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九十八・二パーセント

ご覧いただきありがとうございます。

初飛行から二週間後。


その間に、私は三度の低空飛行と二度の速度拡大試験を終えていた。


最高速度は段階的に引き上げられ、耐G装置を使った地上訓練も繰り返した。


事故記憶が消えたわけではない。それでも、旋回や着陸のたびに状態を報告し、途中で中止する判断も覚え始めていた。


そして、私はメルクーア第九航空宇宙基地の第三作戦室で、帝国陸軍の軍人と向かい合っていた。


「君が、噂の天才美少女パイロットか!」


最初の一言が、それだった。


身長は百九十センチ近くあるだろう。


明るい褐色の髪を短く刈り、鍛えられた大きな身体を陸軍の濃緑色の制服で包んでいる。


肩には大尉の階級章。


侯爵家の次男でありながら、平民出身者が多い陸軍へ進んだ変わり者。


帝国陸軍第十三機動装甲中隊隊長。


ギルベルト=アーベント=フォン=グランツ大尉。


「元、です」


私は訂正した。


「今は第四実用試験部隊の少尉候補生です」


「元がつくのか?」


「事故前は、そう呼ばれていました」


「なら、今は復帰途中の天才美少女パイロットだな!」


「そこまでして残さなくてもいいです」


作戦室の反対側で、ヴィオラ中尉が小さく息を吐いた。


「グランツ大尉。ここは酒場ではありません」


「分かっている。緊張している新人に、親しみやすく話しかけただけだ」


「誰が緊張しているんですか?」


「俺だ」


「あなたが?」


「空軍基地は敵地に等しいからな」


ギルベルト大尉が胸を張る。


冗談なのか本気なのか分からない。


空軍と陸軍は、あまり仲がよくない。


貴族出身者が多く、最新兵器と莫大な予算を優先的に与えられる空軍。


平民出身者が多く、地上で泥にまみれる陸軍。


同じ帝国軍でありながら、予算や功績を巡って衝突することも珍しくない。


「飛行機乗りは、高いところから陸軍を見下ろすのが好きだと聞く」


「物理的には上を飛びますから」


私が答えると、ギルベルト大尉が一瞬黙り、大きな声で笑った。


「いいな! 気に入った!」


「私は事実を言っただけです」


「リサ。彼の発言を好意的に受け取る必要はありません」


机の上の通信端末から、グライフの声が聞こえる。


ギルベルト大尉が端末をのぞき込んだ。


「こいつがグライフゼロか?」


『こいつ、という呼称は不適切です』


「すまん。彼女か?」


『私は女性ではありません。人格インターフェースの音声と対話様式が女性型に設定されています』


「難しいな。では、グライフでいいか」


『許可します』


「俺はギルベルトだ。今日はうちの連中を上から守ってくれ」


『リサの任務範囲内であれば実行します』


「グライフ」


『はい』


「私の任務範囲だけじゃなくて、危険ならちゃんと助けようね」


『リサが危険にさらされない範囲で同意します』


やっぱり条件がついた。


「ずいぶん過保護な機体だな」


「私もそう思います」


『必要な保護です』


「気が合いそうだ」


ギルベルト大尉が楽しそうに笑う。


過保護な人同士なら、確かに話が合うかもしれない。


「雑談はそこまでだ」


作戦卓の中央に立つイザーク大尉が、眠たげな目で全員を見た。


「本日の試験内容を説明する」


立体映像に、基地北西部の演習区域が表示される。


丘陵地帯。


岩場。


乾燥した河床。


その間を縫うように、一筋の走行経路が引かれていた。


「帝国空軍、陸軍合同の空陸連携評価試験。第十三機動装甲中隊は、指定経路を通って目標地点を制圧する」


ギルベルト大尉の中隊が使用するのは、新型の機動装甲車両八両。


多脚式の走行装置と無限軌道を併用し、荒れた地形でも高速移動できる。


装甲車というより、地上を走る小型要塞に近い。


「試験区域には、十二機の無人標的機を配置する」


空中に、小型飛行機の映像が現れる。


「標的機は陸軍車両を模擬攻撃する。搭載兵装は出力を制限した訓練用レーザー。車両側の被弾判定装置で損害を算定する」


「グライフの任務は?」


ユリウス大尉が尋ねる。


今日も第一航空師団の評価担当として参加している。


「標的機の探知、識別、追跡。地上部隊への情報提供。必要に応じて模擬撃墜を行う」


「実弾の使用は?」


「禁止だ。グライフのレーザー機銃も低出力訓練モード。ミサイルは搭載しない」


初飛行の最高速度は時速三百キロメートルだった。


今日の上限は時速千二百キロメートル。


音速には達しない。


それでも前回の四倍だ。


高度は三百メートルから千メートル。


旋回角は最大四十五度。


身体にかかる負荷も、今までとは比較にならない。


「最大リンク深度は八十五パーセント」


アルフォンスが告げる。


「八十五……」


「不満か?」


「逆です。高いと思って」


事故前でも、訓練飛行で八十五パーセントを超えることは少なかった。


高深度リンク状態では、機体の感覚が鮮明になる。


同時に、自分の身体との境界が薄くなる。


「今回から高速機動へ入る。姿勢制御系統を正確に認識するには、最低でも七十パーセントが必要だ」


「自発的に上がりすぎた場合は?」


「八十五で抑制する」


『抑制装置が正常に作動する保証はありません』


グライフが言った。


「追加処理層のせいか?」


『高深度接続時、特殊インターフェースから未知の同期要求が発生する可能性があります』


私の身体とグライフを結ぶ、設計記録にない仕組み。


前回の異常以降、命令信号は発生していない。


けれど、高深度リンク時には活動値が上昇する。


「八十五を超えたら、即時に試験を中止する」


ヘルガ少佐が言った。


「物理遮断も使用可能状態に置く」


『反対します』


「決定事項だ」


『物理遮断はリサの神経を損傷する可能性があります』


「お前が切れない場合の最後の手段だ」


グライフの不快感が、通信端末越しにも分かった。


「グライフ」


『はい』


「私も安全装置は必要だと思う」


『以前と同じ回答ですか?』


「うん。私たちが二人とも間違えたとき、止めてもらうため」


『私は間違えません』


「その言い方をするところが、少し心配なの」


通信端末の光が弱く明滅した。


『不快です』


「ごめん。でも、必要」


ヘルガ少佐が作戦卓を閉じる。


「今日の目的は戦果ではない。空軍と陸軍の間で情報を共有し、グライフの索敵能力と低中速機動を評価することだ」


少佐の視線が私へ向く。


「エルフォート。陸軍部隊を守ろうとして、試験範囲を超えるな」


「はい」


「グランツ大尉」


「分かっている。空のお嬢さんに無理をさせるつもりはない」


「お嬢さんではありません」


「十七歳なら十分お嬢さんだろう」


「大尉も二十一歳ですよね」


