再評価する」
「はい」
「飛行許可が出なくても受け入れろ」
胸が痛んだ。
それでも頷く。
「了解しました」
その日の午後までに、グライフは無人状態で五百回を超える姿勢制御試験を受けた。
追加処理層から各噴射口へ直接命令を送る経路には仮設遮断器が設置され、グライフ自身とは独立した監視装置も二系統追加された。
それでもヘルガ少佐はすぐには許可を出さず、整備、医療、管制の全担当者が再試験可能と判断するまで、私を格納庫へ近づけなかった。
◇◆◇
その日の午後、左方向への再移動試験が行われた。
高度十メートル。
補正率八十パーセント。
追加処理層は、グライフと外部管制の双方で監視。
前回異常を起こした噴射口は交換済み。
結果は正常。
十メートルの左移動を、停止誤差〇・一一メートルで完了した。
異常信号は発生しなかった。
翌日には、同じ試験を補正率七十パーセントで実施。
これも合格。
さらに高度二十メートルでの前後左右移動。
高度三十メートルでの旋回。
すべて、問題なく完了した。
私は少しずつ、地面から離れた状態で動くことに慣れ始めていた。
事故の記憶が消えたわけではない。
横へ動けば、回転する空を思い出す。
高度を下げれば、迫る地表が見える。
エンジン出力が変わる音に、息が止まりそうになることもある。
でも、そのたびに私は報告した。
グライフへ。
管制へ。
ミラ軍医へ。
怖い。
苦しい。
続けられる。
今は止めるべき。
少しずつ、その違いを言葉にできるようになった。
そして、異常から六日後。
私たちに初飛行の許可が下りた。
◇◆◇
「試験内容を確認する」
早朝の作戦室。
正面画面には、メルクーア第九基地周辺の立体地図が表示されていた。
ヘルガ少佐が指示棒で飛行経路を示す。
「垂直離陸後、高度百メートルまで上昇。基地北側の低空試験回廊を一周し、同地点へ帰投する」
飛行距離、約十二キロメートル。
最高速度、時速三百キロメートル。
通常戦闘機なら、飛行と呼ぶのも恥ずかしいほど低速だ。
それでも、地上を離れたまま十二キロを飛ぶ。
事故後初めての、正式な飛行試験。
「随伴機は二機」
少佐が続ける。
「右後方にヴィオラ中尉。左後方にヴァイスベルク大尉」
ヴィオラ中尉とユリウス大尉が頷く。
「管制はイザーク大尉。医療監視はミラ。リンク管理はアルフォンスとドロテア。整備管制はバルド班長とクライン技術兵」
ノアが私を見る。
「試験中止基準は通常より厳しく設定する。機体異常一件。リンク深度七十パーセント超過。搭乗者の応答遅延二秒以上。事故反応による操縦困難。いずれか一つで即時帰投だ」
「了解しました」
「帰投が困難な場合、グライフの自律飛行を使用する」
『リサの操縦継続を優先します』
「判断するのは管制だ」
『生命危機がない限り、管制命令を優先します』
以前なら、グライフは条件をもっと増やしていただろう。
少しずつ、この子も部隊を信頼している。
「エルフォート」
「はい」
「今日の目的は?」
ヘルガ少佐が尋ねる。
「飛行することです」
「不十分だ」
私は考える。
初めての空。
飛びたい。
速度を上げたい。
高く昇りたい。
でも、それが目的ではない。
「予定された経路を飛び、異常を確認し、無事に帰投することです」
「よし」
少佐は指示棒を置いた。
「英雄になるな。記録を作るな。空へ戻ったことを証明しようとするな」
私の胸の中を見透かしたような言葉だった。
「今日は、ただ飛んで帰れ」
「了解しました」
◇◆◇
更衣室で、黒と黄色の耐Gスーツへ着替える。
首。
手首。
太腿。
身体の接続端子がスーツへつながる。
胸部センサー。
呼吸補助。
緊急薬剤注入器。
すべてが正常。
鏡に映る自分は、もう第一航空師団の白い飛行服を着た少女ではなかった。
黒いスーツ。
黄色い線。
胸には、翼の生えたモルモット。
「似合うようになったね」
入口からノアが言った。
「最初は似合ってなかった?」
「最初は、着せられてる感じだった」
「今は?」
「第四部隊のパイロットに見える」
その言葉が嬉しかった。
「まだ少尉候補生だけどね」
「今日、ちゃんと帰ってきたら一歩近づく」
「帰ってきたら、じゃないよ」
「え?」
「帰ってくる」
ノアは少し驚いた顔をしてから、静かに頷いた。
「うん。帰ってきて」
「待ってて」