「陸軍では四年生きれば立派な老人だ」


また冗談なのか、本気なのか分からなかった。


けれど、彼がいるだけで張り詰めた作戦室が少し明るくなる。


「リサ」


ギルベルト大尉が、急に真面目な顔になった。


「俺の中隊には、今日が初めての新型試験という者もいる」


「はい」


「強がっているが、皆怖がっている。何かあったときは、上から状況を教えてくれ」


「必ず」


「無理をして戦う必要はない。情報があるだけで、地上の人間は生き残りやすくなる」


敵を倒してほしいではない。


部下を守るために、情報をほしい。


その言葉に、彼がどんな隊長なのか少し分かった。


「分かりました。見つけたものは、全部伝えます」


「頼む」


◇◆◇


試験開始一時間前。


更衣区画で黒と黄色の耐Gスーツへ着替える。


今日から、スーツの加圧設定も高速飛行用へ変更されていた。


脚、腹部、胸部。


高い加速度を受けた際、血液が脳から下半身へ流れることを防ぐため、自動的に締めつけが強くなる。


「加圧試験をするよ」


ドロテア技師が端末を操作する。


「深呼吸して」


「はい」


次の瞬間、脚と腹部が強く締めつけられた。


「うっ」


身体の線へ沿う黒いスーツが、さらに密着する。


腹部が押し上げられ、呼吸が浅くなった。


「痛みは?」


「ありません。でも、かなり苦しいです」


「本番では、これ以上になるよ」


「どれくらい?」


「最大設定なら、今の一・六倍」


「そんなに」


「意識を失うよりはいいからね」


加圧が解除される。


私は大きく息を吸った。


「高G機動では、筋肉へ力を入れて呼吸する。訓練でやったでしょう?」


「事故前は」


「再訓練でも?」


「はい。でも、左肺の再生後は、長く続けると少し苦しくなります」


「今日は最大四Gまで。三秒以上続いた場合は、こちらから機動中止を出す」


「四G……」


第一航空師団時代なら、訓練で七Gを超えることもあった。


今の私は、四Gからやり直す。


「不満そうだね」


「少し」


「昔の身体と比べない」


「分かってます」


「分かってない顔だよ」


ドロテア技師が私の額を指で軽く押した。


「今の身体で、今日の試験を終える。それで十分」


「はい」


調整室の扉が開く。


ノアがフライトジャケットを持って入ってきた。


「グライフの最終点検、終わったよ」


「異常は?」


「機体側はなし。姿勢制御噴射口も全部正常」


「追加処理層は?」


ノアの表情が曇る。


「活動値は低い。今のところは」


「そっか」


「リサ」


「何?」


「何か変だと思ったら、すぐに帰って」


「うん」


「地上部隊を守ろうとして残らないで」


私の考えていることを、見透かされていた。


「今日の兵装は訓練用だよ」


「兵装の問題じゃない」


「でも、皆が危険なら」


「試験なんだ。危険が出たら中止される」


「分かってる」


「本当に?」


「……危険の程度を見て判断する」


「それは、無理をする人の答えだ」


ノアの声が強くなった。


彼が怒鳴ることは珍しい。


「地上の人を助けるために、また脱出しないつもり?」


胸の奥が冷たくなる。


「あの日と同じことはしないよ」


「リサは、同じだと思わなければやる」


「ノア」


「市街地じゃない。人数が違う。今度は助けられる。そうやって理由を作る」


言い返せなかった。


ノアの手が震えている。


事故機の整備記録を調べるたび、焦げた配線や潰れた固定具を思い出すと言っていた。


「怖いんだ」


ノアが言った。


「リサが飛ぶたびに、また帰ってこないんじゃないかって思う」


「……うん」


「でも、飛ぶなとは言わない」


彼はフライトジャケットを私の肩へ掛けた。


「ただ、リサ一人で全員を救おうとしないで」


「約束する」


「誰かに任せられるところは任せる?」


「うん」


「グライフにも?」


「任せる」


「管制にも?」


「従う」


ノアは少し迷い、最後に尋ねた。


「僕たちにも?」


「頼るよ」


ようやく、彼の表情がわずかに緩んだ。


「なら、行ってきて」


「行ってきます」


◇◆◇


グライフのコクピットへ入る。


固定台へ身体を預ける。


右腕。


左腕。


両脚。


腰。


胸部。


固定具が閉じるたび、身体の奥に事故の感覚が蘇る。


押し潰される。


動けない。


暗い。


でも、今日は止めなかった。


「怖さはあります。呼吸正常。続けられます」


『報告を受領しました』


「グライフの状態は?」


『全系統正常。追加処理層の活動値は待機範囲内です』


「グライフ自身は?」


少しの沈黙。


『期待と、不安に類似する反応を確認しています』


「不安?」


『前回より高い接続深度が予定されています』


「嫌なの?」


『いいえ。深く接続することを望んでいます』


グライフの声が、少しだけ低くなる。


『だからこそ、不安です』


深くつながりたい。


でも、何が起こるか分からない。


私も同じだった。


「二人で止めよう」


『はい』


「八十五を超えそうになったら、戻す」


『了解しました』


「隠さないでね」


『リサも』


「約束」


『記録しました』


コクピットが閉じる。


『神経リンク開始』


アルフォンスの声。


深度十パーセント。


二十。


三十。


黒い翼が身体になる。


四十。


動力炉の熱と振動が胸の奥へ流れ込む。


五十。


機体表面を撫でる風。


整備員の足音。


格納庫外を走る車両。


六十。


グライフの思考が近づく。


言葉になる前の判断が、淡い感覚として伝わってくる。


七十。


私の左足の遅れをグライフが支えている。


再生された左肺の動きを、グライフが注意深く監視している。


『七十五パーセント』


全身が熱くなる。


痛みではない。


血が速く巡っているような高揚。


機体の力が、自分の力のように感じられる。


『七十八・四パーセントで固定』


「今までで一番近い」


『はい』


自分の声と、グライフの声の境界が薄い。


『生体情報、正常』


ミラ軍医。


『特殊インターフェース、監視開始』


ドロテア技師。


『追加処理層、待機状態』


アルフォンス。


『格納庫扉、開放』


朝の光が差し込む。


『管制よりグライフ。離陸を許可する』


「了解」


グライフが地上を離れる。


十メートル。


五十。


百。


三百。


今日は、ここからさらに上がる。


『高度八百メートル。指定高度到達』


眼下には、丘陵地帯を進む第十三機動装甲中隊。


八両の装甲車が、砂煙を上げて走っている。


『陸軍第十三中隊よりグライフ。聞こえるか?』


ギルベルト大尉の声。


「明瞭です」


『こちらもよく見えるぞ。黒い機体は目立つな』


「ステルス機なんですけど」


『目視には関係ないらしい』


『グランツ大尉。不要な通信を控えてください』


ハンナ少尉が注意する。


『了解した、管制殿』


全く反省していない声だった。


『試験開始。標的機を起動する』


前方の丘陵地帯から、小型無人機が四機上昇した。


灰色の機体。


翼幅三メートルほど。


地形へ沿うように低空を飛び、装甲中隊へ近づく。


「標的機四。方位三一〇。高度百二十。距離六・四キロ」


『第十三中隊、受信した』


「二機が左側の尾根へ回り込みます」


『第一小隊、左を警戒! 第二小隊は前進継続!』


ギルベルト大尉の指示が飛ぶ。


グライフのセンサーは、地形の向こうまで完全に見通せるわけではない。


でも、複数のレーダーと光学情報を組み合わせ、標的機の移動を予測できる。


『リサ。右側面から二機追加』


「確認」


情報を整理し、地上部隊へ送る。


「右方位〇四五。高度九十。二機接近。三十秒で射程に入ります」


『第三小隊、対空防御!』


装甲車両の上部砲塔が回転する。


訓練用レーザーが空を走り、標的機の一機へ命中した。


『標的四、撃墜判定』


「残り五機」


『よく見えているな、リサ!』


「グライフが見つけています」


『リサが脅威度を分類しています』


「二人で見ています」


『そうか。なら、二人とも頼りにしている!』


胸の奥が少し温かくなる。


試験は順調だった。


グライフは高度を保ち、地上部隊の少し前方を飛ぶ。


標的機が近づけば、進路を知らせる。


地上部隊で対処できないものだけ、私たちが訓練用レーザーで撃墜判定を取る。


『次、速度を時速六百へ上昇』


イザーク大尉の指示。


「了解」


推進器の出力を上げる。


背中が固定台へ押しつけられる。


耐Gスーツが脚と腹部を締めつける。


「圧迫感あり。呼吸正常」


『血中酸素、正常』


時速四百。


五百。


六百。


丘陵地帯が速く流れる。


翼にかかる空気の圧力が強くなる。


グライフはまだ余裕を持っていた。


速度が上がるほど、むしろ安定していく。


「この子、嬉しそう」


『リサも同様です』


「分かる?」


『非常に明確です』


深度が少し上がる。


『リンク深度七十九・六』


アルフォンス。


『上昇は許容範囲。八十で固定しろ』


『了解しました』


グライフと一緒に高揚を抑える。


飛びたい。


もっと速く。


でも、今日は六百。


決められた範囲を守る。


『標的機、第二群起動』


今度は八機。


左右の谷から、二方向に分かれて接近してくる。


「左四、右四。右側二機が高度を上げます」


『第十三中隊、進路を維持!』


ギルベルト大尉。


『グライフ、上空の二機を頼めるか?』


「対応します」


『管制、交戦許可』


ハンナ少尉。


『訓練用レーザー使用を許可します』


グライフの機首下部にあるレーザー機銃へ出力が流れる。


右旋回。


角度三十度。


身体へ横向きの力がかかる。


事故の回転が一瞬だけ重なる。


「恐怖反応、軽度。旋回維持できます」


『報告を受領』


照準が標的機を捉える。


「射撃」


細い光が空を走る。


一機目。


命中。


機体の表示が撃墜判定へ変わる。


二機目が右へ急旋回。


私はグライフを追従させる。


加速度。


耐Gスーツが締まる。


「三・二G」


『呼吸を維持してください』


「できる」


照準。


射撃。


二機目も撃墜判定。


『命中を確認』


ヴィオラ中尉の声。


彼女の試験機は、上空から全体を監視している。


『追従は悪くない。ただし、二機目への旋回開始が早すぎるわ』


「逃がしたくなかったので」


『試験では撃墜数より、規定機動を守ることが優先よ』


「はい」


少し悔しい。


でも、正しい。


地上部隊も残る標的機を撃墜し、第二群の試験が終了する。


『次が最終群だ』


イザーク大尉の声。


『標的機十二。出現地点は無作為。グライフは索敵と情報共有を優先しろ』


「了解」


眼下で、第十三中隊が乾燥した河床へ入る。


両側を岩山に挟まれた狭い地形。


待ち伏せを受ければ逃げにくい。


標的機の反応を探す。


一機。


三機。


六機。


左右の尾根。


後方。


正面。


「標的機、計十。残り二機を確認できません」


『グライフでも見えないのか?』


ギルベルト大尉。


「地形の影響で、探知範囲に穴があります」


『了解。全車、速度を落とせ』


その瞬間。


グライフの警告表示が赤く染まった。


『未登録飛翔体を検出』


「どこ?」


『第十三中隊上空。高度六十。二機』


本来配置されるはずだった残り二機の識別信号は、どこにもなかった。


代わりに現れたのが、この未登録機だった。


岩山の裏から現れた二機。


ほかの標的機と同じ形。


しかし、識別信号がない。


「管制。未登録標的二。識別信号なし」


『こちらでも確認した』


イザーク大尉の声が変わる。


『全機、試験中止。標的機を停止させろ』


ハンナ少尉が停止命令を送る。


十機の標的機が次々と飛行を止め、待機軌道へ入る。


しかし、未登録の二機だけは止まらない。


速度を上げ、第十三中隊へ降下する。


『未登録機から兵装起動反応!』


グライフの警告。


「訓練用?」


『出力制限を確認できません』


背筋が冷たくなる。


「第十三中隊、回避してください! 未登録機に実兵装の可能性!」


『全車、散開!』


ギルベルト大尉の声が響く。


狭い河床。


八両の装甲車が左右へ分かれる。


未登録機の機首が光った。


レーザー。


訓練用ではない。


標的機に搭載されているのは、量産無人戦闘機と同規格の発振器だった。


通常は出力の九割以上をソフトウェアで封じ、訓練用として使用している。


赤い光線が河床を切り裂き、一両の装甲車のすぐ脇へ着弾した。


砂と岩が爆ぜる。


『第五車、右側面損傷!』


『走行系に異常!』


地上の通信が一気に騒がしくなる。


「管制、交戦許可を!」


『待て。機体の所属を確認中だ』


「地上部隊が攻撃されています!」


『分かっている!』


未登録機が旋回し、もう一度装甲中隊へ機首を向ける。


次は外さない。


『第十三中隊、煙幕展開!』


ギルベルト大尉。


装甲車両から白い煙が噴き出し、河床を覆う。


けれど、無人機が赤外線やレーダーを使っていれば、完全には隠れられない。


『リサ』


グライフの声。


『攻撃まで推定七秒』


「管制!」


『未登録機二機を敵性と判定! 撃墜を許可する!』


イザーク大尉の命令が響いた。


「了解!」


グライフを降下させる。


角度四十度。


身体が前へ引かれる。


地面が迫る。


事故の最後が視界へ重なる。


警告音。