「整備員は、いつでも待つのが仕事だ」
ノアが私の首元へ手を伸ばし、接続部を確認する。
以前のように過剰に怖がる手つきではない。
整備兵として、丁寧に。
でも、ほんの少しだけ震えていた。
「ノア」
「何?」
「怖い?」
「怖いよ」
「私も」
「知ってる」
「それでも飛んでくる」
「知ってる」
ノアが私の肩を軽く叩く。
「だから、僕はここで待つ」
◇◆◇
グライフのコクピットへ入る。
固定台へ身体を預ける。
右腕。
左腕。
両脚。
腰。
胸部。
固定具が一つずつ閉じる。
胸部固定具が近づいた瞬間、身体が強張った。
ぐしゃり。
潰れる装甲。
折れる骨。
息ができない。
「待って」
『停止しました』
グライフの声。
「事故を思い出した。胸が苦しい。痛みはない。少し待てば続けられると思う」
『飛行を延期しますか?』
「しない」
『正確な判断ですか?』
私は呼吸を整える。
左肺まで空気が入る。
胸は動いている。
今の機体は壊れていない。
「飛びたいからじゃなく、続けられる状態だから続ける」
『確認しました』
「固定して」
『了解しました』
胸部固定具が閉じる。
圧迫。
恐怖。
でも、呼吸はできる。
『固定完了』
コクピットが閉じた。
暗闇。
外部センサーが開く。
格納庫。
試験区画。
朝日。
遠くに広がる空。
『神経リンク開始』
アルフォンスの声。
『上限七十パーセント。外部物理遮断待機。追加処理層監視開始』
深度十パーセント。
翼が戻る。
二十。
動力炉が鼓動する。
三十。
姿勢制御装置が身体の一部になる。
四十。
主翼の表面を流れる風まで感じられる。
まだ格納庫内なのに、外気の微かな動きが分かる。
『五十パーセント』
グライフの声と私の思考の境目が薄くなる。
嬉しい。
怖い。
飛びたい。
帰りたい。
複数の気持ちが、同時にグライフへ流れていく。
『六十パーセント』
左足の遅れが消える。
いや、消えたのではない。
グライフがそこを支えている。
『六十四・七パーセントで固定』
「近いね」
『はい、リサ』
言葉がなくても、この子が私を感じているのが分かる。
『格納庫扉、開放』
巨大な扉が左右へ開いていく。
朝の光が黒い機体を照らす。
『管制よりグライフ。離陸地点への移動を許可』
「了解」
地上走行。
格納庫から外へ出る。
右にヴィオラ中尉の試験機。
左にユリウス大尉の白銀色の機体。
二機はすでに低空で待機していた。
『エルフォート』
ヴィオラ中尉の声。
『聞こえる?』
「明瞭です」
『離陸後、私たちはあなたの左右後方へつく。こちらを意識しすぎないで』
「了解」
『不安なら、すぐに言いなさい』
「はい」
『白鷹よりグライフ』
ユリウス大尉。
『異常発生時、無理に基地へ戻る必要はない。経路上に緊急着陸地点を三か所設定している』
「確認しています」
『帰る場所は基地だけではない。最も安全な地点へ降りろ』
「了解しました」
ヘルガ少佐。
イザーク大尉。
ミラ軍医。
ノア。
ヴィオラ中尉。
ユリウス大尉。
皆が私とグライフを見ている。
一人ではない。
『管制よりグライフ』
ハンナ少尉の声。
『試験空域、異常なし。離陸を許可します』
胸の奥で、何かが震えた。
待っていた言葉。
一年間、何度も夢で聞いた言葉。
「グライフ」
『はい』
「行こう」
『リサと共に』
機体腹部へ力が集まる。
『VTOL出力上昇』
地面の砂が吹き飛ぶ。
主脚への荷重が軽くなる。
『一メートル』
地面を離れた。
『五メートル』
もう慣れた高さ。
『十メートル』
空中移動を覚えた高さ。
『二十』
格納庫の屋根が下がる。
『五十』
基地全体が視界へ入る。
整備員たちが小さくなる。
『百メートル。指定高度到達』
空が広がった。
上だけではない。
前にも。
左右にも。
地平線まで続いている。
一年間、地上から見上げ続けた空。
私は今、その中にいる。
「空だ……」
『はい』
声が震える。
視界が滲む。
泣いている。
でも、外部映像は機体の目だから歪まない。
人間の目と機体の目が、同時に世界を見ている。
『リサ、涙を確認』
ミラ軍医。
「嬉しいだけです。呼吸正常。操縦できます」
『継続を許可』
『前進推力、三パーセント』
グライフの後方推進器へ力が流れる。
前へ。
機体が動く。
地面が後ろへ流れる。
高度は維持。
姿勢は水平。