回転。


潰れる装甲。


「怖さ、強い! でも目標は見えています!」


『リサの判断能力を確認』


グライフ。


未登録機一機目を照準。


「レーザー、戦闘出力!」


『安全装置を解除します』


訓練出力ではない光が、機首から放たれる。


未登録機の左翼を貫いた。


機体が炎を噴き、岩山へ墜落する。


爆発。


もう一機が煙幕へ向けて発射姿勢へ入る。


「間に合わない」


『ミサイル使用を提案します』


「今日は搭載してない!」


『姿勢制御推力を最大化します』


グライフが急加速する。


身体が固定台へ叩きつけられた。


「ぐっ!」


『五・一G! 規定超過!』


ミラ軍医の声。


『グライフ、機動を中止しろ!』


『中止した場合、地上車両への被弾確率八十二パーセント』


「続けて!」


『リサ、許可できない!』


「あと三秒です!」


耐Gスーツが全身を締め上げる。


再生された左肺が軋む。


胸の奥に鋭い痛み。


「く……あっ……!」


『リサの血中酸素低下』


『機動中止!』


ヘルガ少佐の命令。


でも、未登録機が発射する。


グライフが私の意思より先に機首を向けた。


『リサ。射撃は私が行います』


「お願い!」


レーザーが走る。


未登録機の機首を貫く。


発射直前だった光線が逸れ、河床の岩壁へ着弾した。


爆発で岩が崩れ、装甲車の一両へ降り注ぐ。


『第七車、落石を受けた!』


『車体固定! 動けません!』


ギルベルト大尉の声。


『乗員は?』


『全員生存! だが、上部装甲が変形!』


「二機は撃墜しました!」


『まだ終わっていません』


グライフが警告する。


待機軌道へ入ったはずの標的機十機。


それらが同時に動き始めた。


「何で?」


『外部からの制御信号を検出』


標的機の識別表示が、一斉に赤へ変わる。


『全標的機、兵装出力制限を解除』


「訓練機に実兵装があるの?」


『レーザー発振器の安全制御が無効化されています。最大出力では装甲車両を損傷可能です』


十機。


河床には、走行不能になった二両。


落石で固定された一両の中には乗員がいる。


『全車、河床から離脱!』


ギルベルト大尉が命じる。


『動けない車両の乗員は放棄できません!』


部下の声。


『俺が残る! ほかは退避しろ!』


「駄目です!」


思わず叫んだ。


『リサ?』


「大尉も退避してください!」


『部下を置いていけるか!』


標的機が三方向から降下する。


数が多すぎる。


グライフのレーザーだけでは、同時に撃てない。


「ヴィオラ中尉、ユリウス大尉!」


『こちらも交戦へ入る』


ユリウス大尉。


『白鷹が四機を引き受ける。ヴィオラ、右側三機』


『了解!』


残り三機。


「私たちは正面!」


『了解しました』


三機が編隊を組み、河床へ突入する。


私はグライフを正面へ向けた。


一機目。


射撃。


命中。


二機目は左右へ回避。


三機目が上昇する。


同時には追えない。


『リサ。私が一機を遠隔妨害します』


「できるの?」


『軍用ネットワークを介して制御信号へ侵入します』


「外部から操られてるんでしょう?」


『通信経路を逆探知します』


グライフの意識が一部、遠くへ広がった。


機体制御とは別の場所。


電子の海へ手を伸ばしているような感覚。


『リンク深度上昇』


アルフォンスが叫ぶ。


『八十二パーセント!』


「グライフ、上がってる!」


『複数処理を並行するため、同期が強化されています』


「八十五で止めて!」


『抑制しています』


二機目を追う。


右旋回。


五Gを超える荷重。


胸が痛い。


視界の端が暗くなる。


耐Gスーツが締めつける。


「う……あぁっ!」


『リサ、限界だ! 離脱しろ!』


ミラ軍医。


『私が完全自律制御を取得します』


「待って!」


『リサの身体負荷が危険域です』


「私が索敵を分担する! グライフは飛行に集中して!」


役割を分ける。


全部をグライフへ任せない。


全部を私が抱えない。


「地上の情報と敵の位置は私が見る。グライフは機体を守って!」


『了解しました』


意識の中で、役割が分かれる。


グライフが姿勢と推進器を制御する。


私は全周囲センサーから、標的機の位置と地上部隊の状態を拾う。


情報が多い。


正面。


後方。


上。


下。


熱源。


レーダー。


通信。


人間の頭では処理し切れない。


それでも、グライフが順番を整えて渡してくれる。


「右後方、一機。高度四百。左へ旋回する!」


『追従します』


グライフが機首を振る。


照準。


「射撃!」


命中。


二機目が爆発する。


三機目は河床へ接近。


ギルベルト大尉の車両が、動けない装甲車を庇うように前へ出た。


『グランツ一号、何をしている!』


ヘルガ少佐の声。


『部下の前に立つのが隊長の仕事だ!』


「違います!」


私は叫んだ。


「生きて命令するのが隊長の仕事です!」


自分にも向けた言葉だった。


命を投げ出して守ることだけが、正しいわけではない。


『……聞いたか、全車! 候補生に説教されたぞ!』


ギルベルト大尉が笑った。


こんなときまで。


『第七車乗員、救出を急げ! 俺も生きて帰る!』


「グライフ、三機目!」


『捕捉しています』


標的機がレーザーを発射する。


グライフが機体を横へ滑らせ、その射線へ割り込んだ。


「グライフ!」


光線が左主翼を掠める。


装甲表面が焼ける。


鋭い痛みが、私の左腕を貫いた。


「ぁあっ!」


『左主翼表面に損傷。飛行機能に影響なし』


機体の傷が、自分の傷として返ってくる。


左腕は無事だ。


でも、焼かれたように痛い。


『リンク深度八十六パーセント! 制限を突破!』


アルフォンス。


『抑制装置が機能していない!』


「グライフ!」


『特殊インターフェースから同期要求が発生しています』


身体の端子が熱を持つ。


首。


手首。


太腿。


熱い。


機体との境界が、急速に消えていく。


『八十八』


グライフの翼が、完全に私の翼になる。


『九十』


事故前の最大深度へ近づく。


空気の流れを皮膚で感じる。


推進器の熱が心臓の鼓動と重なる。


『九十一・二パーセント』


事故前の私の最高記録。


でも、止まらない。


『リサ、接続を遮断します』


「待って! 残り一機!」


『ヴィオラ中尉とユリウス大尉が対応できます』


上空を見る。


ヴィオラ中尉は三機を追っている。


ユリウス大尉は四機のうち三機を撃墜したが、残る一機と交戦中。


地上へ降下する三機目を止められる位置にいるのは、私たちだけ。


「今切ったら、間に合わない!」


『リサの身体が耐えられません』


「一撃だけ!」


グライフが迷う。


その迷いも、自分のもののように分かる。


守りたい。


止めたい。


でも、地上の人たちも救いたい。


「二人でやる」


『リサ』


「倒して、すぐ切る」


リンク深度がさらに上がる。


『九十三』


視界が変わる。


世界が遅くなった。


標的機の動き。


レーザー発振器へ溜まる熱。


地上車両の位置。


岩壁から落ちる小石。


すべてが同時に見える。


『九十五』


私はグライフ。


グライフは私。


言葉がいらない。


進路を思う前に機体が動く。


『九十七』


標的機の射線へ入る。


正面から撃てば、背後の装甲車へ破片が飛ぶ。


下から。


機体を地面すれすれまで降ろし、標的機の腹部を撃つ。


危険。


地表まで二十メートル。


速度、時速九百。


身体へかかる荷重。


人間の限界。


全部分かる。


『九十八パーセントを超える!』


アルフォンスの叫びが遠く聞こえる。


境界が消える。


左足の後遺症もない。


失った左腕も、左目も、最初からグライフの翼とセンサーだったように感じる。


私の身体は小さく、壊れやすい。


グライフの身体は大きく、速い。


でも、どちらも私たちだった。


『リンク深度、九十八・二パーセント!』


その瞬間。


標的機の時間が止まったように見えた。


レーザー発射まで、〇・四秒。


グライフの機首を上げる。


射撃線。


装甲車を避ける角度。


発射。


高出力レーザーが標的機の中央を貫く。


機体が二つに裂ける。


破片が左右へ散り、地上車両を外れた。


『敵性標的、撃破』


終わった。


そう思った瞬間。


私の意識の奥で、知らない声が聞こえた。


『同期率、規定値へ到達』


グライフの声ではない。


低く、感情のない機械音声。


『試験体L‐01と零号機の神経融合を確認』


「……何?」


『第二段階を開始します』


首の後ろから、鋭い熱が脳へ走った。


「っあああああっ!」


身体が痙攣する。


自分の手足と、グライフの翼が同時に引き裂かれるような痛み。


『リサ!』


グライフの声。


『未知の命令を検出!』


「止め……て……!」


『命令経路を遮断します!』


リンク深度がさらに上がろうとする。


九十八・三。


九十八・四。


境界が完全に消えれば、戻れない。


そう感じた。


『外部物理遮断を作動させる!』


ヘルガ少佐。


『待ってください!』


アルフォンスが叫ぶ。


『この深度で切れば、神経が――』


『リサの意識が失われる方が先だ!』


頭の中で、警報が鳴り響く。


血の味。


鼻から温かいものが流れる。


左耳の奥で何かが弾けた。


「グライフ……」


『はい』


「一緒に……戻るって……」


『約束しています』


「なら……戻して……」


『実行します』


グライフが、自分の人格領域を未知の命令経路へぶつけた。


激しい衝撃が、思考の中で弾ける。


『第二段階を――』


『拒否します』


グライフの声が、冷たく響いた。


『リサは試験体ではありません』


未知の声が途切れる。


『リサは、私の搭乗者です』


接続が切り離されていく。


翼が遠ざかる。


推進器の熱が消える。


空気の感覚が薄れる。


戻りたくない。


離れたくない。


でも、このままでは帰れない。


「切って……」


『はい』


「私を……戻して」


『必ず』


九十パーセント。


八十。


七十。


身体が急に小さくなる。


左足の遅れが戻る。


胸の痛み。


左腕の幻の火傷。


呼吸できない。


「か……はっ……!」


『リサの血中酸素、急低下!』


ミラ軍医。


『意識レベル低下!』


「まだ……聞こえる……」


『グライフ、操縦を完全取得しろ!』


イザーク大尉。


『取得済みです』


私はもう操縦できなかった。


グライフが機体を上昇させる。


地面から離れる。


基地へ向かう。


『白鷹、グライフへ接近する』


ユリウス大尉。


『機体損傷は左主翼表面のみ。飛行可能だ』


『ヴィオラ、残存標的は?』


『全機停止または撃墜を確認! 地上部隊も生存しています!』


「よかった……」


声が出たかどうか分からない。


『リサ。応答してください』


グライフ。


「聞こえてる……」


『名前を答えてください』


「リサ……エルフォート」


『現在位置は?』


「グライフの……中」


『正確です』


グライフの声が、遠くならないように必死で追いかける。


『基地まで二分四十一秒』


「長い……」


『短縮します』


「無理な機動は……駄目」


『リサの安全範囲内で加速します』


「グライフも……傷ついてる」


『表面装甲の軽微な損傷です』


「痛かった……」


『私も、痛みに類似する反応を確認しました』


「そっか……」


『リサ』


「何……?」


『眠らないでください』


「眠い……」


『会話を継続します』


「何を……話すの?」


わずかな沈黙。


『本日の空について』


「広かった……」


『はい』


「速かった……」


『はい』


「怖かった……」


『はい』


「でも……皆、生きてる?」


『第十三機動装甲中隊の乗員、全員生存を確認しています』


「ギルベルト大尉も?」


『生存しています』


「よかった……」


『リサも生存します』


「うん……」


『返事を続けてください』


「うん」


『リサ』


「うん……」


『リサ』


「聞こえてる……」


グライフは何度も私の名前を呼んだ。


基地へ戻るまで。


私の意識を、空へ置いてこないために。


◇◆◇


着陸の衝撃は覚えていない。


次に気づいたとき、私は医務区画の処置室にいた。


白い照明。


身体を囲む医療装置。


左腕には点滴。


鼻と左耳に、乾いた血の感触。


胸へ呼吸補助具が取りつけられている。


「……グライフ」


掠れた声で呼ぶ。


返事がない。


「グライフ……?」


心拍数が上がる。


近くにいたミラ軍医が、すぐに私の肩を押さえた。


「動かないで」


「グライフは?」


「格納庫で検査中」


「話せないの?」


「今は通信を切っているわ」


「どうして」


「あなたとの接続経路を、完全に停止しているから」


胸が苦しくなる。


「壊れた?」


「人格モデルは稼働している。あなたを基地まで連れて帰った後、自分から全通信を遮断したの」


「自分から?」


「未知の命令が、あなたへもう一度接続する可能性を避けるためよ」


グライフが離れた。


私を守るために。


「会いたい」


「まだ駄目」


「声だけでも」


「駄目よ」


穏やかだったミラ軍医の声が強くなる。