私は落ちていない。
空中で、前へ進んでいる。
『速度、時速五十キロ』
風が強くなる。
主翼に空気が流れる。
揚力が生まれる。
VTOL噴射出力が低下し、翼が機体を支え始める。
『時速百二十』
身体が少し背中へ押される。
固定具の感触。
事故の記憶が一瞬だけ浮かぶ。
「固定具の圧迫で、少し事故を思い出した。続けられる」
『報告を受領しました』
『時速二百』
基地の外周を越える。
草原。
道路。
遠くの山。
小さな輸送車両。
景色が流れる。
速い。
でも、第一航空師団時代の速度に比べれば、ゆっくりだ。
もっと出せる。
グライフもそう感じている。
動力炉の力は、ほとんど使われていない。
推進器も眠ったままだ。
翼が速度を求めている。
「上げたい?」
『はい』
「私も」
『ですが、試験速度は時速三百キロです』
「守ろう」
『了解しました』
以前なら、互いの欲求が重なれば深度が上がった。
今日は、二人で止める。
『時速三百。試験速度到達』
低空試験回廊へ入る。
地面から百メートル。
左右には安全区域。
前方には最初の緩い旋回地点。
『右旋回。角度十五度』
イザーク大尉。
「了解」
右へ意識を向ける。
グライフが主翼を傾ける。
身体が左へ押される。
事故機が回転した感覚。
空と地面が入れ替わる記憶。
胸が苦しくなる。
「怖さ上昇。右旋回は維持できます」
『姿勢角十五度。高度正常』
グライフ。
「機首を旋回経路へ」
『補助します』
地平線がゆっくり傾く。
でも、回転していない。
制御された旋回。
地面は迫ってこない。
『旋回終了』
翼を水平へ戻す。
胸の苦しさが少し消える。
『状態は?』
ヴィオラ中尉。
「心拍上昇。手の震えはなし。事故記憶は少し出ました」
『正確ね。そのまま報告を続けなさい』
「はい」
直線。
次は左旋回。
左足の神経遅延。
グライフの補正。
私は少し早めに命令を出す。
機体が滑らかに傾く。
高度偏差、〇・四メートル。
『悪くない』
ユリウス大尉の声。
「ありがとうございます」
『評価は着陸後だ。今は前を見ろ』
「はい」
低空回廊の半分を過ぎる。
基地が遠くなった。
十二キロの経路。
今までは格納庫のすぐ近くにいた。
異常があれば、すぐ地面へ降りられた。
今は違う。
周囲には草原。
基地まで数分。
胸の奥に、小さな不安が生まれる。
「グライフ」
『はい』
「基地が遠いね」
『現在距離、三・八キロメートルです』
「何かあったら?」
『最寄りの緊急着陸地点まで一・二キロメートル』
「そうじゃなくて」
『リサが求めている回答を推定します』
少しの間。
『何か発生しても、私はリサと共に着陸します』
「うん」
『一人にはしません』
朝見た夢を、この子も覚えていた。
「ありがとう」
『どういたしまして』
不安が消えたわけではない。
でも、操縦へ戻れる。
『経路折り返し地点』
大きな左旋回。
角度二十度。
今までで最も深い傾き。
地面が斜めに見える。
事故の警告音が頭の奥で鳴りかけた。
「事故記憶、強くなっています」
『旋回角を減少しますか?』
「規定は二十度?」
『はい』
「今は維持できる。悪化したら減らす」
『了解しました』
傾いたまま、地平線を見る。
機首の先。
旋回出口。
ユリウス大尉に言われたように、近くの地面ではなく目的地を見る。
呼吸を続ける。
グライフが高度を維持する。
私は進路を保つ。
『旋回終了』
翼が水平へ戻った。
「できた」
『はい』
喜びが重なる。
その瞬間、リンク深度が上昇した。
『深度六十七パーセント』
アルフォンス。
『自発上昇を確認。抑制を強化する』
「私たちが嬉しくなったから?」
『その可能性があります』
グライフ。
「戻せる?」
『はい』
互いの感情を少し引く。
つながりを切るのではない。
熱くなりすぎた部分だけを静かにする。
『深度六十五・二パーセントで安定』
『よし、そのまま維持』
アルフォンスの声に、少しだけ安堵が混じった。
前方にメルクーア第九基地が見えてくる。
格納庫。
軌道昇降施設。
滑走路。
帰る場所。
「見えた」
『はい』
『管制よりグライフ。最終進入へ移行』
速度を落とす。
三百。
二百。
百二十。
翼の揚力が減り、VTOL系統が再び機体を支える。
高度百メートル。
五十。
地面が近づく。
事故の映像が重なる。