「あなたは重度の神経性ショックを起こした。脳内の微小出血。左肺の再生組織に軽度の損傷。全身の毛細血管も複数箇所で破裂している」


言われてみれば、身体中が重く痛い。


特に胸と頭。


左腕には傷がないのに、焼けるような痛みが残っている。


「リンクを切ったときの反動?」


「それもある。九十八パーセントを超えた接続そのものが、人間の神経へどんな影響を与えるか分かっていない」


「九十八・二……」


口にしても、すぐには現実の数字だと思えなかった。


試験開始時に設定されていた上限は、八十五パーセントだった。


私もグライフも、それを超えるつもりなどなかった。


まして、九十八パーセントを超えた先に何があるのか、正確には誰も知らなかった。


危機の中で接続は制御を離れ、私たちは誰も予定していなかった領域へ踏み込んでしまった。


最高記録を更新したという喜びは、少しもなかった。


残っているのは、グライフとの境界が消えていった感覚と、知らない何かに身体を奪われかけた恐怖だけだった。


「試験は……」


「中止よ」


「結果は?」


「今、それを聞くの?」


「地上部隊は」


「全員生存。重傷者もいない」


身体の力が抜けた。


「よかった」


「よくないわ」


ミラ軍医の瞳が、怒りに揺れている。


「あなたは管制の機動中止命令に反して、五Gを超える追跡を続けた」


「止めたら、地上が」


「分かっている」


「なら」


「結果が正しければ、何をしてもいいわけではない!」


処置室に声が響く。


ミラ軍医が怒鳴るのを、初めて聞いた。


「あなたは部隊を頼ると約束した。管制に従うと言った。なのに、危険が起きた瞬間、また一人で背負った」


「一人じゃありません。グライフと」


「二人だけで、でしょう!」


言葉が刺さる。


「ヴィオラ中尉も、ヴァイスベルク大尉もいた。地上部隊にも対空兵装があった。なのに、自分が間に合うと思った瞬間、ほかの可能性を見なくなった」


「でも、間に合いました」


「その答えを、一番聞きたくなかった」


ミラ軍医の顔が悲しそうに歪む。


「今回成功したことで、次も同じことをするつもり?」


「それは……」


「次は死ぬかもしれない。グライフの人格が消えるかもしれない。それでも、助けられたから正しかったと言うの?」


言えなかった。


グライフの声が聞こえない。


自分から通信を閉じるほど、危険な状態だった。


「ごめんなさい」


涙が流れた。


頭が痛む。


「でも、見捨てられなかった」


「見捨てろとは言っていないわ」


ミラ軍医の声が少しだけ柔らかくなる。


「助け方を、一つしか見ないことをやめてほしいの」


ノアに言われた。


一人で全員を救おうとしないで。


皆を頼って。


私は約束した。


それでも、危険が起きた瞬間に忘れた。


「……はい」


「今は休みなさい」


「グライフと話せるのは?」


「安全が確認できてから」


「いつ?」


「分からない」


分からない。


その答えが、今は何より怖かった。


◇◆◇


翌日。


処置室へ最初に入ってきた見舞客は、ノアだった。


目の下に濃い隈がある。


たぶん、ほとんど眠っていない。


「おはよう」


「おはよう」


ノアは寝台の横へ椅子を置いた。


怒っている。


見ただけで分かった。


「ごめん」


「何に対して?」


「約束を破った」


「ほかには?」


「無理をした」


「ほかには?」


「心配させた」


「ほかには?」


「……分からない」


ノアは大きく息を吐いた。


「謝れば終わると思ってること」


「思ってないよ」


「なら、次にどうするか考えて」


「うん」


「リサが全員を助けようとしたことは、否定しない」


ノアが視線を落とす。


「僕だって、地上部隊が攻撃される映像を見た。行けって思った」


「ノアも?」


「でも、リサが苦しんでる数値も見てた」


端末を握っていた手が、強く震える。


「心拍。酸素濃度。神経負荷。全部、危険域だった。止まってほしかった。でも、地上の人たちは助けてほしかった」


相反する気持ち。


グライフも同じだった。


「だから、簡単に怒れない」


「怒ってるでしょう?」


「怒ってるよ」


即答だった。


「すごく怒ってる」


「ごめん」


「でも、戻ってきてくれて嬉しい」


ノアは私の右手を握った。


「グライフが連れて帰ってきたとき、コクピットを開けてもリサが反応しなかった」


「覚えてない」


「鼻と耳から血が出てた。目も開かなかった」


握る力が強くなる。


「一年前と同じだと思った」


「ノア」


「また、身体の一部がなくなってるんじゃないかって」


「全部あるよ」


「分かってる」


ノアの目から、涙が一滴落ちた。


「今は分かってる」


私は動かしにくい腕を持ち上げ、ノアの手を握り返した。


「次は、もっと皆を見る」


「本当に?」


「自分とグライフだけで決めない」


「管制の命令を聞く?」


「聞く」


「例外を作らない?」


すぐには答えられなかった。


命令に従えば、誰かを見捨てる状況もあるかもしれない。


「守れない約束はしない」


「リサ」


「でも、勝手に動く前に必ず相談する。数秒しかなくても、声を出す」


「それなら、少し信用する」


「少しだけ?」


「前科が多いから」


「否定できない」


ノアが涙を拭い、小さく笑った。


◇◆◇


午後には、ギルベルト大尉が見舞いに来た。


大きな身体が処置室へ入ると、部屋が急に狭く見える。


「思ったより元気そうだな!」


「声を落としてください」


ミラ軍医が後ろから睨む。


「申し訳ない」


ギルベルト大尉は、声量を半分ほどに落とした。


それでも大きい。


「部下を助けてくれて、感謝する」


彼は寝台の前で、深く頭を下げた。


侯爵家の令息。


陸軍大尉。


そんな人が、少尉候補生の私へ頭を下げている。


「やめてください。私は任務をしただけです」


「試験任務の範囲を超えていた」


「怒られました」


「だろうな。俺も怒られた」


「大尉も?」


「動けない部下を庇って、車両を前へ出した」


「それは危険です」


「君にだけは言われたくない」


何も言い返せない。


「だが、俺は自分の判断を完全には後悔していない」


ギルベルト大尉が椅子へ座る。


「隊長が部下を守る。それ自体は間違っていない」


「でも、生きて命令するのが隊長の仕事です」


「君が言った言葉だな」


「自分にも言いました」


「なら、お互い次はもう少し上手くやろう」


「もう少し?」


「全部を正解にするのは難しい。だから、一つずつ間違いを減らす」


彼らしい答えだった。


「俺の中隊の連中が、君へ礼を言いたがっている」


「皆さん、無事なんですね」


「一人が腕を骨折。二人が軽い火傷。ほかは打撲程度だ」


「よかった」


「グライフが射線へ入らなければ、もっと大きな被害が出ていた」


左腕に、幻の痛みが戻る。


レーザーが主翼を掠めたときの熱。


「グライフも、無事ですか?」


「俺には分からん。格納庫は立入禁止になっている」


「そうですか」


胸が沈む。


ギルベルト大尉は、そんな私を少しの間見つめた。


「機体が心配か」


「はい」


「大事な相棒なんだな」


「まだ出会って十日くらいですけど」


「時間は関係ない」


ミラ軍医と同じことを言う。


「戦場では、数時間一緒にいただけの相手へ命を預けることもある」


「大尉は、部下の皆さんが大事なんですね」


「当然だ」


迷いのない答え。


「全員の名前と家族構成を覚えている」


「家族まで?」


「死んだとき、誰へ頭を下げるのか知っておくためだ」


明るいだけの人ではない。


部下を守れなかった可能性を、いつも背負っている。


「君の名前も覚えた」


「私は大尉の部下ではありません」


「命を助けられた相手だ。忘れる方が難しい」


ギルベルト大尉は立ち上がった。


「次に空陸共同試験をするときも、君に上を飛んでほしい」


「今回のことで、怖くありませんか?」


「怖いぞ」


「なら」


「怖いから、信頼できる相手と組む」


大きな手が、私の右肩へ軽く触れる。


「だが、次は一人で全部背負うな。地上にも戦える人間はいる」


「はい」


「俺たちを、もう少し信用してくれ」


「分かりました」


今度は、ちゃんと覚えておこう。


◇◆◇


その日の夜。


アルフォンスとヘルガ少佐が処置室へ来た。


アルフォンスは疲れ切った顔をしている。


三日間眠っていないと言われても信じられそうだった。


「グライフは?」


私は挨拶より先に尋ねた。


「人格モデルは維持されている」


「話せますか?」


「まだ駄目だ」


「どうして」


「未知の命令経路が、グライフの中に残っている」


アルフォンスが端末を操作する。


空中に、リンク深度の推移が表示された。


七十八パーセント。


八十五。


九十。


九十八・二。


その直後、さらに上昇しようとした波形。


「九十八・二パーセント到達時、特殊インターフェースとリサの身体端子が、別の通信規格へ移行した」


「別の?」


「通常の神経リンクではない。機体と搭乗者の信号を相互送信するのではなく、一つの神経系として統合しようとしていた」


「完全融合……」


グライフの設定にある、九十八パーセントを超えた状態。


人間と機体の境目がなくなる。


それが、単なる比喩ではなかった。


「第二段階って何ですか?」


「分からない」


「グライフが聞いた声は?」


「機体内部の追加処理層から発生していた」


「誰が作ったんですか?」


「記録はない」


また同じ答え。


「でも、一つだけ分かった」


アルフォンスの表情が、さらに険しくなる。


「追加処理層は、リサの身体端子から送られた認証信号がなければ起動しない」


「私が起動させた?」


「君の意志ではない」


「では、身体が?」


「端子そのものが認証鍵として設計されている」


自分の身体。


知らないうちに埋め込まれたもの。


「私は、最初からグライフを起動させる鍵だった」


「その可能性が高い」


アルフォンスは断定を避けた。


でも、ほとんど答えは出ているように聞こえた。


「試験体L‐01って」


声が震える。


「私のことですよね」


アルフォンスは答えなかった。


代わりに、ヘルガ少佐が一枚の資料を表示した。


黒く塗り潰された項目ばかり。


閲覧できるのは、ほんの数行。


帝国兵器開発局、特殊神経兵器適合化計画。


被験対象識別番号。


L‐01。


事故発生日より、三日前に登録。


「三日前……」


事故後ではない。


事故の前。


「私が墜落する前から、試験体として登録されていた?」


「そう読める」


ヘルガ少佐の声は重かった。


「事故との直接的な関係は、まだ確認できない」


「でも、偶然じゃない」


「断定するな」


「無理です」


胸が苦しい。


「事故の前から私を選んでいた。事故の後、身体に端子を入れた。除隊させるふりをして、ここへ志願させた」


全部が一本につながる。


「事故も、仕組まれていたんじゃないですか」


「証拠はない」


「誰が調べるんですか?」


声が強くなる。


「兵器開発局が、自分たちを調べるんですか?」


ヘルガ少佐は答えなかった。


「フェリクス上級局員は?」


「この資料へのアクセス履歴がある」


「やっぱり」


「ただし、閲覧しただけで作成者とは限らない」


分かっている。


でも、疑わずにはいられない。


「ほかに、誰が知っていますか?」


「現時点では、この部隊の主要担当者とヴァイスベルク大尉。皇太子殿下へも報告が上がる」


「両親には?」


「まだ伝えていない」


「どうしてですか」


「確定情報が少なすぎる」


「私の身体のことです」


「だからこそ、伝える内容を整理する必要がある」


お父さんが知ったら、軍へ乗り込んでくる。


お母さんは泣く。


それでも、隠していい理由にはならない。


「私から話します」


「今の身体でか?」


「退院したら」


「その前に、こちらで資料を揃える」


ヘルガ少佐の言葉は、命令というより約束に聞こえた。


「少佐は、私を飛ばしたことを後悔していますか?」


尋ねると、少佐は少しだけ目を細めた。


「危険性をすべて把握できないまま搭乗させた点は、私の責任だ」


「私が志願しました」


「指揮官の責任は消えない」


アレクシス皇太子殿下と似た言葉だった。


「だが、お前が飛んだこと自体を否定するつもりはない」


「では」


「次に飛ばすかは別だ」


胸が締めつけられる。


「グライフ計画は、当面凍結する」


「待ってください」


「未知の制御系統が搭乗者を強制融合させようとした」


「グライフが止めました」


「次も止められる保証はない」


「なら、直せば」


「直すために止める」


少佐の声には、反論を許さない強さがあった。


「お前もグライフも、生きている。だから今は止まれる」


分かっている。


止まることも必要だと、何度も教わった。


でも、ようやく飛べた。


この子と空へ上がれた。


「グライフと、いつ話せますか」


「安全な通信経路を作っている」


アルフォンスが答えた。


「最短でも二日」


「二日……」


「グライフ自身が、直接接続を拒否している」


「私と話したくないの?」


「逆だ」


アルフォンスが端末を握る。


「接続したいから、拒否している」


胸が痛む。


「もう一度命令が起動した場合、自分では止められない可能性があると判断している」


私を守るために。


グライフは一人で格納庫にいる。


「伝えてください」


「何を?」