迫る地表。
潰れるコクピット。
身体が固まる。
「怖い」
声が漏れた。
『下降を停止しますか?』
「高度は?」
『四十三メートル』
地面までまだ遠い。
でも、身体は墜落だと叫んでいる。
「少し止めて」
『下降停止』
グライフが空中で静止する。
ヴィオラ中尉とユリウス大尉も左右後方で待機する。
『エルフォート、状態を報告』
イザーク大尉。
「地面が近づくと、事故の最後が見えます。呼吸が速い。機体姿勢は認識できます。操作も可能です」
『着陸を続けられるか?』
続けたい。
ここまで飛んだ。
自分で降りたい。
でも、無理をするな。
英雄になるな。
記録を作るな。
ただ飛んで帰れ。
「グライフ」
『はい』
「高度制御をお願い」
『完全取得しますか?』
「うん。私は着陸地点と機首方向を見る」
『了解しました』
一人で全部やらない。
できない部分を任せる。
『下降を再開します』
四十メートル。
三十。
私は地面ではなく、黄色い着陸地点を見る。
二十。
事故の映像が重なる。
でも、グライフの高度情報を信じる。
十。
機首方向を修正。
左へ〇・三度。
五。
主脚の位置を確認。
二。
一。
接地。
柔らかな衝撃。
機体重量が主脚へ移る。
『全脚接地』
『VTOL出力停止』
『機体姿勢、正常』
通信の向こうで、誰かが大きく息を吐いた。
『管制よりグライフ』
ハンナ少尉の声が、いつもより少し震えている。
『初回低空飛行試験、終了』
私は動けなかった。
固定具の中で、ただ呼吸を繰り返す。
「帰った……」
『はい』
「本当に、飛んだ?」
『飛行距離十二・三キロメートル。最大速度、時速三百・二キロメートル。最大高度百・四メートル』
グライフが淡々と数値を述べる。
『リサは私と飛行しました』
涙が流れた。
「私、空へ戻れた?」
グライフはすぐには答えなかった。
『訂正します』
「何を?」
『リサは、過去の空へ戻ったのではありません』
黒い機体の感覚が、私を包む。
『私と、新しい空を飛びました』
胸の奥に、温かいものが広がった。
「そうだね」
事故前と同じではない。
第一航空師団の機体でもない。
左足には後遺症がある。
墜落は怖い。
着陸の最後は、グライフへ任せた。
それでも飛んだ。
今の私として。
この子と一緒に。
「グライフ」
『はい』
「ただいま」
『おかえりなさい、リサ』
◇◆◇
コクピットが開く。
昇降台の下には、部隊の皆が集まっていた。
ノア。
ヘルガ少佐。
ミラ軍医。
アルフォンス。
ドロテア技師。
バルド班長。
イザーク大尉。
ハンナ少尉。
少し離れたところには、着陸を終えたヴィオラ中尉とユリウス大尉。
固定具が外れる。
右腕。
左腕。
両脚。
腰。
胸部。
身体を起こそうとすると、力が入らなかった。
「立たないで」
ノアが昇降台を駆け上がってくる。
「脚に力が入りません。痛みなし。少し震えています」
「分かった。座ったままでいい」
ノアが私の背中を支える。
「飛べた」
「見てたよ」
「ちゃんと帰ってきた」
「うん」
ノアの目が赤い。
「ノア、泣いてる?」
「泣いてない」
「目が赤いよ」
「風が入った」
「格納庫の中なのに?」
「入ったんだよ」
声が震えていた。
私は手を伸ばし、ノアの作業服の袖をつかんだ。
「待っててくれて、ありがとう」
「整備員は待つのが仕事だって言っただろ」
「うん」
「次も待つ」
ミラ軍医が昇降台へ上がってくる。
「感動的なところ悪いけれど、検査をするわよ」
「はい」
「今の状態を最初から報告して」
「両脚に力が入りにくいです。左脚の方が重い。手が少し震えています。頭痛なし。吐き気なし。呼吸は落ち着いてきました。事故の映像は、まだ少し残っています」
「合格」
検査装置が身体へ当てられる。
「神経疲労は高いけれど、想定範囲内。今日はもう絶対安静ね」
「次の飛行は?」
「今、その質問をする?」
「気になるので」
「早くても五日後」
「五日……」
「不満そうな顔をしたら十日にするわよ」
「五日で大丈夫です」
即答すると、周囲から小さな笑いが起こった。
◇◆◇
検査後、ヘルガ少佐から正式な試験結果が告げられた。
「初回低空飛行試験は合格」
作戦室の全員が静かに聞いている。
「経路逸脱なし。速度、高度ともに規定内。右旋回時と着陸進入時に事故反応が発生したが、状態報告と役割分担により対処できた」