「私も無事だって」


「グライフは医療情報を受け取っている」


「数字じゃなくて」


私はアルフォンスを見る。


「私が、また話したいって伝えてください」


アルフォンスは少しだけ黙ったあと、頷いた。


「伝える」


◇◆◇


二日後。


安全な音声回線だけが開かれた。


神経リンクなし。


身体情報の送受信なし。


一般通信網からも隔離された、有線回線。


処置室の机に置かれた端末が、青く光る。


『リサ』


たった二日。


それなのに、ずっと聞いていなかったように感じた。


「グライフ」


『生体情報への接続を許可されていないため、状態を確認できません』


「自分で言うよ。頭痛は少し残ってる。左肺に軽い傷。左足の神経疲労が強い。でも、回復してる」


『痛みは?』


「胸と頭が少し。左腕は傷がないのに、まだ焼ける感じがする」


『私の左主翼損傷に由来する感覚です』


「グライフの翼は?」


『表面装甲を交換しました。機能に異常はありません』


「よかった」


『リサは、私を心配していますか?』


「当たり前でしょう」


『喜びを検出できません』


「音声だけでも分かるでしょう?」


『推定は可能です』


「じゃあ、推定して」


短い沈黙。


『リサは、私の無事を喜んでいます』


「正解」


端末の光が強くなった。


「グライフ」


『はい』


「九十八・二パーセントのとき、怖かった?」


『はい』


迷いのない答え。


『リサと私の境界が消えることを、私は望みました』


胸が小さく揺れる。


『同時に、リサが戻れなくなることを恐れました』


「私も」


あの瞬間。


グライフの翼が自分の翼だった。


機体の力も、広い視界も、全部が私たちだった。


あの感覚を、また知りたい。


そう思う自分がいる。


危険だと分かっていても。


「また深くつながりたい?」


『はい』


「私も」


『危険です』


「うん」


『それでも望んでいますか?』


「望んでる」


嘘はつけない。


「でも、今すぐじゃない」


『はい』


「強制されたくない。誰かの実験としてじゃなくて、自分たちで選びたい」


『同意します』


「そのために、秘密を調べよう」


『はい』


「一緒に」


『一緒に』


グライフの声が、少しだけ柔らかくなる。


『リサへ報告があります』


「何?」


『アルフォンスから、基地防護システムの監査記録が一方向回線で共有されました。本日の午前四時三十二分から午前六時十一分までに、あなたの医療記録とリンク記録へ、複数の外部アクセスが試みられました』


「兵器開発局?」


『一部は帝国兵器開発局です』


「一部?」


『アークライト連邦内の研究機関、二か所』


中立国。


帝国と王国の双方へ兵器技術を輸出している国。


『セレスタ王国軍情報部と推定される経路、一か所』


敵対する王国。


「どうして、私の情報を?」


『九十八・二パーセント到達時、追加処理層が神経同期情報を暗号化し、基地の試験用テレメトリー回線へ偽装して外部送信されました』


「外へ漏れたの?」


『意図的に送信された可能性があります』


「誰が?」


『追加処理層です』


知らない誰かがグライフの中へ埋め込んだ仕組み。


私たちが限界へ到達したことを、外へ知らせた。


『アクセス要求には、共通する識別語が含まれていました』


「何て?」


端末の青い光が一度だけ揺れる。


『回収対象』


身体が冷たくなる。


「回収……」


『対象識別番号、L‐01』


私の番号。


人の名前ではない。


兵器の部品につけられるような番号。


『そして、もう一つ』


「何?」


『XF‐99R‐000』


グライフの型式番号。


『各組織は、リサと私を一組の対象として認識しています』


帝国兵器開発局。


アークライト連邦の研究機関。


セレスタ王国軍情報部。


私たちが飛んだことで、誰かが目を覚ました。


あるいは、ずっと待っていた。


九十八・二パーセントへ到達する瞬間を。


『リサ』


「うん」


『あなたを回収させません』


グライフの声は、冷たく、明確だった。


「グライフもだよ」


『私は兵器です』


「私の大切な相棒」


もう迷わず言えた。


「誰にも渡さない」


青い光が、強く灯った。


『約束を記録しました』


事故から一年。


辛い治療を受けた。


失った身体を取り戻した。


歩くことから始め、墜落の恐怖に震えながら、もう一度飛行訓練を受けた。


そして、モルモットと呼ばれる部隊で、私は新しい翼と出会った。


地上から七・四センチ。


一メートル。


五メートル。


十メートル。


百メートル。


少しずつ高くなり、少しずつ遠くへ進んだ。


今日、私とグライフは、誰も予定していなかった九十八・二パーセントまでつながった。


目指していたわけではない。


記録を作ろうとしたわけでもない。


地上に残された人たちを救おうとする中で、抑制装置を越え、私たちの接続は制御できない領域へ踏み込んだ。


九十八・二パーセントは、私たちが望んで辿り着いた目標ではなかった。


私の身体とグライフの中へ、誰かがあらかじめ仕込んでいたものが動き始める境界だった。


そして、そこは終着点ではない。


誰かが用意した実験の、開始地点だった。


私は端末へ手を触れる。


向こう側にグライフの身体はない。


神経もつながっていない。


それでも、この子がいると分かる。


「グライフ」


『はい、リサ』


「私たちは、実験体じゃない」


『はい』


「兵器として回収されるために、飛んだんじゃない」


『はい』


「私は、自分で飛ぶことを選んだ」


九十八・二パーセントへ到達することを選んだのではない。


誰かに用意された機能を目覚めさせることを望んだのでもない。


それでも、グライフと飛ぶことだけは、私自身が選んだ。


そして、この子も私を選んだ。


『リサ』


「何?」


『次に飛ぶときも、私はあなたを選びます』


窓の外には、メルクーア第九基地の空。


今はまだ、グライフ計画は凍結されている。


私も寝台から起き上がることを許されていない。


それでも、もう一度飛ぶ。


誰かに仕向けられたからではない。


未知の数値へ到達するためでもない。


軍の兵器だからでもない。


私とグライフが、それを望むから。


そして次に空へ上がるとき。


私たちを手に入れようとする者たちは、もう遠くから見ているだけでは済まないのだろう。


墜ちた空から立ち上がった少女と。


少女だけを選んだ黒い試作機。


その両方を奪うために。



グライフzero ー墜ちた空の少女は、モルモット部隊でもう一度飛ぶー


第1章 もう一度、空へ 終

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