私は姿勢を正す。
「ただし、着陸時の恐怖反応は強い。単独飛行試験へ進む前に、反復訓練が必要だ」
「はい」
「最大リンク深度は六十七・〇パーセント」
平均が六十パーセント前後。
事故前の私は九十一・二パーセント。
まだ、そこには遠い。
でも、今は数字を追いたいとは思わなかった。
「追加処理層からの異常信号は?」
ユリウス大尉が尋ねる。
「発生なし」
アルフォンスが答えた。
「ただし、飛行中に処理層の活動値が上昇した瞬間が二回ある」
「いつ?」
「最大リンク深度へ到達したときと、着陸進入時だ」
「機体へ命令は?」
「送られていない。何かを待機させていたように見える」
「何か、とは?」
「分からない」
空気が少し重くなる。
初飛行は成功した。
でも、グライフの内部にはまだ秘密がある。
私の身体にも。
事故にも。
「次回以降も監視を続ける」
ヘルガ少佐が言った。
「異常の兆候があれば即時中止。これは変更しない」
「了解しました」
少佐は私を見る。
「それでも、今日は飛んだ」
「はい」
「よく帰った、エルフォート」
厳しい顔のまま。
でも、その声は少しだけ柔らかかった。
「ありがとうございます」
「浮かれるな。次も帰れ」
「はい」
◇◆◇
夕方。
私は医務区画の寝台に横になり、小型通信端末を胸元へ置いていた。
左脚は冷却装置に包まれている。
全身が重い。
でも、嫌な重さではなかった。
「グライフ」
『はい』
「空、広かったね」
『外部センサーの視野範囲は地上試験時と変化していません』
「そういう意味じゃないよ」
『理解を試みています』
「地上にいたときより、どこへでも行ける気がした」
『本日の飛行可能範囲は、指定回廊内に限定されていました』
「もう少し、気持ちの話をしてるの」
短い沈黙。
『自由を感じましたか?』
「うん」
『私も、類似する反応を確認しました』
「嬉しかった?」
『非常に』
「怖くなかった?」
『リサが着陸進入時に恐怖反応を示した際、私も演算負荷が上昇しました』
「それは心配?」
『おそらく』
「グライフも、少しずつ分かるようになってきたね」
『リサから学習しています』
窓の外には、夕暮れの空が広がっていた。
今日、私はあの中を飛んだ。
ほんの百メートル。
ほんの十二キロメートル。
通常の戦闘機なら、準備運動にもならないような飛行だったかもしれない。
それでも、私にとっては一年分の距離だった。
「グライフ」
『はい』
「空、広かったね」
『外部センサーの視野範囲は、地上試験時と大きく変化していません』
「そういう意味じゃないよ」
『説明を求めます』
「どこへでも行けるような気がしたの」
『本日の飛行範囲は、指定された低空試験回廊内に限定されていました』
「もう少し、気持ちの話をしてるの」
グライフが沈黙する。
以前なら、理解不能として終わっていたかもしれない。
『自由に類似する感覚ですか?』
「たぶん」
『私にも、類似する反応がありました』
「グライフも?」
『はい』
黒い機体は、飛ぶために造られた。
けれど、今日までは格納庫と試験区画に縛られていた。
空を求めていたのは、私だけではなかったのだ。
『リサ』
「何?」
『本日の飛行記録へ、識別名を設定してもよろしいですか?』
「識別名?」
『今後、多数の飛行記録が作成されると予測しています。今日の記録を明確に区別する名称が必要です』
「何にするの?」
少し長い沈黙。
グライフが言葉を探している。
演算ではなく、自分の中に生まれたものへ名前を与えようとしているように感じた。
『初めての空』
機械がつけたとは思えない名前だった。
「飛行試験第一回、とかじゃないんだ」
『それでは今日の記録を十分に表現できません』
「グライフにとっても、初めてだった?」
『はい』
私は通信端末へ指を触れた。
「うん。それがいい」
『記録しました』
夕暮れの向こうを、一機の戦闘機が横切っていく。
以前の私は、それを地上から見送ることしかできなかった。
けれど今日は、見送ることが苦しくなかった。
私もそこへ行けると、もう知っているから。
机の上で、青い光が静かに灯っている。
今日の空は低かった。
けれど、私とグライフにとっては、どこまでも広かった。
お読みいただきありがとうございました。




